戻ったはずの彼がいない。
そこにあるのは、なにかに濡れて乾いた、彼が着ていた上着。
部屋に微かに漂う、金属臭。
バルコニィにいることが知れた。
「ずいぶん様になってるな、うまいか?」
星明かりの中、彼の髪が血で濡れ固まっているのがわかる。
よく見れば、彼のズボンも汚れている。
「いや」
「では何故?…とは前に聞いたな。さっさと風呂に入って洗い流してこい。血のにおいは好きじゃないんだろう。わざわざ煙草で隠すこともないだろうに。…そういえばこれも前に言ったか」
「…………」
「以前ははぐらかされたが、一種の儀式みたいなものか。
まあ、煙草を吸うおまえは、嫌いじゃない。煙草は嫌いだが」
「…………」
返事の代わりか知らないが、彼は最後の一吸いを終えて細く紫煙を吐き出した。
彼は今日も生き延びた。
けれど。
「次はないかもしれない。でもまだ生きている。
…だからこそなんだろう?」
「…そうかもな」
生きて帰って来た。
彼と、見たこともないありとあらゆる神に感謝した。
さっきまで煙草を持っていた彼の右手を取り、口づけた。
彼ならばやり遂げるだろうと確信してはいたが、命のやり取りは、何が起こるかわからない。
「おかえり」
「…あぁ」
「…血のにおいはしないんだな。煙草が微かに香ってる」
「…どちらも、変わらない」
「…そうだな、血に染まった分、煙草が香る。それだけのことだな」
「ああ、それだけのことだ」
風呂上がりの彼からは、血はおろか煙草の香もしない。
ただ、もしかしたら、それほど遠くない死の芳香がするのかもしれない。
願わくは、砂漠に降る雨が洗い流してくれんことを。
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