夜の飛空艇内。
照明を落とした通路、そこに在る空間は何処までも仄暗い。
常夜灯のぼんやりとした明かりがあるため闇に埋没しきってはいなかったが、それも慰め程度のものだった。
灯りはただ静かに発光し、ただ遠くまで点々と、其れは続いている。

……闇の中に沈んだ、道標のようだ。
そんな思考が掠めた刹那、立ちくらみのようなものを覚えて少しの間、額を押さえた。下手をすれば、膝から崩れてしまいそうにさえ思えた。

何度経験しても、この眩暈には慣れない。
これまでに何度、この感覚を繰り返してきたのか数える事もないが、この艇内に留まるようになってから数は増したような気がする。
遥か遠い昔に捨て去り、もう手にする事もないと思っていたものが在るこの場所がそうさせるのか、日に日に俺の内側を形のない何かが圧迫していく。



全くの無音というわけではなかったが、辺りには遅い時間独特の静寂が降りている。
深夜と言ってもまだ日付が変わるには幾らかある時分、就寝していない者もいるのだろう、遠くからの微かな物音、囁くような話し声が時折耳に届く。
しばらくその場に立ち尽くして眩暈が鎮まるのを待っていたが、落ち着いたと思われる頃にふともう一度、頭上に灯った光源を仰ぎ見る。
ひどく弱々しい、と思った。今にも周囲の闇に侵食されて消えてしまいそうな程に。

ふ、と口の端が持ち上がるのがわかった。
まるで自分の歩いてきた道とこれからを示しているような気がしたからだ。
かつてこの手で自ら手放した光は、再び掴むことなど出来ないだろう。あるとするなら、今にもかき消えようという光とも呼べないもの、そして其れは、これから進む先も暗く塗りこめられているのだと示すための標の灯りなのだ。
……ならば其れでも、構いはしない。
俺は開け放していたままの自室の扉を閉め、暗がりの通路を歩き始めた。



食事場から漏れる白い明かり。
それが通路床にもこぼれているのを見、同時に人の気配を感じ取っても何を思うわけではなかった。
これだけの多人数が居る艇内、時間を問わず気まぐれにやってきては水で口内を潤していたり、或いは空腹を満たしている者がいてもおかしくはない。今迄に何度か、そんな場面に遭遇したことがある。
しかしその室内に居たのは他でもない黒髪の娘だった。

「……シャドウさん?」

彼女は独り食卓の端に着いていたが、こちらを見て眉を上げた。
どうしたんですか、と向こうが訊くのを受けて、手にしていたものを示す。彼女は納得したように「ああ」、と肯いた。
立ち上がり両手を伸ばしてきたに夕食の膳をそのまま預けると、彼女は流しに置き水に浸けた。いつでも構わないが、出来ればその日のうちに夕食の食器はここへ下げてほしいと言われている。

「持ってきてくれてありがとうございます。……シャドウさんは、これからお休みですか」
「ああ」

そうですか、と肯きはそのまま何か言葉を繋げようとして、口ごもった。
それが何かは判らなかったが、俺の方から続けた。

「おまえがこの時間になるまで此処に居るなど珍しいな」

さっきまで彼女が手にしていた卓上のカップを横目に見ながら言った。
なみなみと注がれた白からは細い湯気が昇っている。口をつけてまだ間もないのだろうか。
普段ならは夕食の片付けの後、他の奴らとの談笑に付き合う場合でも遅くまで一緒でいることはあまりなく、比較的早く自室に戻るので遅い時間に行き交う事はそう多くはなかった。

「……眠れないのか?」
「眠れない……わけじゃないんです。ただなんとなく、その、急にホットミルクが欲しいなぁと思って、ただ、それだけの事なんですけど」

受け答えに笑みを添えて彼女は答える。
「何の前触れもなく、あれが食べたい、とか思う事ってありますよね」。そんな事をいつもと何ら変わりない口調で、ぽつぽつと。
僅かな間を置いて、は俺の方を見上げて言った。

「あの……、シャドウさんも何かあったかいの、飲みませんか」

いや。
そう言い掛けるのを途中で、止めた。
直ぐに元来た闇の中へと踵を返すつもりだったが、傍らの席に腰を下ろす。ほんの気紛れだった。は既に片手鍋を取り出し準備を整えている。
彼女は「酒を温めたものが良いか」と訊いてきた。その辺りを何も考えていなかったが、何故かそのまま首を縦に振る気分ではなかった。
一日の終わり、夜の静寂、暗がりの中に灯る白い明かり、カップから昇る湯気、彼女と同じ時間。
少しの後に答えた返事は、おそらく後にも先にもこれきりのものになるだろうと思われた。

