部屋の中からは、物音ひとつしないように思えた。
――もっとも、シャドウさんは普段から静かな行動を取る人なので、それも不思議じゃない。
或いは、そもそも在室ではないのかもしれないし、微かな音をわたしが聞き逃しているだけかもしれない。
どうなんだろう。彼は、今、居るのだろうか。わからない。
わたしは少し、その場に立ち尽くした。
彼に用があるわけではない。だから、戸を叩くつもりもない。
ただ――。
細く長く、何処までも伸びたファルコン内の通路。
各々のメンバーに振り分けられた個室が立ち並ぶその場所、そのうちの一室の前で、わたしは目を閉じた。
いつもなら聞こえてくるエンジン音、誰かの話し声、何がしかの生活の音。そういったものが何もない。
シンと不気味なくらいに静まり返った艇内、在るのは遠くから響いてくるような雨と風の音、ただそれだけ。
昨日から降り始めた雨、今朝、目覚めた自室から眺めた外の景色を思い出してみる。
今もなお、落ちる雨滴は勢いを弱めていないみたいだった、少なくとも、音を拾う限りでは(この通路には窓がないので、実際に今どうなっているのか正確な把握は出来なかったけれど)。
わたしは目を開け、シャドウさんの部屋の扉をもう一度仰いだ。
再び立ち尽くしかけて、けれどわたしはフラフラと歩き始める。此処にこうしていたって仕方がない。
ただの切なくて寂しい人になってしまう、独りでぽつりと、ああやって立っているのでは。
当てもなく、歩き回る。
個人部屋のルートを通り過ぎ、角を曲がり、しばらく先をまた曲がる。
ブリッジに上がる階段脇、その場所にセッツァーさんが居る。
何をするでもなくただ壁にもたれ、此処にはある窓、その向こうの空間を黙って見つめていた彼はわたしに気付くと視線をこちらに移した。
「セッツァーさん、どうですか、外」
「相変わらず、ってトコだな。まだ当分ファルコンを飛ばすのはお預けになりそうだ」
言いながら彼は窓の方を顎でしゃくった。
外の様子を覗き込んで見れば、わたしが思っていたよりも酷い嵐のようだった。
視界に入るのはサウスフィガロの街並み、そしてその街全体が激しい雨風に打ちつけられている。
樹木が大きく揺れ、申し訳程度に残っていた木の葉を風が容赦なく奪い取っていくのが見えた。
「……昨日、此処に停泊した時は晴れてたんで、こんなふうになるとは思ってませんでした」
「空は、気まぐれだからな」
ポケットから煙草を取り出し、一本を抜き出そうとしたセッツァーさんはわたしにふと目を留めて、何事もなかったかのようにそのまま煙草を元の場所に収めた。わたしが紫煙を苦手とする事を覚えていてくれたらしい。
手持無沙汰気味なのを隠すようにズボンのポケットに手を突っ込み、目の前の窓枠の形に切り取られた小さな外の世界を眺めながらセッツァーさんは話す。
「空ってやつの機嫌を読むのは結構、難しいぜ。さっきまでにこにこしてたかと思うと数時間後にゃ怒ってカミナリ落としたりな。アレだ、女の機嫌と似たようなモンさ。……しかしまあ何だ、複雑さにかけては後者の方がよっぽど上だと俺は思うがね」
そう言って含むように笑う彼は、けれど直ぐに笑みを消して続けた。
しかし世界が破けてからは、以前よりずっと空を読むのが難しくなった、と。
もしこのまま世界が狂い続ければ、いずれは空も本当に狂い、ファルコンが飛ぶ事も出来ない状況にさえなり得るのだろうか。
思ったけれど、テンションがこれ以上下がるのもアレなので口にはしなかった。
代わりに違う事を確認に訊く。
「……じゃあ、今日も此処で一晩過ごすかもしれないんですね」
「そう考えといた方がいいと俺は思うが。食べるモンなんかは昨日、充分に買い込んだんだろ?」
「はい。それはまあ、そうなんですけど」
サウスフィガロには食料物資の補給を目的に立ち寄ったので、その辺はかなり余裕を持って用意してある。
昨日の買い出し終わりには日が暮れていて、でも元々一晩は休んでいくつもりだった。
夜分には雨が落ち始めていたけれど、此処まで荒れるとは考えていなかった。
