一瞬の、空気が吹き荒んだかとさえ錯覚するような衝撃。
ほんの幾ばくか遅れて聞こえた音が、壁を叩き付ける其れだと気付くまでどれ程掛かった事だろう。
そもそも、気付く云々までわたしの頭が辿り着いていたかどうかすら怪しい。
何故って、今以ってなお、全く状況が理解出来ていないのだから。
視界のほとんどが、暗い色彩で塗りつぶされている。思考はただ疑問符ばかりで埋まっていて、けれど自分の身に何が起こっているのか、それを確かめる事すら叶わない。
わたしは目の前の人の視線に当てられて、完全に動けなくなってしまった。


「…………」


彼の沈黙には、とうに慣れている筈だった。
しかし、今落ちる其れはこれまでのどれとも違う、毛色の全く異なるものだ。
こんなふうにひどく息苦しい時間が、果たして今の今まであっただろうか。
瞬きや身じろぎ、呼吸の吸って吐くという動作のようなひとつひとつさえも、今ばかりは許されていないのではないかというくらいこの場の空気は張り詰め、冷たく重たかった。そればかりか、考える事さえままならない。
驚愕と緊張に、身体の外側内側全部丸ごとが凍りついたみたいな、そんなような、感じ。


「…………」


何事も、起こらない。
だからこそ、いっそう恐ろしかった。何かしら事が起こってくれたなら、まだ状況が展開する可能性だってあろう。
なのに、それさえ望めない時間が、ただじりじりと過ぎていく。なんて苦しくて辛くて息詰まる時間なのだろう。
わたしはただただその碧色が潜む目を見返している。いつもの静かな色ではなかった。では何かと言われれば、どうとも表現し難い。
そこまで考えが及ばない、見てもらえれば判るだろうけれど、それどころの話ではないのだ、今のわたしというのは。


「…………」


ひどく、じくじくと痛む。
強張った身体の内側、どの辺りと言うなら胸の辺り、更に言うならたぶん、心のある辺りかもしれない。
回らない頭で何とかこうなった経緯を思い出そうとしても、成果はとんと得られない。
わたしはただ、いつもどおりに今日を過ごしていて、皆とも普段通りに接していて、そう、さっきまで広間に居て。
ある話題で皆と盛り上がってきゃっきゃしていたのがずっと前の事みたいな気がした。
会話を重ねるうちに、その中で一つの約束を、エドガーさんと交わして。
そうして夜も幾らか更けかけていたので、皆で解散して、わたしも自分の部屋に戻ろうとしたところでこれだ。


「…………」


シャドウさんは一切言葉を紡ごうともしないまま、此方を見下ろしている。
敢えてそうしているのか、何か言おうにも最初の音が思い当たらないのか、はたまたそれ以外の何かなのか、わたしには全く判断がつかなかった。
飛空艇の長い長い通路の一角、其処で鉢合わせた彼に眠る前の挨拶をしようとしたら、いつの間にかこうなっていた。
右腕がわたしの顔のすぐ傍にあって、行く手を阻んでいる。
一瞬悲鳴を上げそうになったくらいの勢いで壁を叩いたのだからさぞ痛かったのではと思うけれど、そんな素振りは微塵もない。
大きな音がしたのだから誰かしら何事かと様子を見に来てくれたってよさそうなものなのに、何故かそんな気配もない。
夜の静謐な空間、その中でわたし達のいるこの時間と場所だけが、何か全く別のものであるかのようだった。


「…………」


怖かった。シャドウさんが怖いのではない、これからどうなってしまうのかが怖かった。
全く気が回らずにいたけれど、いつの間にか向こうのもう片方の手が此方の手首を掴んでいて、それに気付いたのは彼の手の力が僅かに強まったからであって。
何か感情を押し留めようとでもしているかのような、ほとんど判るか判らないかのような、微かな震えさえ感じる。
ほとんど表情の見えないシャドウさんだって、目元を見れば、ある程度の事はなんとなく判る。
そして今のシャドウさんは何かを憎んでいるかのような、憎悪すら感じさせる怒気を孕んだ目をしていた。
それが何故かは判らない、わたしに対してなのかわたし以外の誰かに対してなのか、そう問うならばきっとわたしに対してなのだろう、実際こんなふうに、間近にその視線に晒され続けているのだから。
けれど、わたしはその理由が思い当たらない。
それでも、気が付かないうちに何か彼の機嫌を損ねるような事をしたのかもしれない、誰だって、知らずに誰かを傷付けてしまう事はあるものだ。


