大学生になって、隠れ家みたいなバーで週3のバイトを始めてすこし。
常連客の顔と名前と好みが一致して、なんとなく雑談なんかもできるようになってきた。後輩もできて、ちょっとだけ時給も増えた。
そんなころ、時々店に来てくれる男性ふたり連れがいた。
ずっと前からの常連客で、でも数か月に1度くらいしか来ないから、ぼくの出勤となかなか被らなかったようだ。
ひとりは、手入れされた長い金の髪に青いリボン、時々、眼鏡。もうひとりは、短く整えられたプラチナブロンドにいつも黒い服。
エドガーとシャドウという名は、初めて会えた時に教えてもらった。昔読んだ漫画に出てきた太陽と月みたいなビジュアル。
エドガーさんはスタッフによく話しかけてくれたし、ほかのお客様とも会話しているところをよく見かけた。
シャドウさんもそれなりに顔見知りが多いらしく、エドガーさんほどじゃないけれど、声をかけられていたようだった。
おふたりはどういうご関係で?
なんて質問に、同僚だと返答されたけど、たぶんそれだけじゃないんだろうなって思ったのを覚えている。
血のつながった家族や兄弟にしては似ていないし、友人にしてはエドガーさんのシャドウさんに対する話し方は丁寧だし、恋人……にしては、驚く程にそんな雰囲気が薄い。
そもそもどんな仕事してるのか想像がつかない。あとでこっそりマスターに聞いてみたら、不動産業など手広くやってるらしいとは教えてくれたけど、仮にどんな関係であっても詮索するようなことではないと窘められてしまった。うん、それは全くその通り。
ただ、なんとなく、いいなあと、思っただけなのだ。
全然タイプが違うふたりが数か月に一度一緒に飲みに行く、という関係が。
家族でも友人でも職場の同僚でも恋人でも何でもいいけど、その関係が、長く続いているというのが、すてきだなと思っていた。
うちには父親がいなかったから、大人の男性を見ると、何となく憧れてしまう。
いちどだけ母さんに、父さんってどんな人? って聞いたことがあるけど、もう会えない人の話はしたくないと言われたっけ。
でも母さんは、父さんのこと嫌ってないに決まってる。
写真一枚見たことがないけれど、左手の指輪を外したことないし、いつだって母さんはぼくのこと、父さんにそっくりだねって抱きしめてくれたから。
ふたりはいつも遅めの時間に訪れて、2時間ほどで帰っていく。
エドガーさんが軽めのお酒を――といってもそれはシャドウさんのお酒の度数に比べてというだけで、まあまあな強さがある――を2〜3杯干す間に、シャドウさんが1杯ゆっくり、というようなペース。
リーズナブルな居酒屋とは違いべろべろになってしまうお客様を見ることはそうそうないけれど、これほど顔色が変わらないお客様を見るのも珍しい、と思っていた。
たまにもうひとり連れがいることがあったけれど、テーブル席はその時だけで、ふたりはいつもカウンターの左端に座っていた。
マスターは、いつ来られるかわからないふたりのために、どんなに店が混んでもその席だけは空けていた。
そのくらい店にとって大事なお客様なのだとしばらく経ってから気付いた。
大学卒業と同時に地元に帰って就職すると決めていた。
最後の1年は何だかんだと忙しく、週3だったバイトは2日出られれば良い方になり、辞めることを申し出たにも関わらずなにかと物要りだろうからと雇い続けてくれたマスターには感謝しかなかった。
結局最後の1年間に、顔見知りのお客様に一通りご挨拶できたが、エドガーさんとシャドウさんには会えずじまいだった。
でも、最後の出勤の日、マスターから手渡されたのはおふたりからの餞別。マスター経由でぼくの職が営業になると聞いていたのだろう。
今の自分では買えないような万年筆とネクタイだった。ただのバイトになぜここまでと、口に出ていたらしい。
君がここのバイトだからだよ、とマスターは言った。
「エドガーさんは、ここのオーナーだからね」
地上7階、地下2階の雑居ビル。
ろくに看板も出ていないこの店が入る建物、中に入っているテナント各社、警備会社、そのすべてが、エドガーさんの持ち物だった。
シャドウは、火が付きそうなきつい酒をキンキンに冷やして飲むのが好きだった。
ビールは水だと、いつかお中元でもらった500ml缶のケースを2日で開けていたことがあって、さすがに引いた。
酔いたいわけではなく、単純に好みを追いかけた結果度数の強い酒にたどり着いた、そんなことを言っていた。
彼の好きだった酒が、のどを焼く。