朝になってのこの状況に「出発できるのだろうか」と何人かが口にしていたけれど、実際「今日は飛べない」という操舵主の言葉を聞くと皆肯いた。
わたし達には従う以外にどうしようもない。
故に、実質、休日のような時間を今わたし達は過ごしている。
「ただ、幾つか買い忘れがあったんで。もし雨脚が弱くなってたら、街に下りようかなって思ってたんですけど」
「悪い事は云わねえ。やめとけ。もっと荒れるかもしれねえし、ヘタすりゃ街に下りたまま戻ってこられなくなるぞ」
――。
「……うーん、そうですよね。この雨じゃしょうがないですし、部屋で大人しくしてる事にします」
言って、セッツァーさんに手を振り踵を返した。
表面は平静を保っていたけれど、内心ではズキリとした痛みを感じていた。
戻ってこられなくなる。
何気ない言葉が、妙に怖い言葉に聞こえて仕方なかった。
来た道を逆に辿り歩いていると、さっきまで居た場所へと戻ってくる。
シャドウさんの部屋の前。
彼は、今、何をしているだろうか。
手を扉に伸ばしかけて、止めた。引っ込めた。
シャドウさんに用があるワケではない。そういうのじゃないのだ。
ただ――。
わたしは引っ込めた手で顔を覆った。
何をしているのだろう。時々、自分がよく判らなくなる。
わたしは何をしたくて、どうしたいのか。それが時々、自分自身で判らなくなってしまう。
頭を何度か振って、わたしは更に向こうの自室へと向かった。
強い雨と風の音は、一層強まっているように思えた。
嵐の音が未だ続く中、しかし、ノックの音ははっきりと聞こえた。
ドアを開けると、長い金の髪を腰まで垂らした娘が立っていて此方を見ている。
俺は黙って彼女を見下ろした。
「休んでるところ、ごめんなさいね」と、ちっともすまなそうではない様子で向こうは話し始める。
「を見なかったかしら、シャドウ。お茶を淹れたから彼女にも、と思っての部屋に呼びに行ってみたんだけど、姿が見えないものだから」
「いや」
かぶりを振って「知らん」と続ける。
幾分当てが外れたといった具合に「そう」とセリスは呟き、微かに首を傾げた。
「何処に行ったのかしら。この雨だし、サウスフィガロに向かったわけでもないと思うけど……」
「心配するな。夕食までには戻るだろう」
端的にそれだけを言うと、セリスは一瞬妙な顔をした。
俺の背後、部屋の中の方へと目を一度だけサッと走らせ、それからまた此方を見て、何かに気付いたかのような心得顔になると独りで何度も肯いた。
「――シャドウがそう言うのなら、そうなんでしょうね。邪魔をしたわ。ありがとう、それじゃ」
ひどく納得した様子の彼女を見送りきらず、ドアを閉める。
鍵を閉めてしまうと、部屋の中は再び静寂が訪れた。
インターセプターがベッドの傍らで座したまま此方を見守っていたが、俺が肯くとさっきまでそうしていたように身体を横たえ目を閉じた。
部屋の中は、まるで暗い水中に沈み込んでしまったかのようだった。
淀んだ空の微かな光だけが窓から忍び込んでいる。明かりを点けるつもりもなかった。
窓に当たる雨は激しく、まるで水が波紋を描くように流れていく。
それが光を透かして、床に同じ模様をうっすらと映し出している。まだ嵐は止みそうもないようだ。
ただ雨風の音と仄暗い色彩だけが在るこの部屋で、ソファの前で、俺はそいつを見下ろした。
は胎児のように身体を丸くして、やわらかく目を閉ざしている。
眠っているのだろうか。つい先程までは起きていたはずだが。
ソファの上に沈んでいる身体、微かにその胸が上下して呼吸しているが、彼女は寝ている時もただ目を瞑っているだけの時も、同じような静かな呼吸をする。直ぐに判別する事が出来なかった。
軽く投げ出された手、緩く握りこぶしの形をとったその手の中に、手袋を外した自らの指先を挿し入れた。
こうすると小さな子供が眠ったのか、それとも寝たふりをしているだけなのかどうかがその手の温度で判るのだと、遠い昔に幼子を抱いたある者から教わった。もっとも、それが子供とは言えない年齢の者にも通用するのかどうかは訊かなかったが。
