alcohol and milk
雨が、降り続いていた。
ここ数日、しばらくこの天気だった。
雨足は強くなく、風もない。しとしとと、静かで単調でどこか眠くなるような調子の音。
それが、殊に夜であれば、尚のこと。
わたしはその夜、小雨の中を独り、歩いていた。
雨具に水が落ちてくる。
その感覚をどこか遠くで感じながら、ふと、俯けていた顔を上げた。
霞むような視界。落ち続ける雨滴の向こうに立ち並ぶ、何軒かの店。
その内の一つの戸口で、女の人が顔を出していた。
彼女は雨の夜空を仰ぎ、立ち込める暗い雲を恨めしそうに見上げている。
直ぐにそれを止め、表の戸に掛かっている 『 OPEN 』 の看板を 『 CLOSED 』 に引っくり返して、彼女はまた店の中に戻った。
それを見届けてから、わたしは辺りを見た。
他の店は皆もう閉店していて、灯りも点いていない。
とうに深夜の刻で、日付が変わってから数時間が経とうとしていた。
彼が居るとするなら、今の店しかないだろう。
わたしはその扉の前まで行くと、そっと、戸に手を掛けた。
中では既に、後片付けが始まっていた。
テーブル上の空瓶、グラス。何枚も重なる皿。
それらを運んでいく若い女性は、さっき目にした人だ。
それとはまた別の人が、卓上のこぼれた液体を布巾で拭いていたりする。
薄暗い照明。全体的に重い、セピアの色に沈んだ店内。ずっと居たら目がおかしくなりそうな気がした。
よくこんな環境の中に何時間も居られるものだ。
雨の滲みこむコートのフードを下ろしながら、辺りの様子を見回す。
そう広くない空間、窓際一番奥の席にある黒い影。
それを認めてから、わたしはカウンターの方へと視線を転じた。
この店の主であるらしい初老の男性が、洗い物をしている。
店主もまた、黒い影の方へと視線を送っていた。どこかしら苦いものを含んだ表情。
早く帰ってくれないだろうか、と思っているんだろうなと想像した。
普段なら客へ声掛けすることなど慣れているのだろうが、しかし、彼には話しかけにくいものがあるのを感じ取っているのだろう。
わたしは戸に付けられた鈴を出来るだけ鳴らさないよう静かに入ってきたので、店主はすぐには、わたしの存在に気付かなかった。
ようやくわたしを目にすると、彼は申し訳なさそうな顔で首を振った。
すみませんが、もう店仕舞いなんです。目がそう言っていた。
わたしは窓際の方向を指して、あの人の連れだと伝えた。
店主は眉を片方だけ上げ、影の方とわたしとを何度か交互に見やった。
訝しく思ったらしかった。無理もない。傍から見ればわたしと彼の間には何の接点もなく、行動を共にしているなどとは想像もつかないらしいから。
わたしはそれは気にせず、出来るだけ早く連れて帰るので、後もう少しだけ待っては貰えないかと小声で告げた。
ほんの数瞬ほど考え込んだように見えたが、結局店主は何も言わずに肯いて、どうぞ、と言うように頭を下げた。
わたしと彼が本当に知り合いであるのかどうか、まだ疑わしそうにしてはいたけれども、店主にとっては早々に仕事を終える事が出来ればそれでいいのだ。
わたしは自分用にミルクを頼んで、それからそちらへ向かった。
壁にピッタリとつけられたテーブルの、空いている側の席に着く。
窓からは外の様子が窺えた。
雨はまだ、降り続いている。
彼と視線を交わすことなく、わたしは頬杖をついた。
彼もまた、わたしを見るわけでもなく杯をただ揺らすのみ。
近くに来てみると、彼からはアルコールが濃く匂った。かなり呑んだのだろうか。
その酩酊を覚えそうになるものの中に、 『 シャドウ 』 という人物の香が微かに混じっている。嗅ぎ慣れたその匂い。鼻腔にそれを感じながら、わたしはゆっくりと彼に視線を泳がせた。
片手の杯を傾けて、彼はそれを呷った。氷の擦れる、カラリという何処か乾いた音。
それで最後かと思ったが、傍らのボトルにはまだ中身が残っていた。
彼はそれをまた注いだ。
わたしは小さく溜息をついた。チラと見た向こう、そこに居る店主も同じ行動をしていた。