「…………」


けれど、もしそうだとしたら、わたしはどう償えばいいんだろう。
心が冷たく冷えていくような感じがした。どうしていいのか判らない、何をしたらいいのか判らない。シャドウさんにどう償えばいいのかが判らない。
こんな表情で、その目の奥の光を湛えたまま自分を見るシャドウさんを、わたしは知らない。
もし本当にわたしが彼の機嫌を損ねたのだとしたら、そうだとしたら、わたしが本当に、シャドウさんを傷付けてしまったのだとしたら。
冷水を浴びせかけられたような気持ちだった。そんな筈ないと思いたいのに、信じたいのに、向けられるその目の表情がいっそうわたしを冷やしていく。
そうだとしたら、そうだとしたら、そうだとしたらわたしはどうしたらいいんだろう。
大切なひとを傷付けてしまったら、一体、どうすればいいんだろう。


「…………」


目の前の人から目線を逸らす事も出来ない。
そうして、その人の事を考えているにも拘わらず、同時に、こころは全く別の場所にあるかのような感じだった。
強張ってしまって動けない自分からわたしは離れて、何処か遠くで、空疎な思考をのろのろと巡らせていた。
……一体、どうしてこんなふうになってしまったんだろう。
ぼんやりと、改めて思う。この人は、決して無秩序な理屈なんかで行動するひとではないと知っていた。
わたしが知っているシャドウさんというのは、きっと、シャドウさんという人のほんのごくごく一部分でしかないかもしれない。会ってまだ一年だ、それは多分、当たり前のことだけれども、それでもそんな人だというのはわかっていた。
だから、今こんなふうにいつの間にか胸と胸がくっつきそうなくらいの距離で見下ろされているのも、やっぱり何がしかの理由があっての事なのだ。きっとそうだ。
ああ、けれど、そしてその理由が本当にわたしにあるのなら、……許してほしいとは言わない、わたしを嫌いになっても構わない。
もしも本当にシャドウさんを傷付けてしまっていたなら。
ただ、せめて、どうしたらいいのかだけを教えてほしい。わたしには、償いの方法などわからないのだ。


「…………、……っ」


何だかいろんな事がぐるぐるしてしまって、思考は脈絡がなくて、ほとんど訳のわからない状態に陥ってるなあという自覚はそこそこあった。
けれど、自分がその時どんな顔をしていたのかまではわからない。
ただ、不意にシャドウさんが顔色を変えた。
弾かれたかのように僅かに身を引いたかと思った時には、あの憤怒を含んだ目の表情が消えていた。
それで、ああ、いつものシャドウさんに戻ってくれた、とわかった。
ちょっと気が緩んで思わず座り込んでしまいそうになるのを、直ぐにその腕が支えてくれた。


「すみません……」
「…………、」


いや、という一言だけの言葉が小さくぽつりと落ちる。それだけの声が何故だかひどく懐かしい気がした。
わたしが何とかちゃんと立っていられるのを少しの間見ていたかと思うと、何かを口にし掛けるような気配があった。口元が見えなくともそれくらいはわかる。
けれど其れが音になる事はなく、夜の空気に消えてしまう。それでいいと思う。シャドウさんはたぶん、もうこんなふうになる事はない。だったらそれで、きっといいのだ。
そうしてどのくらい経ったかは知らない、秒針が一回りするくらいかもしれない、或いは、もっと短い時間かもしれない。
「すまなかった」、とだけ残して踵を返そうとするその人を思わず呼び止めようとしたのは、それでも微かな不安があったからだ。
明日も、きっと、シャドウさんはいつものシャドウさんに違いない。けれど、それをわたしは確かめたいのだ。
そのための方法は、思いがけず、シャドウさんの方から齎される事になった。
止められた足が再び、わたしの前までやって来ると、彼はわたしにひとつ、耳打ちをする。躊躇いなく、わたしは其れに肯いた。