朧げな記憶にある知識と指を挿し込んだ時の反応の無さから、彼女は眠ったのだと俺は判断した。
身を退くと、傍のベッドに腰を下ろす。
が変わらず身じろぎもしないままでいるのを見ながら、俺は彼女の事を考える。
部屋の扉を開いた先にが居ることは気配で判っていた。
開けたその先、自室に戻るつもりだったのかは少し離れたところに立っていて、驚いた様子もなく俺を振り返った。
「どうした」
「……いえ。何も」
そんな問答を交わしたが何もない筈はなかった。
そうでなければ、安堵と不安、そして何かに対する畏怖の入り混じった表情をしている説明が付かない。
しかしは何も話はしないだろうと思った。そういう娘だった、彼女は。
喋る時はふつうに喋る。おどけてみせる事も、あどけなく笑う事も多いが、それと同時に思っている事を口にしない事も多い。独りで抱え込むきらいが元々あるのかもしれない。
こぼれ出る言葉もないまま立ち尽くすに、黙って部屋の中を指で示してみせてから退く。
刹那、迷ったようだったが、小さく頭を下げるとは大人しくついてきた。
そして、彼女は此処にいる。
部屋に通してから、ずっと、ソファの上で身体を横たえている。
俺はあらためてを見た。
ゆらめく雨の光に侵食された室内の中で、彼女も同じ色に染まっている。
消えてしまいそうだ。
そう思った。
普段そんな儚げな印象など抱いたことはないのに、今日に限ってそんなふうに感じるのは何故だろうか。
……そう、それは、そうなのかもしれない。
昨日の記憶で言うなら、買い出しに付き合わされ彼女と出店を回っていた時のこと。
例えば彼女が、商品のラベルに並ぶ文字を指し「読んで欲しい」と口にした時。
例えばと店主が値段の交渉を終え、世間話の終りに向こうが「出身はドマか」と訊ねたのに対し「そうです」、とそれまでと変わらない笑顔で答えた時。
そんな日常の一点一点で、彼女が遥か遠い地の人間である事を思い出す。
いつかは、その存在があった跡を残す事なく姿を消すのではないか。
考えて、しかし、それならそれでいいのではないか、とも思う。
自分の居た世界に戻ることは、この娘にとって一番の望みの筈だったではないか。
自分が何かを言う立場でもない。
そのように納得するのに。
なのに、自分の中に渦巻いているこの感情は一体何だ。
わからない。感情などとうの昔に捨て去ったつもりでいた俺には解せないものが、自らの内側に延々と居座り続けている。
もぞもぞと身動きするを見て、目を覚ましたのかと思った。
しかし彼女は身を更に丸めただけで、また静かに眠り続ける。
俺は立ち上がると、の前に屈みその身体の下に腕を入れた。起こさないよう持ち上げ、ベッドへと移す。
腕から重みが消えても、彼女の余韻は残っている。
俺は再び彼女を見下ろした。
は、確かに目の前に存在していた。
静かな呼吸、伏せられた瞼、横たわる身体、腕に残された彼女の体温。
いつ帰るべき場所へと帰るかは知らないが、いつかは自分の前から姿を消すかもわからないが。
けれど、今は確かに、彼女は存在している。それで充分だった。
ベッドの傍ら、その場に腰を落とす。
は今眠っているが、目覚めていた時には何を考え、何を抱え込んでいたのだろうか。
せめて今は、全てを忘れて安らかな眠りの中をまどろんでいれば良い。
俺は、そう思った。
わたしは夢をよく見る方だったし、内容を覚えている事も多かった。
今朝も夢をみた。
とても穏やかで平和なものだった、わたしが、元居た生活に戻っている夢。こちらに来る前までの暮らしを再び送っている。そんな夢を。
なのに、目覚めた途端、夢はひどく恐ろしいものにとって変わった。
あちらの世界に戻ったわたしは、シャドウさんの事を思い出しさえしなかった。
意識が覚醒してその事に気付いた瞬間、自分自身に愕然とした。
同時に、怖くてたまらなくなった。
わたしは突然この世界に放り込まれ、けれどそのおかげでシャドウさんと出会う事が出来たワケだけれども。
けれど、いつかまた突然、この世界からも姿を消す時が来てしまうのでは?
