緩やかに中空を舞う黒煙。
其れは、ストラゴスさんの家の二階、その窓の向こうでまだ立ち昇っていました。
……確か、その日は朝から霧のような雨が降り出していたように記憶しています。
雨が、まだ僅かに燻っている隣家の火を鎮めてくれればいいと思いました。

一年前のことですね、これは。
ティナ達と一緒に初めてサマサを訪れて、……まさか、火事に遭遇するなんて思いもしませんでしたよ。
火はこの時には、大分落ち着いていたんでしょうけど。
わたしは窓の外、階下を見下ろしました。
まるで靄がかかったかのような霧雨の中、ほとんど黒色の炭と化した屋敷の残骸がただ横たわっています。
あれだけの火事でありながら、大きな怪我をした人がいなかったのは幸いでした。
(……これは、シャドウさんのおかげですね。もし来てもらえなければ、わたし達一行はまとめてこんがりでしたから。助かりました、本当に)

隠れ魔導士の里のこと、魔導士狩りのこと、魔法と幻獣のこと。
そして幻獣の聖地とも呼ばれるらしい西の山のこと。
ストラゴスさんの話を聞きながら、わたしは窓の外から目を戻しました。視界に、黒装束の背を捉えます。
ずっとじっと黙っていたシャドウさんが、不意に踵を返したのはその直後です。
階段を下りていくその後を追ってしまったのは、シャドウさんとインターセプターが今にも出ていってしまいそうな気がしたからです。
わたしはまだ、火事からの救出への御礼を言っていませんでしたから、其れを告げたいと思いました。
話に聞き入っているティナ達を残し、わたしはそっと一階へと下りたんです。

「シャドウさん!」

玄関のドアノブに手を掛けようとしていたその人に、勢い込んで声を投げました。
振り返ったシャドウさんが此方を一瞥します。
一瞬でも貴方を引き留められた事への安堵、同時に、直ぐまた出ていってしまおうとするのではないかという焦りがありました。
残り数段という段差を足早に下り、その傍に駆け寄ろうとしたんです。

「……、おい」
「え? う、わ……っ!!」

シャドウさんが言うのと、わたしが床板に何か引っ掛かりを感じて転倒しかけたのはほぼ同時です。
でも、つんのめりそうになるのを、正面にいたシャドウさんが受け止めてくれました。

「す、すみません……」
「いや」

素っ気なく返しながら身体を離してくれるその人の目は、とても静かなものでした。
……わたしはこの頃はまだ、シャドウさんとは然程会話を重ねていたわけでもありません。
目の前の人がどういう人なのか、よく知っていたわけでもありません。
シャドウさんとのまだ慣れないやり取り、或いは、その視線に間近に当てられたせいかもしれません。
言おうと思っていた事があった筈なのに、それがすっぽりと頭から抜け落ちたかのように台詞が出てませんでした。
口の中で何度か言葉を咀嚼し、ようやく間を埋めるように、違う事を言います。

「独りで行ってしまうんですか?」
「……俺は単独の方が動きやすいからな」

返事は短いものでしたね。
わたしは一つ肯くのに留めました。
それ以上繋ぎとめる事は出来ないというのを、何処かでわかっていたように思います。
お気をつけて。
ああ。
そんなごくごく簡潔な別れの言葉を最後に、シャドウさんは本当にその場を去りました。
閉じられた扉の前、わたしが独りぽつんと立ち尽くしていると、直ぐに後からティナ達がやって来ます。
シャドウさんの事を伝えると、皆はその後を追うように外へ出ましたから。わたしももう一度、見送りをしようかと思いました。
パタパタと駆け足が、階段から聞こえました。
見れば、赤い帽子の女の子です。

「どうしたの?」
「あのワンちゃん、もう出ていっちゃったのかなって……」

リルムはそのまま此方へやって来ると、わたしの傍の床板を避けるようにピョンと軽くジャンプして見せました。
わたしがキョトンとしていると、彼女は直ぐそれに気付いたみたいでこう言ったんです。
「ここの床ね。ずっと前から板が少しだけズレてるの。ほんのちょっとだけど。引っ掛かって転ばないように、お姉ちゃんも気をつけてね」 。

わたしは肯いて、それからシャドウさん達の事を教えてあげました。
リルムは直ぐ、玄関を飛び出していきましたけれど。
しゃがみ込んで、床をよく見れば確かに、木の板の継ぎ目が僅かにたわんでいます。
古くからの家によくあるような、ほんの些細な歪みです。
多分他の床板と比べればほんの何ミリかの違いなんでしょうけど、さっきのわたしは此処に躓いたんでしょう。
納得して立ち上がりました。でも、





「……どうしてシャドウさんは、わたしがあそこで躓きそうになるのがわかったんですか?」

わたしが訊ねると、シャドウさんはそれまで手にしていたスキットルの中身を傾けた。
もうほとんど残っていなかったのか、一気に呷ってしまいそうだった。
飲み終わるのを待たずに続ける。

「リルムやストラゴスさんはずっとあの家に住んでますから、わかり切った事でしょうけど。何だかシャドウさんも元から知ってたみたいに思えて……。それとも、前の日にあのお家を訪ねた時に気付いてたんですか? あの床板のこと」
「お前の想像に任せる」
「あっ、わかった! シャドウさんもわたしの見てない時、あそこで躓いたんでしょう? だからあのポイントを気をつけて見てたんですよねきっと」
「…………」

栓を閉めたスキットルを片手に、シャドウさんが立ち上がった。
今日のわたしの話は、どうやら此処まででお開きになるらしい。
わたしは今までその人が居たテーブルの上を片付けながら、既に立ち去り姿の見えない人へ向かって笑んだ。
言った。

「……そういう事にしておきますね、シャドウさん」

当然のように、返事は無かった。






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