「どうしたんだい、
「あの、明日の事なんですけど……。お邪魔でしたか?」
「構わないよ。さっきした約束の事かい?」


いつもと変わらない凛とした気品と共に、ふわりとエドガーさんが微笑む。
予定の変更を伝えるために彼の部屋を訪ねると、雑談していたらしくロックの姿もあった。
細長く裂いた干し肉を口に入れてもぐもぐさせながら、何やら広げた地図を指しているところだった。
彼もわたしを見てもぐもぐしながらも片手を上げるので、わたしは小さく笑み返した。エドガーさんに向き直って、言った。


「それなんですけど……。ごめんなさい、実は、明日、シャドウさんのお手伝いをする事になって」
「おや、そうなのかい?」
「はい。……あの、何だか、わたしじゃないといけないみたいで」
「ふーん。シャドウにそう頼まれたのか? わざわざ?」
「うん、えっと、……ついさっき、そうお願いがあって」


もぐもぐし終わったロックの問いにも肯き、正直にそのまま話した。
実際、シャドウさんにそう言われたのだ、「明日一日、俺に付き合え」 と。
その内容がどんななのかはまだ判らない、そして本当は、先にエドガーさんと約束をしていたのだけれど、今回ばかりは事情が事情だ。
ちゃんと話せば、気高きフィガロ国王陛下はわかってくれる。
わたしはそう信じていたので、包み隠さず話すことにした。


「冷蔵庫の時みたいに、わたしの世界の機械のことをもっといろいろお話する約束だったのに……ごめんなさい」
「謝る事ではないよ。それに、そう急を要することではないからね。しかし、何度聞いても君の世界の機械については興味深い。先程広間で話してくれた小型の通話機……、携帯電話、だったね。あれが、今も気になっているよ」


決して気を悪くするでもなく、エドガーさんは相変わらずきらきらした笑顔を向けてくれる。
ロックは何故だかよくわからないけれど、何かに勘付いたかみたいに変ににやにやしている。
わたしは特にそれを気にするでもなく、そう言ってもらえると有難いということを告げた。続けた。

「ですので、エドガーさんとのお話の予定は」

わたしは頭の中でスケジュールを見直した。ぽん、と両手を合わせて言った。

「明後日にしましょう!」

言うと、何故かロックが盛大にずっこけて見事に椅子から転げ落ちた。
少し前のお笑いのコントみたいな、いい具合の落っこち方だった。周囲から効果音声の笑い声が入れば、完全にショートコントになるに違いない。何処にボケ要素があったのかはわからないけれど。


「だ、大丈夫? どうしたの、いきなり」
「いや、 『 明後日にしましょう! 』 って、そんな明るく言われても……」
「だって、明後日は今のところ何もないし」
「えーと、そういう意味じゃなくってだなあ……。シャドウの事考えると、しばらくはそういうの、控えた方がいいと思うぞ? なあエドガー」
「そうだね、私も少し配慮に欠いていたようだ。の世界の彼是を聞くのが楽しいものだから、ついね」


もっともの世界の事よりも、君と言葉を交わす事が出来るというその時間こそが、何より楽しいのだけれど。
さらりとそう言ってのける通常営業のフィガロの王様を、ロックは何とも言えない表情で見やりながら息を吐いている。
「おまえらなあ……」 と独りで何やらげんなりしていたけれど、ともあれ、予定は後で調整するという事に決めて、わたしは部屋を後にした。
明日がいつもみたいに、いつも通りに存在するならそれでいい。
そんなふうに思い願い、夜の飛空艇内の通路を歩く。
いつもと変わらない一日の終わりの夜が、いつもと同じように其処にある。
わたしの信頼する人にも、そんな変わりない夜が訪れていればよいと、わたしは思った。







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