風が揺らす木々のざわめき。
窓を打つ雨音。
獣たちの声。
鳥の羽ばたき。
………産声。
世界は音で満ちている。
目が覚めたのは夜明け前だった。
隣で寝ていたはずのシャドウがいない。
………もっとも、自分が起きる前に彼がすでに起きていて、身支度まで済ませているのはいつものことなのだが。
部屋を見渡しても、姿が見えない。
腕に残る甘い痺れ。
シーツに触れると、まだかすかに温もりが残っていた。
寝乱れた長い髪を軽く整え、脱ぎ捨てたままの衣服を身に着ける。
夜明けまではまだ時間がある。
今の時間に起きているのは、夜番の兵士と、厨房の下働きくらいのものだろうか。
昨夜の雨は上がったようだ。
暗闇になれた目を頼りに窓を開けると、雨上がり特有の湿り気を帯びた風が心地よく入ってくる。
空には雲がいくらか残っていたが、切れ目からは星の輝きが見えた。
しばらくの間、風を身に受けて天上を眺めていた。
真夏の雨、天の恵み、オアシス………。とりとめもなく心に浮かぶ。星々の瞬く音までもが聞こえてきそうだった。
風に乗って、人の声が聞こえてきたような気がした。
そういえばシャドウはまだ戻らない。
シャワーでも浴びているのだろうと思っていたが、それにしては遅い。
先ほど聞こえた声も気になる。
このフィガロ城に怪談の類はなかったと思いながら、シャツとズボンだけの軽装に剣を帯びて部屋を出た。
城内は静まり返っている。
気配と足音を殺し、勝手知ったる我が城を、風上の方角に向かって歩き出す。
愛刀に手をかけておくのも忘れない。
いくつかの部屋の扉を開けてみたが、人のいる気配は感じられなかった。もちろんシャドウもいない。
やはり声を聞いたのは気のせいだったのだ。そう思おうとしたとき。
また、聞こえた。
人の声には違いない、が………。
歌………?
はっきり聞こえたわけではない。
昼間の城内ならまず、気がつかないほどの小さな音。
途切れ途切れに届くその声には、悪意など感じられない。見えざるモノや不逞のやからなどでもないようだ。
そういえばこのあたりに隠し扉があったはずだと思い出す。
それを教えてくれたのは誰だったか。
果たして隠し扉はあった。
城の一番東側の部屋に出るはずだ。
城を外から見るとその部屋は簡単に見つかる。だがその部屋は入り口がない。
だからきっと誰もが、その手前にある部屋がその部屋だと思い込むだろう。
そして、そこは一般の兵士はおろか掃除のものですら立ち入らない場所なのだ。城内のものでも知っている者は少ないはずだ。
長い階段を上りきると扉越しに、今度ははっきりと歌が聞こえた。
………シャドウの声が。
彼の歌など、初めて聴いた。
低く艶のある、彼の声。
毎日、毎晩のように耳にする声とは違う、新たな魅力。
扉を開けようかどうか迷っていると、歌が途切れた。
気づかれたようだ。
「入ったらどうだ、エドガー」
お前の城なのだから、と扉は内側に開かれた。
夜明けが、近い。
「こんなところにいたのか」
この問いにいつもの微笑み―――――唇の端だけで笑う―――――で答えたシャドウに、バルコニーに誘われた。
「雨がやんだからな」
シャドウは手すりに背中を預け、こちらを向く。
かすかに白み始めた空に、黒い衣服を寛いだ様子に着込んだシャドウが浮かび上がる。
「どうやってこの部屋に?」
「気になっていた。どうやったら、ここに来られるか。だから、ここから入った。隠し扉だったんだな」
「………壁を登ってバルコニーから、か?」
「ああ」
シャドウなら難なくやってのけるだろう。事実、彼はここにいる。部屋がきれいに片付いていて空気もよどんでいないことから、彼が何度かこの部屋に来ていることが知れた。
「どうしてここに?」
「………ここが一番、夜明けに近いからな」
一度、見せたかった。彼はそう言った。
賭けだった、とも。
「雨が降り続いていたらだめだった。お前が気づかなくてもだめだった。気づいても、ここにたどり着かなかったら意味がなかった」
「言ってくれればいいだろう」
「………それでは意味がないんだ」
東の空に向かって、シャドウが再び歌いだす。
夜明け前の青さと、大切な人への思いの、歌。
「ほら、お前の色だ」
太陽が昇る寸前の、世界を包む青い闇。
それが、俺の色………?
離れたく、ない、って………?
太陽が、昇り始めた。
ふらふらとバルコニーの手すりに近寄る。
眩しくて、目を開けられない。
隣のシャドウが、頬に触れた。自分が泣いていることに気づいた。
涙?
たぶん俺は、生まれて初めて心から、生まれてよかったと思ったんだと思う。
隣にいるのがシャドウで、彼が歌ってくれたのが嬉しかった。
俺以外の誰にも見せない、一面。
俺以外の誰にも聞かせることはない、歌。
そっと俺の涙をぬぐいながら、彼は言った。
「誕生日、おめでとう」
世界は音に満ちている。
俺を呼ぶ、彼の声。
恋人の歌声、甘いささやき。
抱きしめた彼の鼓動。
吐息。
そのすべてが。
世界は、愛の音で満ちている。
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