――珍しいのね。貴方がこんな時間に此処へ来るなんて。
私?
私は時々、此処に来るわ。
今みたいな、夜が始まったばかりの時間に。風に当たりにね。
でも、今まで貴方とこうして鉢合わせた事なんて無かったじゃない?
どう、良かったらこっちに来てみない? 今日は風もあまり冷たくないのよ。
飛空艇のデッキで、身体全体で受ける夜の風ってすごく気持ちいいのね。
最近、そう思うようになったの。
一年前は、こんなふうに感じる事はなかったのだけれど。
……あの頃は、今みたいに夜風に吹かれていると、不安で堪らなかったのよ。
表には出していないつもりだったけど、自分が一体何処に行こうとしているのかわからなくなりそうで。
夕闇に紛れて、何処かに自分が攫われていってしまいそうだって、いつもそんなふうに感じていたわ。
正直言って、本当はすごく怖かった。
ふふ、 『 常勝将軍セリス 』 が聞いて呆れるわよね。……そうね。あれから一年も経ってしまったなんて。
貴方にも話したと思うけど、私はずっと眠っていたの。
記憶は曖昧で、あの魔大陸から降りた瞬間までのことは覚えていて、でも、それから後の部分は断片的なことしか思い出せない。
気付いたら、私はベッドの上にいたの。
つい最近の事よ。目を覚ましたのは。
私が昏々と眠り続けている間にも、貴方や皆は、この荒れた世界を生きていたのね。
静かだと思わない?
下から皆の話声が聞こえてくるけど、それ以外は何も聞こえないのね。
此処でこうして暗い空を見ていると、今までの事が自然に思い浮かぶの。
帝国の下で育てられてきた幼い頃のこと、将軍として剣を振るっていた頃のこと。
皆と初めて出会った時のこと、皆と離れ離れになる直前のこと、私が目覚めてからこれまでのこと――。
えっ?
……ええ、そう。
さっきも、思い返していたの。今日あったことを。
え?
私が、思い悩んでいるように見えるのかしら?
……そう。貴方には、嘘がつけないみたいね、私。
ええ、その通りよ。少し、考えるところがあって。それで、私はここに来たの。
こうして月を見上げていれば、少しは心の中が晴れそうな気がして。
そうね。貴方になら、話を聞いてもらえるかしら。
あ。
でも、誰にも言わないでね。特にと、シャドウには。
だって、私が考えていたのはあの二人のことなんだから。
約束して? いい?
貴方は今日、ずっとファルコンに待機してたから知らないと思う。
たぶんこの事を知っているのは、当の二人以外、一緒に行動していた私だけでしょうね。
ええ、それじゃあ、話しましょうか。
今日あった出来事を。あの二人に起こった出来事を。私の心に澱を残した出来事を。
雨が降っていたわ。
昼間、突然雨粒が落ちてきたでしょう? 私達が丁度、怪物と剣を交えていた時だった。
急に頭上から、冷たいものが降り注いできたの。
敵の身体から流れ出した血と体液、むせ返るようなその匂い。
いっそどしゃ降りであればそれも直ぐに洗い流されてしまったでしょうけど、降り始めはそれ程でもなかったから。
雨水と混ざり合った血の匂いはより鮮やかで、より一層強い臭気を辺りに漂わせていたわ。
少し、厄介な相手だった。
こちらも連続して戦っていて、消耗していたから余計に時間が掛かって。でも、それはそれだけの事に過ぎなかった。
私が剣を、シャドウが巻物を、が魔法を駆使して戦ったわ。問題なく勝てる筈だった。
私はそう確信して、とどめを刺したの。
一瞬の後、耳を劈くような絶叫が鼓膜を打ったわ。
次の刹那、私には何が起こったのかよくわからなかった。
最後の力を振り絞った敵の攻撃に吹き飛ばされたって気付いた時にはもう、私は地面を転がっていたの。
一瞬、息が止まったわ。
意識すら飛んでいたのかもしれない。
それでも私は、顔を上げた。そして見たの。キラキラと空中に何かが飛散していくのを。
ハッとしたわ。
魔力の気配が残っていたんだもの。
敵が死に際に放った魔法の帯が、雨の降りしきる空気中に融けていく。
強さを増し始めていた雨で煙るような視界が、まるで夢見るような虹色に彩られて、直ぐに消えたわ。
私は魔導の力を人工的に注入されている事もあって、魔法に対しての耐性は比較的ある方。
けれど、シャドウとは違うでしょう?