久しぶりに会った知人が、短い髪も似合いますね、と言ってくれた。
「今日はあのひとはご一緒じゃないんですか? もうずいぶん前になっちゃいましたけど、お礼も言えなかったので。その節はありがとうございました。あの万年筆、ここぞというときに使ってます。あれで取れなかった契約、ないんですよ!」
すっかり営業マンが板について嬉しそうに話す彼は、そういえば俺たちの素性を知らないのだったか。
バーのマスターにやんわりと、その話は、とささやかれて、いつもならうまく空気を読めるはずの営業のエースは地雷を踏んだのかもしれないと冷や汗をかいた。
知らぬ仲でもないし、いい機会だと思った。
いろいろ端折りながら、俺とあのひとの関係を話すことにした。あの頃は話さなかったことたち。
子供のころのこと、再会してからのこと、いままでのこと。
当然、いわゆるお付き合いをしていたことも。
――あのひとが欲しいって言ったんだ。そういうのすごく珍しくてね。だから、あげちゃった。
普段から、何も欲しがらないひとだった。
というか、欲しいものは自分でどうにかするひとだったから、いざプレゼントしたいと思ってもなにを贈れば喜んでくれるか頭を抱えた。
おれが欲しがる暇なんてないよ、いつだってもらってばかりだと、よくあのひとは言った。これ以上欲しいものはない、と。
俺がねだればなんでもくれるくせに、そういつかの寝室で拗ねてみると、そうしてやりたいから仕方がないな、って大人の余裕で微笑まれて、調子に乗ってもう一回をねだったことがある。それをわかってて受け入れてくれた。俺は欲しがってばかりだった。
――急にさ、お別れだって、言われたんだよね。
他に好きな人ができたのかって聞いたら、そうじゃないって。
じゃあなんで別れなきゃならないのかって思ったら、よくわからないけれど「どこに行くの」って聞いてた。
そうしたらあのひと、「どこなんだろうな」って。意味わかんなくて胸倉つかんで問い詰めちゃったよ。
現代の医療ではどうにもならないような病気があるらしい。
苦痛は一切なく、ある日を境に徐々に衰弱し、死に至る病が。
発症には個人差があるが、そうなったら、長くはない。
――ちょっと難しい病気でね。
いよいよもうどうにもならないってわかったから、ようやく話す気になってくれたんだって。あのひとらしいよね。
秘密が多いっていうか、聞くまで話してくれないっていうか。猫みたい。
自身の病気のことを知っていたのかと尋ねると、「ああ」とだけ返ってきた。
いつからかと問えば、初めて出会ったときにはもう知っていたという。
ここに来たのなんてつい最近じゃないかと言ったら、もっと前だという。
初めて会ったとき、それはつまり、彼がまだ現役の傭兵であり、彼の相棒がまだ生きていたころの話。
俺が子供のころに一度会ったことがある。ビリーはそのことを知っていたのかと問おうとしたが、やめた。
知っていようがいまいが、あの人はもう、いないんだから。
――思えばあれがさ、あのひとなりの、最上級の愛情表現だったんだろうなって。
何も言わずに、私の前から居なくなっても良かったのに。
何もなければ、ずっとそばにいてくれるつもりだったんだ、って。
彼が持つ、俺では埋められない喪失。
彼はそれを埋めたいとは思わなかっただろう。俺や他のだれかで埋まる程度の存在ではなかったはずなのだ。あの人は。
でも彼は許してくれた。
あの人と同じ椅子には誰も座らせられないけれど、反対側の、彼に一番近い椅子に俺が座ることを。
俺の隣に座ることを、望んでくれた。
――最期まで、一緒にいさせてくれた。
何か俺にできることは? したいことは? ほしいものは? と何度も聞いた。
いつも何もないとしか返ってこなかったが、ときどき調子がいいときは、飲みに行きたいと言われて連れ立ったり、一緒に散歩したり、地下の射撃場で思い切り弾丸をばらまいたりした。
その減った酒量に、切れる息に、的を外れる弾丸に、確実にやってくるその時の影を見た。
かつて、惰性で伸ばした髪を切ろうとしたが彼があんまり浮かない顔なのでやめた。
曰く、きれいなのにもったいない、あまり短いのは残念だ、と。せいぜい揃えるくらいしかしないようにしていた。整えながら、伸ばし続けた。
いつからか、どうかこの時が少しでも長く続きますようにと願わずにはいられなかった。
「お前の髪、持って行ってもいいか?」
彼はそう言った。
ベッドに横たわる彼の枕元に立ち身をかがめると、長く伸びた金の髪が、ちょうど彼の左頬をかすめる。