タイミングよくかどうかは判らないが、女の人が先程頼んだミルクを持ってきてくれたので、わたしも一口、口に含んだ。
これを飲み終えるまでに、彼も呑み終わればいいなぁ。そう思いながらまた、わたしは窓の外を見た。
雨はまだ、降り続いている。
両手でミルクのコップを包み込みながら、もう一度彼に目を向けた。
相変わらず素知らぬふりで呑み続けている。酔っているのだろうか。この人がそうなっているのを見たことがないのだが。そんなことを思いながら、ぼんやりと彼を見つめた。
彼はとても静かに、そこに存在していた。
天井からの淡い照明が、彼の顔に陰影を落としている。彼が小さく身じろぎすると、それも微妙に動きを見せた。けれど、その目の光は変わらない。わたしは、彼をただ見つめ続けた。
もしわたしが「早く帰ろう」という意思表示をしていたなら、彼はきっとそれに従ってくれていただろうと思う。本当はそうするつもりだった。
けれどなんとなく、そうする気が失せてしまっていた。もう少し此処で、彼を見ていたい。そう思ってしまったからだろうか。
わたしはまた、彼を見た。
どちらもまだ言葉を発していなかった。だから、わたしは最後まで何も言わないで此処を出ようと考えていた。何故、ということもない。ただ特に理由も無く、つまらない意地を少し張ってみようかと思っただけだった。
なのに、しばらくの後にポツリと一言、言葉をこぼしてしまったのはどうしてだろう。
自分でもよく判らなかった。本当は言うつもりではなかったのに。
『 今日はわたしの誕生日なのだ 』 と呟いたのが、彼には聞こえただろうか。
ひどくゆっくりと、時間が流れたような気がする。
世界の中からこの場所だけが時の流れから切り離されて、別の次元に放り込まれたような、そんな錯覚に陥りそうになった。実際にそんな事があるはずはないし、そう思っているのはわたしだけなのかもしれないが。けれどもなんとなく、そう思った。
見たところ、向こうの反応はなかった。聞こえていなかったのかもしれない。それでいいと思った、彼には関係のないことなのだから。
わたしは残り少ないミルクを飲み干そうとした。
ずい、と彼のグラスが突き出された。
わたしは彼を見た。向こうもわたしの方に、無言で目を向けている。少なくともその目の表情はしらふに見えた。しかし幾らそれにしても、この期に及んでまだ呑むというのか。注いで欲しいのなら、この残り僅かなミルクを注いでやろうか。
実行しかけて、しかし、既に彼のグラスには目いっぱい液体が入っていた。いつの間にか自分で注いだのか。しかしだったら、これは何の真似なのだろうか。
わたしは見当がつかずに、首を少し傾げてみせた。
彼は顎でしゃくって、わたしのミルクの入ったコップを指した。
理解に、もう少し時間が必要だった。
ようやく意味が判った時には、え、と思ったけれど、直ぐに自分の口元に笑みが浮かぶのが判った。
わたしは、自分のコップを軽く掲げた。
彼も、自分のグラスを改めて掲げた。
互いの杯を、カチン、と触れ合わせた。
わたしは口の中で、ありがとうを告げた。
それから、無言での祝杯をそれぞれに呷る。
カウンターでの店主の、再びの溜息が聞こえていた。
表に出て、パシャ、と水溜りに足を踏み入れかけた。
足を引っ込めて、ふとその波打つ水面に、小さな光の点が散らばっているのに気が付く。顔を上に向けた。
雨はいつの間にか上がっていて、天には多くの星が瞬いていた。
少しそれを眺めて、それから思った。
もしかしたらこの中には、雨雲に隠れていたこの数日の間に生まれた星だってあるかもしれない。そう考えると何故か、嬉しくなる。何故なのかは判らないけれど。
彼が、動こうとしないわたしを呼んだ。
返事をして、それからもう一度だけ空を仰ぐ。
きっと今日は、いい天気になる。そう思える、晴れた夜空が広がっていた。
誕生日のお祝いと、以前頂いた夢のお返しも込めて。
きあ様へ、捧げます。
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