懐中時計を開いたのと、部屋の扉が叩かれる音を聞いたのはほぼ同時の事だった。
目を落とした時計盤、その上を秒針が狂いなく、正確に時を刻んでいく。
直ぐに時計を閉じ懐にしまって、ドアへと向かう。
その間にも再び、ノック。
日没後、決まった時刻、ノックの具合、扉の向こうの気配、全てがいつもと変わらない。
唯一違う事があるとするなら、それは。
「シャドウさん、夕ご飯持ってきましたよ」
ドアを開けると、トレイを両手にしたがこちらを見上げていた。
其れも毎回の事だが、今回は彼女一人ではなくもう一人がその隣に立っている。
にこ、とこちらを見て微笑むと、小さな少女は俺に白い陶器の平皿を差し出した。
「今日はリルムも食事当番なの。それで、これ、インターセプターちゃんにも作ったから、食べさせてあげてほしくて」
「だそうです。すごく美味しそうに出来てますよ、わたしにも分けてほしいくらい」
「美味しそう、じゃなくて、美味しいの! このリルム様が作ったんだから当然!」
互いに声に出して笑い合うのを聞いて、部屋の奥から相棒が小さく一吠えする。呼ぶと、インターセプターはすぐ足元までやってきて来訪者たちを見上げ鼻を鳴らした。リルムが一度と言わず、二度も三度もその頭を撫でる。
「まだ熱いから、ちゃんと冷ましてから食べるんだよ」。
そう話しかけるのを聞いて、も「ああ、そう言えば」、と声を漏らした。
「こっちもちょっと、まだ熱いままだと思うんで。蓋開けて、少し経ってから口に入れてくださいね?」
「……ああ」
ひとまず肯いた。リルムが手にしていたものと揃いの食器だったが、蓋を被せられていて献立はまだ何なのか知る由がなかった。直ぐわかる事なので、訊くまでもないが。
はその一言をいつもより多く付け加えただけで、やはり後は普段と変わりなかった。
「いつでもいいんで、食器は流しにお願いしますね」
「インターセプターちゃん、またねー」
言って二人の姿が廊下の奥へ消えるのを、少しの間だけ見ていた。
飛空艇での集団生活が始まって以来、彼女は毎回こうして俺の部屋へと食事を運ぶようになった。
頼んだ訳ではない。この船に乗る前から、人との食事の機会というものを出来る限り避けてきた自分を見ていたからか。朝、昼、夜、いつも、大体は定まった時間にやって来て、そしてそのまま戻っていく。
昨日も今日も、おそらく、明日も。
自室にストックしてある度数の高い酒、そのうちの一本を開け、グラスに注ぐ。
他にアルコールを好む者が手に入れてきた銘柄のものがあれば、其の日は夕餉と共に用意されてくる事もあるが今日はそうではなかった。トレイに載ってきたのは大きめの皿一つにスープと小鉢、其れにれんげと呼ばれる陶製の匙だ。
熱の伝わる上蓋を上げると、白い湯気が立ち昇った。
目にして直ぐに料理の名が浮かばない辺り、の世界の料理なのかもしれない。今迄にも幾つか、そういったものが出てきた事がある。今日のそれは、野菜や魚介類が何かどろりとしたものに和えられ、今なお熱を孕んでいた。
言われた通り僅かに時間を置き、熱が落ちたと思われる頃に匙を取り上げる。
一掬いすると再び湯気が内側から舞い上がったが、そのまま口に運んだ。
それまで黙々と静かな夕食を続けていたインターセプターが驚いたように顔を上げたのは、俺が咳き込んだのを耳にしたからだ。思わず戻しそうになるのを何とか堪える。不味いとかそういう理由ではなかった。あまりに口の中の内容物が熱く、焔の魔法を纏っているかのようだったためだ。
冷を求めて卓上に目を走らせ、視界に入ったものを一時に口内に流し込む。普段であればあり得ない判断ミスだったが、その時に俺はそのミスを犯していた。
手にしていたグラスの中の高いアルコール分、それもストレートを火傷の状態の部位に注ぐことがどういう事か。
