歓声、歓声、なお歓声──。



重い扉が閉じられた後も、それは一向に止む気配がなかった。
音声自体は厚い壁と扉に隔てられたため、いささか抑えられたものになっている。
けれどもそれは引く事を知らない波のようで、いつまでも何処までもその足を俺に伸ばしてくるのだ。
堪らなく、鬱陶しかった。
先程まで耳を聾せんばかりの喝采の中にいて、その時には何も感じることなど無かった。
しかし今は、このざわめきがまるで形あるもののように身体に纏わりついてくるような気がした。
感覚が戻ってきたことの証拠だ。

己の刃を抜く時は、自分の感覚の不必要な部分を麻痺させていた。余計な事を考えることのないように。
暗殺を生業としてきた俺にとって、それはとうの昔に習慣付けられてきた事。
そして今 「鬱陶しい」 と思ったその時点で、 『 不必要な部分 』 は確かに俺の中に戻ってきたという事なのだ。
……いっそ、戻らないままでいてくれれば。永遠に、何も感じずにいることが出来たら。
思うが、実際にはそうはならない。
ならばせめて、早くこの場を去ろうと足を進める。
そんな俺をあざ笑うかのように、既に遠ざかりつつある闘技場の方向、一旦は収まりかけてきたかのように思えていた観客達の声が再度盛り上がるのが聞こえた。次の試合が開始されたらしい。


此処は、世界の強者らが集う場所。
──竜の首のコロシアム。


既にここへ来て、十日程が経っている。
俺の欲するものは、いずれここで手に入るだろう。今はまだ時期が来ていないだけのこと。
少なくともその時が訪れるまでは、俺は此処で闘い続けるつもりでいた。
目的のものが手に入らずとも、しかし金を稼ぐことは出来る。今日もそれなりの額が入った。
しかし、事が済めば用はない。
今日はもう俺の出番はないのだ。俺は足早に通路を抜けた。

は、控え室から少し離れたそこで長椅子に掛けていた。
足元にインターセプターがうずくまっている。彼女らは、俺が闘っている時は必ず、此処でそうしている。
闘技場なのだから観客席もあるのだが、そこへは来ようとはしなかった。
俺もそれでいいと思っていた。
は床のある一点を見つめていたが、実際にはここではない何処かを見ている。
しかし俺が近付くと、インターセプターが先に、そして続いて彼女がこちらを振り向く。
それから彼女が取る行動を、俺は知っている。
そのままジッとこちらを見ているだけだが、やがて俺が傍まで行くとゆっくりと小さく、微笑を湛える。

そして言うのだ。
いつもと同じように。
俺に向けて。
その言葉を。
それを聞く度に、俺は自分の胸が軋むのを感じる。
……何も感じなくなってしまえば、この胸の小さな痛みも生じる事はないのに。

俺はそう思いながら彼女を見下ろす。
見上げてくるその目が、やわらかく細められている。
ひどく遠いもののように思えた。俺が近付く事など許されないもののように。
しかし、それは、確かに目の前に存在していた。手が届きそうなほど、近くに。
思った。
俺には、そんなふうに迎えられる資格などない。両手を朱に染めて戻ってきて。

しかし、彼女はそのことを判っていて、それでもその言葉を口にしている。
彼女が皮肉でも何でもなく、本心からそう言っているのだということを俺は知っていた。
何も感じないようになっていたなら、そのことに気が付く事もなかっただろう。
思いながら、今日もその言葉を受ける。
やはり胸は軋んだ。その音すら、聞こえるような気がした。
けれども、彼女の言葉を 『 鬱陶しい 』 と思ったことだけは、ただの一度もない。
いつも俺は、に何も答えてやる事が出来なかった。しかし一回きりなら、そうする事も許されるだろうか。
俺は、小さく短く、顔を覆った黒布の下で、声を出した。
さざめくような喧騒の中で、思ったよりもはっきりと、それは響いた。






──わたしはシャドウさんを待っていた。
硬い木で出来た長椅子に座って、待っていた。
足元のインターセプターはジッとしていて、彼もまた、主が帰ってくるのを物言わず待ち続けている。

目の前を、何人かの人たちが行き交っていった。
見るからに屈強そうな人、またその逆の人、ごく普通の一般人のような人、その内容も様々だ。
男の人がやはり多かったけれど、女性もいないことはない。
控え室のすぐ近く、この通路を通ると言う事は、試合に出るということを意味する筈なのだけれど。
そして或いは、人ではない者でさえ此処を通り過ぎていく。わたしは驚きもしない。
そんなの此処じゃあ普通のことだったから。
わたしだけじゃなく、他の人たちも同じように何の反応も見せない。
此処ではごく当たり前に、ただ 『 力ある者 』 が受け入れられている。