立とうとして、でも膝に痛みを感じて直ぐに立ち上がる事が出来なかった。私は目だけを二人に走らせたの。
たまたま離れた場所にいたは、魔力を浴びる事もなかった。息を詰めて、こちらの様子を窺っていたわ。
でも、前線に出ていたシャドウはそうじゃなかった。
最初、私は彼に魔法が効かなかったのかと思ったの。
あまりに普段通り、平然とした感じだったから。
こちらを振り向いた時も、シャドウの表情に変わったところはないように思えたから。
……なら、或いはその時にもう、彼の異常に気が付いていたのかもしれないけど。私にはわからなかったの。
彼は私を、次いでの方を見たわ。
その人の手にしていた刃、其処についた紅が、雨でみるみる洗われていったのを覚えてる。
ほんの、一瞬のことだった。
私の脇を、風が通り過ぎていったように感じたの。
――直ぐに、それがシャドウだって気付いたわ。彼が残していった風の中に、微かな魔力が含まれていた事にも。
私は息を呑んだわ。
その魔力から、今のシャドウが一時的に思考の自由を奪われている状態だって、わかったから。
僅かな時間とはいえ魔の力で精神を侵食された彼は、こちらを味方でも敵でもなく、ただ攻撃対象としてしか認識しなかった。
私が直ぐに立てないのを知って、後回しでも構わないって判断したんでしょうね。
あの場合なら、的確な行動だわ。
動けない相手から確実に仕留めるのも一つの策には違いないけれど、連戦で先にほとんど魔法力を使い果たし始めていた私と、まだ力が残っていて魔法を放つ可能性のあるとなら、優先順位は明白よね。
そうでなくても、彼、状況判断に長けてるもの。
今自分の置かれている事態を把握し、どうするのが最善かをいかに短時間で導き出すか。
まるで戦法の教科書、そのお手本みたいな戦い方をするのよ。
私、このパーティーの中で一番敵に回したくないタイプって、シャドウだと思う。
もし仮に勝負するとしたら、私も一対一で勝てるかどうか自信は持てないもの。
一瞬の判断で、シャドウはその刃を最初に向けるべき相手へと滑走していたの。
は丸腰で、ただ彼が向かってくるのを見ていたわ。
私、彼女が硬直してしまったんだと思った。
どうしていいのか判らなかったんじゃないかって、その時は思ったの。
私は自分の身体にケアルを施すのももどかしく、彼女に逃げるよう叫んだわ。
でも、私の声が届かないかのように、は立ち尽くしてた。
……いつだったか、ロックが混乱して彼女を攻撃しそうになった時の話、覚えてる?
私はその場にいなかったから聞いた話だけど、ってば、すごく冷静だったって皆言ってたものね。
ええ、ああいった状況で一番必要なのは落ち着いた対処だもの。その話を聞いた時、私感心したのよ? 皆は笑い話の種にしていたけど。
……まあ、お腹に拳骨を入れられたっていうロックにはちょっと気の毒だけど、ね。
そんな彼女がただ、呆然としたかのように動かないでいたの。
未だ降り止まない雨がその身を濡らし、黒髪から絶えず滴が落ちていたわ。
、目の前に迫るその人を見据えたまま動かなかった。
シャドウは躊躇うことなく手中の得物を振ろうとして。銀色の其れが一閃すれば、鮮やかな赤が再びその刃を塗らすのに違いなかった。
私は自分が何を叫ぼうとしているのかも判らないまま、再び声を上げようとした。
けれど、喉の奥が凍り付いてそうする事さえ出来なくなったわ。
見てしまったの。
ざあざあと降り続いている雨の中で、真っ直ぐにシャドウのことを見つめていたがふんわりと微笑んだのを。
私は眼前での出来事に目を疑ったわ。
どうしてそんな顔をするのか、彼女を直ぐに理解する事が出来なかったの。
それでも、確かにはやわらかく笑っていたわ。
まるで、花が綻ぶかのようだった。――時間が、止まったような気がしたわ。
けれど、そのせいでしょうね。
シャドウが一瞬、動きを止めたの。
そのほんの僅かな時間だけでも充分だった。
既に回復を終えていた私は、剣の柄で彼を殴りつけたの。勿論、手加減したわよ。
シャドウは静かに膝を地面に落としたわ。
それを目の前にいたが抱き止めた。
もうその時には笑みは消えていて、普段通りの彼女だった。
心配そうに彼を覗き込むと、シャドウは意識も失わずにいてに肯いてみせたわ。
掛かっていた魔法を振り払う事が出来たのよ。
思わず息を吐き出さずにはいられなかった。
私は天を仰いだわ。
未だ勢いの衰えない雨が後から後から落ちてくる。
水が顔を叩くのに身を任せていると、ふっと身体が軽くなったわ。見れば、が私に回復を施してくれてた。
目が合うと、彼女、言ったわ。 「ありがとね、セリス」 って。
私がシャドウを止めた事なんでしょうけど、実際に彼を止めたのは彼女以外の誰でもないのに、ね。
思ったけど、それを口にするのがなんとなく憚られて、私はただ首を振ったわ。
