耳が痛い、と思った。
それが寒さから来るものなのか、音というものが極めて少ない静寂から来るものなのかは判らなかった。
おそらく、どっちともなのだと思う。
ナルシェに程近い雪原、まだ夕暮れには幾分間のある時分。
けれど、紺碧の空には星が見つけられた。
寂とした空気だけが何処までも何処までも、途方もない程に満ちている。
足元の雪が固く凍ってしまっているのが救いだった。
インターセプターやわたしは勿論、シャドウさんが立っても足が沈む事もないくらいに凍りついている。
数日晴天が続いたというから、雪の表面を陽が融かし、夜がその一帯を冷やし固めたんだろうなと想像した。
加えて風もない事も、わたし達の前進を促していた。
風さえなければ寒さ自体はそう苦でもない。今のうちに街に着いておきたいと思った。
ナルシェは――今、どうなっているだろうか。
誰か、仲間が偶然にも留まっているという事はないだろうか。そうでないとしても、手がかりの一つや二つ(あれば、三つでも四つでも歓迎だ)、手に入りはしないだろうか。そもそも街自体は、どうなっているだろうか。
「」
「はい?」
シャドウさんが立ち止まり此方を振り返っている。わたしも足を止め彼を見上げた。
キンと耳が痛くなる程の、気が遠くなる程の白く広く冷えた空間の中で、シャドウさんは其処に居た。
徐々に夕の時間へと移り始めた世界が、気付かないうちに辺りの白と白と白だけだった雪の色をうっすらと憧憬的なものに変えていく。
「考え事をするなとは言わん、だが今は進む事だけに集中しろ。いつこの足元の雪が崩れないとも限らん」
「……シャドウさんは、人のこころが読めるんですか」
「さあな」
其れだけを言うと、何事もなかったかのように彼は前を向きまた歩み始める。
考え事をしていたのは確かだったので、わたしはついシャドウさんの背中を見つめてしまった。彼との距離が空いてしまうので、慌てて止めていた足を踏み出そうとした。
ずぶりと、足場が浅く陥没した。
一部、雪の固さが不十分だったらしい。
自分で思ったよりも吃驚して、ぎゃあと声をあげてしまう。
危うくコケそうになるのを、シャドウさんが抱き止めてくれた。僅かに離れていたはずなのになんて素早いのか。わたしはいつもの事ながら感心した。感心している場合でもなかったが。
「い、言われた傍からすみません」
「…………」
彼は、何も言わなかった。
注意されたばかりのところに此れだ。呆れているのか、それとももしかしたら、わたしの散漫さに怒ってしまったのだろうか。
恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前で覆面から覗く瞳がこちらを見下ろしている。
それが不意に伏せられ、同時にシャドウさんの息が漏れるのが判った。
その気配に、思わずわたしは眉をしかめてみせた。
「……シャドウさん、笑いましたね、わたしの事」
「いや」
「嘘。笑いました、さっき」
「知らん」
「素直に認めたらどうですか、絶対にさっき笑ってましたってば」
「そうだと言えば、満足か」
あっさりと言うシャドウさんの言葉にわたしがぐっと詰まっていると、彼は先程とまったく同じようにふっと息を吐いた。
遊ばれたような気がして口を尖らせたが、此処で何をどうあがいてもシャドウさんのペースのままのような気がする。悔しい。
わたしは傍らで座していたインターセプターに泣きつく真似をした。
「インターセプター、君の主人にいいように弄ばれたっ、ひどいと思わない、ねえ!」
「……人聞きの悪い事を言うな」
ぼそりと言うシャドウさんをよそに、わたしは鼻先を寄せてくる彼の相棒の首元に抱きついた。
全く、と思う。
こんなにも寒く冷え切った時間の中にいて、なのに、こんなにもあたたかい気持ちでいられる事がどうしようもなく嬉しくて、たまらない。
そうこうしている間に本当に日が暮れ始め、わたし達はまた歩き始める。
沈んだ太陽の欠片が西の空に赤を残している。
けれど見上げた天は夥しい程の青に満ちていた。
混ざり合う色彩は雪の白を淡く染め、それらも夜色に少しずつ緩やかに、確実に沈んでいく。
いつだったか見た、あの少女の描いた絵画の世界のようだ、とふと思った。
離れ離れになる前、リルムの描く絵を何枚か見せてもらった事がある。
夢の世界のような絵、力強さに溢れた絵、どこか懐かしさを感じる絵。そのどれにも、筆を持つ彼女自身の優しく純粋な性質が含まれていたような気がする。
リルムは、今、何処に居るのだろうか。
そんな事を考えたけれど、あの娘を想わせる色の世界に佇んでいると希望を持つ事が出来た。世界がまだ生きている事を感じる事が出来た。
私たちは、彼女はもちろん、他の仲間たちともいつか必ず合流するだろう。
それまで皆、無事でいてくれれば其れでいい。わたしはそんなふうに思った。
「何をしている、早く来い」
シャドウさんが、相変わらずのぶっきらぼうな具合の口調でわたしを呼んだ。
はい、と返事をしかけたわたしはしかし、その黒衣にひらりと張り付くものを見て天を仰いだ。
遠い空から生まれた新しい雪。
吹雪くのだろうか、とにかく急いで街に入らなくてはならない。
やわらかく彩られた白の舞う夕を、二人と一匹で駆けた。
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