考えるよりも早く、身体の方が動いていた。
栓を抜いたばかりの気に入りの酒は嚥下されることなく、噴霧となって中空に散った。
しばし咽込み、ようやく落ち着く頃にふと視線を感じて目線を下ろすと、ふいとインターセプターはそっぽを向いた。
先程までそうしていたように、食器に残った内容物の咀嚼を何事もなかったかのように再開する。
その皿の中身はこちらと違い、本当に熱が取れているのだろう。
それにしても何なのだ。それなりの時間を置いたというのにこの熱さは。
俺は目の前のものを見下ろした。掬い崩したところからはゆるゆるとまだ湯気が発せられている。
本当に魔法でも掛かっているのではないかとさえ疑いかけもしたが、魔力の欠片は微塵にも感じられない。
思わず嘆息するのと同時に、愛犬に向けられた言葉を思い出す。「ちゃんと冷めてから食べるんだよ」。
少し考えた後、もう一掬いしたものを見やる。息を吹きかけようとして、しかし再びの視線に下へ目をやる。
今度は目を逸らすのが間に合わなかったと見え、相棒とはしっかりと目が合った。
「…………見なくていい」
ぼそりと言うと、インターセプターは身を竦めるようにしながら首ごと角度をずらし目線を変えた。
冷えた水が必要だ。
持てる力の全てを動員し何とか全てを胃の腑に収め終わった後、残った食器と共に食堂へ向かう。
この時分ならほとんどがもう遊戯室、或いは各々の部屋へと戻る頃であり誰とも行き交うまいと思ったが、今日に限ってというべきなのか、食事場に近付くと複数の声と気配を感じ取った。
「ごっそーさん、美味かった!」
「お粗末さまでした。……多めにマッシュさんの分取っといてよかったです。今日はまた、いつもより沢山おかわりしてくれましたよね」
「トレーニングの後だからなー、やっぱり腹減るんだよな。でも悪かったな、晩飯の時間過ぎてたの気付かなくて遅く来ちまって」
声と会話から、とあの金髪の大柄なモンク僧だとわかった。
食器を下げ、コップに水を一杯汲んで戻るだけなので何も躊躇わず入ればよいのだが、何処か入りにくい。
その間にも二人の会話が続いていく。
「そう言えばあんかけでしたけど、ちょっと熱かったんじゃないですか? 大丈夫でした?」
「俺は大丈夫だけど。何、は熱いのダメなのか?」
「わたし、猫舌なんで。こういうの食べる時は熱引いてから食べるんです。……あ、下げますね、お皿。後は……シャドウさんの食器で最後かな」
「シャドウもたまには、皆と此処で食えばいいのになぁ。魔列車で食った時も、独りだけ別テーブルに着いてたし」
「そうなんですか」
何故か自分の名が出てしまっているため、いよいよ入りずらい。
「どうしても覆面下げる事になるからなー、やっぱりちょっとでも顔見えるの嫌なのかな。飯食ってる時に人の顔なんて見ないけどなあ俺は」
「……でもお酒飲む時とかは、普通に酒場とか行ったりしますよね。どうして食事の時だけだめなのかなぁ」
「実は他に何か理由があるんじゃないか」
「……例えば?」
「うーん、そうだなあ……。実はと同じでシャドウも猫舌で、それを知られたくなくて独りで食べてるとか!」
「それは…………ど、どうかなぁ……」
誰が猫舌だ。俺がそうなのではなく今回の料理が少々熱過ぎただけだ。
「でも、息を吹きかけて冷ましてる姿とか、想像するとかわいいかも……」。
そんな言葉が聞こえた瞬間、微かに口内に残る痺れにも似た痛みと共に、眩暈に近いものを覚え眉間に皺を寄せた。
未だ続いている二人の会話を後に、水を得ることも食器を置くこともなく、そのまま踵を返した。
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