もし元の世界に戻れるのなら、それはそれでわたしの願っていた事のはずだけれど。
しかし、それでは、シャドウさんとは――
考えると、身体が強く脈を打った。
戻ってこられなくなるぜ。誰かのその台詞が、頭の中を何度もリピートする。
気付けばシャドウさんの部屋の前で立ち尽くしている始末だった。
情けない、しっかりしろ。此処でこうしてウロウロしてるなんて、ただの不審者じゃないか。
……うう、いやまあそれは、そうなんですけど。けれど今はただ、少しでいい、
……シャドウさんに会いたい。
そんな声を脳内で聞きながらとぼとぼ自室へ向かおうとした時、彼の部屋の扉が開いた。
シャドウさんは其処にいた。確かに。そこに。
それから…………それから、どうなったんだったか。
わたしはゆっくりと目を開けた。
天井。………でも、わたしの部屋じゃない。
ああ。そうだ、シャドウさんの部屋……、彼の部屋で、少しの間だけ此処にいさせてほしいとお願いしたんだった。
ソファの上でウトウトしていて、眠ってしまったらしい。
今は何時だろう、夕食当番は誰だったっけ。
それにそうだ、シャドウさん。彼は何処に――
体を起こそうとふと横を向いて、わたしは瞬間、硬直した。
シャドウさんの顔がすぐ傍にあったので。
目を閉じた彼は、沈み込むようにシーツの上に顔と片腕だけを乗せていた。
テンパりそうになったが何とか声は上げずに済んだ。
出かかった声をどうにかこうにか喉の奥まで呑み込んで、それからゆっくり、状況を確認する。
いつの間にか自分がベッドの上に居るのは、シャドウさんが運んでくれたんだろうなぁというのは察しがついた。そのまま彼も眠りに身を任せたんだろうか。
見れば、シャドウさんは身体だけベッドの脇に置き、そのまま半身を突っ伏すようにしながら眠っている。……眠って?
あ、と口の中で呟いた。
シャドウさんが、魘されていない。
いつものように汗をかいていたり、苦しそうな声をあげたりしていない。
その事にこころからホッとして、わたしは息を吐いた。
息をつくと少しだけ余裕が出来て、ふと、まじまじとシャドウさんの顔を覗き込んでみる。
瞼の下ろされたその顔は碧の瞳が隠されて、何だか別人のようにさえ思える。何より、穏やかさに満ちていた。
不思議だった。いつものとおり顔のほとんどの部分は黒布で覆われていて、違うのはただ一箇所、目を閉ざしているかそうでないかだけだというのに。
本当に近い距離、眼前でただぼーっとそれを見ていた。
何の前触れもなく、シャドウさんが目を開けた。
凍りついた。目が合った。
ただ見ていただけなのだが、それが何より恥ずかしい。思わず「あ……」と声をもらしてしまう。
今度こそテンパりかけた、けれど、シャドウさんはベッドの上に乗せていた腕を持ち上げると、わたしの上に其れをゆっくり伸ばした。肩をぽん、と叩かれる。何故か、小さな子供を寝かしつけるような、あやすような、そんな仕草みたいに思えた。
「……まだ、夕食まで間がある。もう少し寝ておけ」
ほんの少し掠れた、寝て起きた時特有の声で、シャドウさんは言った。
はい、の意味でこくりと肯くと、彼はそのまま、また目を閉ざす。
本当はもう少しシャドウさんを見ていたかった、けれど彼が言った言葉に従い、わたしも再び意識を沈める事にする。
夢も見ない眠りに落ちて、また目覚める時にはどうか、傍にいてほしいと思った。
わたしはもう戻れないのだ、シャドウさんがいない世界には。
胸が熱く、苦しいくらいに脈を打っている。なのに、同時に何故か心地よいとすら感じていた。
どきどきして寝付けないかと思ったけれど、想像に反してすぐに眠りに落ちそうだった。
大丈夫、次に目を開けた時にも、きっとシャドウさんは傍にいてくれるだろう。
そう思うとこころからの安堵がわたしの中に訪れた。
彼の体温をすぐ近くに感じながら、再びのまどろみがわたしを迎えてくれた。
遠くから響く雨と風の音が未だ続く空間の中、静かな時間はゆるやかに、わたし達の上に満ちている。
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