「おまえと同じものを」




やわらかな曲線を輪郭に持つ陶器、その内は温かな白で満たされている。
俺の正気を疑うような表情で「本当にそれでいいのか」と数度程訊ねられたが、それでもものの数分でそれは目の前に差し出された。向かいの席に腰を下ろしながら、は確認のように口にした。

「あの……ラム酒とか、そういうの何か垂らしましょうか?」
「おまえと同じものをと、言っただろう」
「……シャドウさんが其れで、いいんでしたら」

どうぞ、というような仕草をは手で示してみせた。
「あまり熱くはないので直ぐ飲めると思います」、そう付け足す彼女に内心苦く笑いつつ、額当てを目深に下ろし、代わりのように僅かに口元を緩めてから陶器を手にとる。
持ち上げると指先に穏やかな熱が伝わるそれを、一口含み飲み下す。口の中に、ミルク本来の味とは別の、あまり好まない味覚がゆるゆると広がった。

「……甘いな」
「甘いですよ。今日のホットミルクには少しですけど砂糖が入ってますから」

だからいいのかと訊いたのに、とでも言いたげに彼女はこちらを見る。
取り替えましょうかという提案に俺は首を振りそのまま二口目を飲んだ。そんな俺を少しの間は見ていたが、やがて彼女も自分のカップを再び取り上げた。



時間というものは、これほど緩やかに過ぎるものだったか。
どちらも飲んでいる間、何も言う事もないまま、ただ甘い乳白色を傾けた。
ふとを見ると、もう冷めかけの残り少ないミルクを少しずつ口に含み、器を両手で包みこんでいる。
先程はそうは言わなかったが、やはり眠れなかったのではないかと考える。ただ独りで目に見えない何かに怯え、夜の闇の中で頭を抱え蹲る時の苦しさの一端を、きっと彼女も知っている。
しかしの表情は、驚くほどの穏やかさに満ちていた。何故そうしていられるのか不思議な程に。
思ったがそれを訊く事もない。俺は別の事を口にした。

「もうほとんど残っていないのではないか」
「え? ……ああ、わたしの、ですか?」
「それだけなら、さっさと飲み干してしまえばいい」
「…………。だって、そうしたら」

今のこの時間が、終わっちゃうじゃないですか。
続きを言いはしなかったが、そんな言葉が聞こえたように思えた。
俺は内心で小さく息をつくと、次には一時に仰いでしまおうと考えていた自分の陶器の中のものをまた一口ずつに分けて、彼女に付き合って、飲んだ。
分けた回数分、その都度に甘い熱が口内を満たしたが、そう悪くはないと何故か思えた。少なくとも、この時ばかりは。



ミルクを飲み終え食事場を出た後、を部屋まで送ると彼女は頭を下げた。

「送ってもらってありがとうございます」
「いや」
「……また、良ければ一緒に飲むの、付き合ってくださいね」

その時はおそらく、俺は今日飲み干したものとは違うものを選ぶだろう。
肯くともとれないような曖昧な仕草をしたが、彼女は深く追求もしなかった。通路内の薄暗い空間の中でも、やわらかく笑んだ表情がこちらに向けられるのが判った。

「おやすみなさい、シャドウさん」
「……ああ」

今日の別れを告げ、扉がゆっくりと閉じられるのを見届ける。
足を自室の方へ向けると、そこにはまた同じ仄暗い闇と道標のような灯りだけが続いていた。



夜の闇というものを恐れた事は、今までに生きた中で一度たりともない。
どの色にも属さないその絶対的な存在は、自分を覆い隠し呑み込んでくれるものであった。
いつか、気付かないうちに自らを静かにその色彩のうちに沈め、この世界から遠ざけてくれるのではないか。
そんな甘い考えを抱き、そう思う事で微かな安堵すら覚えた頃もある。

同時に光も恐れた事はないが、何処かで避けてきた事を俺は否定しない。
自分には相容れないもののように思い始めたのはいつの頃からだったか、もう思い出す事もない。ただこの上なく眩しく、俺には強すぎるものだった。今にも力を失い消失しそうな光でさえ 『 これから進む先も暗く塗りこめられているのだと示すための標の灯り 』 なのだと。

ふっと、自分が声に出さずに笑ったような気がした。
そんなどうでもいい事を考えていたなど、どうかしていると自分を嘲る笑いだ。
例え先の未来がどんな色に溢れていようと、それならそれで、構いはしない。
再びそう思いながら、目の前の闇と光へ向けて足を踏み出す。
今度は眩暈は、起こらなかった。






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