引き攣れた喉からは、掠れた息の音さえも漏れ出てこない。
何度も何度も肺に空気を吸い込み、そして吐き出す。
乾いた喉の粘膜が、まるで焼け付くようだった。
激しく脈打つ鼓動が治まるまでの間は、いつも下らない思考が自分を支配する。
空疎な呼吸が行われるこの喉に、声というものは、音というものは残っていないのではないかと考える。
何時から繰り返されているかも判らないこの荒い息遣いが、俺の耳には全く届いてこないのだ。或いは、耳の方がどうにかなったのかもしれない。
どちらにしても、そうなっていてくれたらどんなに楽だろうかと思う。
もう耳障りな己の音を永遠に聞かなくて済む。


昼間といえど、光を遮断した部屋に訪れる偽りの闇は仄暗い。
時間さえ歪んでしまったかと思える程に、一刹那がひどく永いもののような気がした。
そしていつしか、俺は自分を取り戻している。
寝床から身を起こす頃には喘ぐ喉も落ち着きをみせ、同時に零れる音に嘆息を重ねるのだ。
声も耳もやはり生きていて、鼓膜が微かに振動を伝える。
数え切れないほど繰り返してきた蘇生の瞬間だというのに、それは今、確かに俺を打ちのめしていく。


不意に、自分の身体が細かな揺れを刻んでいることに気付き、俺は驚愕した。
震えているのだ。
まるでさざ波のような微かなものだが、それでも確かに、全身に震えが走っている。止めようとしても止まらない。
その事実が、自分でも信じ難かった。
この黒衣を身に纏うようになる以前でさえ、こんな事は無かったというのに。
自身に何が起こっているのか、直ぐには理解が出来なかった。
やがて震えも止まり、真に身体が正常になる頃になって初めて、胸の内に溜まっていたものの正体を知る。
かつて捨てることを決め、今は何も無い空洞の筈の心が、急に重力を得たかのように重みを増した気がした。




かさついた口内が不快で、部屋を出た。
普段であれば、水を得るだけのごく短い道程。
其れだというのに、とうに構造など記憶の中に組み込んでいる筈の飛空艇内を、まるで初めて足を踏み入れた地であるかのように彷徨う。
不思議と、この艇に乗り合わせている者達と鉢合わせる事もない。
緩慢に何処までも続く通路をどのくらい歩いたかわからない。


久しく感じていなかった感覚だ。
暗澹たる色の夢に恐怖を覚えていたのは、どれ程前の事だろうか。
内側から湧き上がる感情を遮断するように、自らの中に冷たい闇を敷き詰めた時から俺は畏怖など覚えなくなった筈だった。
なのに、今の自分の様ときたら目も当てられない。
過去を捨て心を捨て自らをとうの昔に捨て去った筈の俺が、今、畏怖を覚えている。何に。一体何に対しての畏怖だ。それは一体何だ。
俺は戸惑いさえ感じ、狼狽した。
自分は一体、どうしたというのか。
胸の内に張り巡らせていた闇が、徐々に剥がれ落ちてきているような気がした。
少し前までは知らなかったのに、僅かに噴き出し始めた恐怖という感情が其れを告げ、今ようやく事態を解したといった感じだ。


ふと我に返ると、終わりがないかのような長い長い通路はいつの間にか途切れ、気付けば中央間に佇んでいる自分がいる。
此処を抜ければ炊事場であり、水を補給するには一番手っ取り早い。
昼下がりだと言うのに、窓から差し込む陽の光はまるで西日のように赤みがかっている。
眩暈がしそうだった。
遥か昔、自分は此処と同じ場所に居た。
誰かと共に在り、常に近くに人の温度があった。その事を思い出させる色と光に満ちた空間に、俺はただ立ち尽くしている。
頭を抱え、叫び出したい衝動にさえ駆られそうだった。


早々に立ち去るべきだった。
それでもその場に一瞬立ち尽くしてしまったのは長椅子の上で目を閉じている黒髪の娘のせいだ。
寝息も立てずに横になり、癖であるらしく身体を丸めた姿勢のままでただ其処に居た。
昼食の膳を下げに来た際、他の当番の者と共に食器を洗っていたのを覚えている。
それなりの量があったから、時間も掛かった事だろう。
後片付けを終えた後、独りで少し休んでいるうちに眠ってしまった、というところか。
歩み寄っても、目蓋が持ち上がる気配さえない。
その身体を仰向けに直しても、俺が覆面を緩めても、彼女の上に屈み込んで肩に手を掛けても。


自分が一体何をしているのかさえ不明確だった。
ずっと滲み出ていた負の感情が急に堰を切ったかのようにあふれ、直ぐに飽和状態に陥りそうになる。
それを誤魔化すように自らの乾きと飢えのままの行動をどれ程の間続けていたか、俺は知らない。
が薄く目を開けたのは、息を継ごうと僅かに顔を離した時だ。
とろんとした寝惚け眼が泳ぐように此方を捉える。ほとんど無意識に、俺の口から其れは零れ出ていた。
「怖い」 と。
は夢の中に自分を置いてきてしまったかのように、表情も変えずただぼんやりとしている。構わず続けた。


「お前もいつか、壊してしまいそうな気がする」


其れが怖いと、 『 俺 』 は言った。
言ってから、俺は自分が何を畏怖していたのかにようやく気付いた。
かつて捨てた感情を、取り戻すことを。かつて手放したものを、再び失うことを。そして、かつてそうだったように周りの者達を傷付け、壊してしまうことを。
いつの間に自分は、こんな所まで来てしまったのだろう。もう人としての心など取り戻す事はないと思っていた。
それだというのに、今の自分は確かにそれを掴み掛けている。
俺は俺がこんなにも臆病である事を改めて思い知る。嗤いたくなるほど脆弱で、呆れるほどに愚劣だった。
目の前の娘は、目の前の男をほんの少し見ていたが、直ぐに目蓋を下ろしてしまう。
の中で、今の俺の言葉は夢と昇華されるだろう。そう思った瞬間、


「いいですよ、壊しても」


思いの外はっきりとした口調が、そう音を辿った。
思わず目を見開く間にも、彼女は続ける。


「その時はお返しに、わたしもシャドウさんを壊してあげます」


迷いのない言葉だった。
息を詰めて閉ざされた目蓋を見下ろすが、はそれきり沈黙を守っている。再びの眠りに戻ったようだった。
ほんの一瞬、呆然とすらしていたかもしれない。
何故そんなふうに平然と言ってのける事が出来るのだ、お前も、俺と共に堕ちるというのか。
返事など返ってくるわけもない。
暫く身動き一つ取る事も出来なかった。
夢の中での言葉なのかそうでないのかさえ知れないが、それでも確かな声の音を俺は聞いた。
いつの間にか、自分の中に溢れていた恐怖は姿を潜めている。その事にも俺は気付かない。
ただシャドウと呼ばれる男に戻った俺は、ただの先程の言葉を胸の内で反芻し、ただ黒髪の娘の額に口付けを落として、ただ一人その場を立ち去った。

俺はもう既に壊れているかもしれないが、この娘になら、もう一度壊されるのも悪くない。






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title by 不在証明