……この中の誰かが、シャドウさんとの試合相手になり得るのだ。
ぼんやりとそう思った。
それはもしかしたら、今目の前を通り過ぎようとしているこの男かもしれない。向こうにいる、鎧に身を固めた人物かもしれない。
そしてもしそうなれば、相手は無事に戻ってこないだろうという事を少し思った。思っただけだけれども。
此処での闘技に参加する上で、そうなる可能性がある事は、当人たちが一番よくわかっていることの筈だった。
それにわたしは、シャドウさんが戻ってきさえすればそれで良い。だからそれ以上のことは考えない事にする。

わたしはシャドウさんのことを思った。
シャドウさんは試合に出始めてから今までずっと、連勝を続けている。
彼がとても強いのだということを、わたしはちゃんと知っていた。
だから今日も、いつもと変わらず。
勝って帰ってくるのだというのを、わたしは信じた。信じて、こうして今、その帰りを待っている。
天井からのライトが白い光を降らせてきて、長椅子やそれに座るわたし、インターセプターの影を床にやんわりと落としているのに目をやりながら。
わたしは信じながらも祈っていた。無事に彼が帰ってくる事を。
そうして彼がいつものように戻ってきたなら、わたしもいつものように口にする言葉がある。

わたしはまた、シャドウさんのことを思った。
今日は、あとどれくらいで戻ってくるだろうか。
明日は、何試合くらいあるんだろうか。
それが終わったら明後日は、そしてその次は、そしてまたその次の日は。
彼はいつまで、此処で闘い続けるんだろうか。
そんなことを考えた。もう何度も思った事なのに、また。
いつも悶々とそうしているうちに、彼は勝利を得てここへと帰ってくる。

なんとなく、上体を屈めた。
インターセプターの身体の毛に指を突っ込んで、円を描くみたいにして指先を絡ませてみる。
少し長めの毛の、しなやかな感触。
彼はそうしても特に動きもしなかった。ただ、スン、と一回鼻を鳴らした。
ぐるぐると指をかき回して、けれども、わたしはそれに飽きてしまい、直ぐに止める。
またわたしは、シャドウさんを待ち続ける。

いつの間にか通りには誰もいなくなっていた。
試合が催されている間は、瞬間的に人気が全くなくなる刹那がある。おそらく今が、丁度その時。
けれどわたしは、誰もいなくなったことに気が付く事もない。
何処でもないこの空間でひっそりと佇みながら、わたしはひたすら、待っていた。


待つのは、苦しい事だった。
今わたしがこうしている間にもシャドウさんは闘技場を駆けている。
信じていても、辛かった。
彼が帰ってきた時、ようやくわたしは解放される。
そして次の日また、わたしは彼を待つ。
同じサイクルが回っていく。
いつ終わるのか、終わりがあるのかないのか、それも判らないまま、ただ、着実に時間は流れていく。
それでも、わたしとは比べ物にならないくらい、彼の方が苦しいのだということは判っていた。

わたしはシャドウさんのことを思った。
わたしは、彼が歩んできた道のりを知らない。
けれども、それでも、許されるなら、支えたいと思った。
わたしに出来る事などあまりない。それでもわたしはそう思っていた。
だから、わたしは苦しくても待つことが出来る。
もしシャドウさんが此処でいつまでも闘い続けると言うなら、わたしはそれに付き合おう。
そんな想いが、自然に浮かんだ。
わたしはただ、ここで彼が戻ってくるのを永遠に待ち続ける。


インターセプターがむくりと、顔を上げる。
それは合図だった、彼が戻ってきたということの。わたしはそちらを向いた。
ほとんど足音もなく、黒い長身のその姿はこちらへとやってくる。
彼は、今日もいつもと変わらず、勝利して帰ってきたのだ。
だからわたしも、いつもと変わらず、彼を迎える。
静かに、それでもわたしは心から安堵して笑んだ。言った。


「おかえりなさい」


それから彼が取る行動を、わたしは知っている。
無言でただ肯くと、少し屈んでインターセプターの頭をそっと撫でるのだ。
特に何かを言うような事は、少なくとも今までにはなかった。
彼はいつも、そんな感じだった。
だから今日も、そうなのだろうと思っていた。
けれど。


「──ああ」


わたしはほんの少しだけ驚いて、彼を見上げた。
シャドウさんはこちらを見ず、顔を逸らしていた。でも、確かに今、その声で返事をしてくれたのだ。
そのことが何だか妙に嬉しくて、わたしはもう一度繰り返した。


「おかえりなさい」


今度は流石に、彼は何も言わなかった。ただ微かに顎を引くような動作があったのみ。
それでもわたしは、やっぱり、嬉しくて堪らない。
そうして思う。明日もまた、この言葉を贈ることが出来ますようにと。
明日になればきっとまた、同じ事を願うに違いない。
だからどうか、貴方も同じように、また此処へと還ってきてほしい。
シャドウさんが此処に居る限り、わたしも此処で時間を過ごしそして、変わりない祈りを捧げ続ける。
わたしはそっと、微笑んだ。


「──おかえりなさい、シャドウさん」






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