一言も聞き漏らすまい、その一心で口元に耳を寄せると、そっと腕が伸びてくる。
もはや自分の腕を持ち上げるのすらままならないはずなのに、シャドウはエドガーの頭を抱き寄せ、その頬に唇で触れた。
そうしようと思ったのか、結果的にそうなってしまったのかはわからない。もうシャドウの双眸は、エドガーを映してはいない。
エドガーを抱きかかえたまま、そのぬくもりだけを感じてシャドウは続ける。
「ビリーが、待ってる」
「うん、そうだね」
そう相槌を打ってやると、ふふ、と力ない笑みが返ってきた。
「お前が、俺の、守護天使だって、言っていた。だから、俺が、ひとりでも、いけるように、あかりが欲しい」
「うん、わかったよ」
「お前のその、陽の色の髪が、ビリーのところに、迷わないように、つれて、いってくれる」
切れ切れに紡がれる最期の言葉たち。
嫉妬心は抱かなかった。このひとがビリーを忘れたら、それはもう俺の愛するシャドウではない。
あの人ごと、このひとを愛してきたのだ。
「ずいぶん待たせた」
「うん」
「俺も、待つから、あまりはやく、来るなよ」
「うん。あの人と、たくさん話があるんだよね」
「だから、ゆっくり来い。迷ってもいい。迷ったら、迎えに行く。髪を伸ばせ」
「わかったよ」
「あいつのこと、気にかけてやってくれ」
「うん」
「エドガー、ぁ……」
「うん」
私もだよシャドウ。
最後の言葉はもはや音にならなかったが、エドガーにだけは、確かに届いた。
最期の最後にその名を呼んでくれた。
それだけで、十分だった。
束ねた髪をざっくりと切り落としたとき、それがエドガーの埋まらない喪失の始まり。
最愛のひとからの消えない贈り物。あのひとだけが座れる椅子。
――あの万年筆、まだ使ってくれているんだね。
青年は、静かに涙を流しながら話を聞いていた。大事にしています、大事にします、彼はそう言ってくれた。
あの万年筆を選んだのは、シャドウだった。営業職ならサインすることが多いだろう。
その時にちょっといい万年筆、それも見る人が見ればわかるような代物であれば、ましてそれが贈られたものであると知れたならば、その営業のひととなりがわかるというものだ。
若い人が持つにはちょっと高価すぎるように見えて、年上の社会人からの贈り物としては期待されていることがわかるような、そんな微妙な要望を文具店の店員は、万事心得ておりますといった絶妙さ加減で叶えてくれた。
そのことを伝えると、そうなんです、と青年は微笑んだ。初めての契約がうまくいったのはそのおかげだという。
「いつも、いいものを持っているねって言われるんです。バイト先のオーナーから就職祝いにいただいたんだって話をすると、みんな、笑顔になってくれるんです」
良いものだよ、大事にしなさい、信頼のあかしだ、みな口々にそう言う。
胸元からそっと取り出された万年筆は、年を経て、さらに貫録を増し彼を支え続けるだろう。
ご両親は健在なのかと、すでに知っていることを何食わぬ顔で尋ねる。
「母は元気にしています。実は、父親のことは何も知らないんですよね。母が話したがらなくて。でもぼく、そっくりらしいです」
バイトに応募してきた大学生の履歴書。その顔写真は、シャドウのかつての相棒、ビリーに瓜二つだった。
他人の空似に違いないとは思ったが、それはそれとして身辺調査を行った。
結果、彼はビリーの血を引いている。
恋人に妊娠が発覚、婚約して、任務に就き、命を落とした。よくある話だ、シャドウはそう言った。
ビリーには、相棒に今後を頼むだけの時間が残されていなかったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
恋人ができただの、この任務が終わったら結婚するだのは、いつの時代も死亡フラグとして忌避される言葉たち。
あえて口にしなくても、その時が来るときは来る。今となっては、どうだったかわからない。
「君が望むなら、調べてもいい」
考えたことがなかった、そんな表情を浮かべた彼にそういう仕事もしていると告げると、「母が望んだら」とだけ返ってきた。
「ぼくの父親である前に、母の恋人ですから」
彼の母親もまたビリー以外では埋まらない喪失を抱え、その寂しさや痛みをも彼からの贈り物として大事にしているのだと思いたかった。
髪を伸ばす。
いつか、あのひとと同じところに行くために。
彼だけが満たしてくれる空虚を抱えて。
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