それよりも、私達ひどい状態だったんだもの。
雨と汗と泥にまみれて、身体も疲弊しきっていたから。ひとまずファルコンに戻ろうっていう事になって。
こうして私達は戻ってきたの。
でも、私は飛空艇に戻ってからも、ずっと胸に暗い色のもやを残したままだった。
がどうしてあの時微笑む事が出来たのか、そればかりが頭から離れなかったのよ。
その理由を訊く事が出来たのは、ついさっきの事。
……ええ、此処に来る前にね。
これは偶然なんだけど、丁度が、シャドウの部屋から出てくるのを見たの。
シャワーも浴びて着替えもして、食事も済ませて一段落した時分よ。
今日は後片付けの当番でもなかったし遊戯室にも居なかったから、私、は自分の部屋に戻ってるんだって思っていたの。
でも、そうじゃなかった。
いつもなら、此処でちょっと揶揄かうところよ。
ってば私より年上だけど、割と直ぐ赤くなったりして可愛いところあるもの。
でも、今日はそんな気分にはとてもなれなかった。それに彼女、なんとなく、元気がないように見えたの。
声を掛けようかどうか、迷ったわ。
そうしている間に、向こうは自分の部屋の方向へどんどん近付いてく。
話し掛けるなら今しかないって思って、思い切って肩を叩いたわ。
振り返った彼女に言ったの。どうしたのって。元気がないみたいだけど大丈夫かって。
は特に驚きもしないで 「うん」 、って曖昧に肯きながら言葉を濁して、ちょっとだけ間を置いて、続けたわ。
「シャドウさんに、ちょっとね」
「ちょっと?」
「……うん」
「今日の事?」
「……うん」
あまり喋りたくなさそうだったけど、大方、予想はついたわ。
だってシャドウ、帰り道ずっと、いつもとは違う沈黙を纏っていたから。
……ああいう事があった後だもの。
多分、彼女に伝えたい事があったんでしょうね。それでを自室に呼んだんじゃないかしら。或いは逆で、の方が彼に伝えたい事があったのかもしれない。
……あくまで、この辺は私の推測。だから、変に深読みしないでよね?
私にとって、とシャドウが何を話していたかは大事ではなかったの。
だから、私は自分が一番訊ねたいと思っていた事を訊いたわ。
「どうしてあの時、笑うことが出来たの」 って。
ね、一瞬黙り込んだの。
そうして直ぐに、小さく息を漏らしたわ。
「セリスにまで、シャドウさんと同じ事を訊かれちゃった」 、って言いながら。
「……シャドウからも、そんなふうに言われたの?」
「うん。どうしてあんな顔をしたんだ、って」
「……なんて答えたの?」
「答えなかった」
思わず、彼女を見たわ。
は顔を逸らして、床の辺りに目線を落としてた。
珍しいんじゃないかと思うの。
って、結構素直だし従順な方よね。特にシャドウに対しては殊更じゃない? なのに、質問されて返答しなかったなんて。
「どうして」 って私が言っても答えてくれないかなって、一瞬考えたわ。
少しの間、沈黙が流れていったの。
けど、彼女、徐に口を開いたわ。
「わたし、おかしいのかな」 、って。
首を傾げたわ。
何を言い出すんだろうってそう思ったの。
どう反応していいか判らなくて目を瞬かせていたら、、急に話し出し始めたの。
「あの時、本当は避けないとって思ったんだよ? シャドウさん相手だから何処まで逃げ回れるか判らないけど、それでもそう思った。なのに一瞬、変な事を考えた自分が居て……」
「変な事?」
私はまた首を傾げたわ。
彼女が何を思考したのかを思い巡らしたの。
考えてみても、冗談みたいな想像しか私には浮かばなかった。
「まさかシャドウにだったら殺されてもいい、だなんて考えたんじゃないでしょうね」
彼女が笑い飛ばしてくれるのを微かに期待して、思い切って言ってみたわ。
きっといつもみたいに、片手を振って否定してくれるの。のほほんとした物言いで、それはないよ、って言ってくれる。
そんな願いにも近い想いで私は言葉を待ったの。
「――近いけど、ちょっと違うかな」
……欲しい応えというのは、思ったとおりに手に入れるのが難しいものね。
は言葉を失った私の前で、話すのを続けたわ。
いつもと変わらないあっさりした、何処かしら淡々とした口ぶりだった。
「殺されてもいいなんて、思ったわけじゃないの。ただ……、もしあのままそうなっていたとしたら、シャドウさんはどうなるのかなって考えたのは、確かだけど」
「がそうなったら、悲しむに決まってるじゃない!」
本当なら、私、この辺りでをひっぱたいてたと思う。
彼女、シャドウがどれだけの事気に掛けてるか全然わかってないんだもの。
私達が傍から見てるだけでも充分すぎるくらい伝わってくるのに、肝心の本人ときたら!
でも、の方はと言えば、私が想像したのとは少し違った事を考えていたの。
言葉は尚続いていたわ。
「そうだよね。シャドウさん、優しいから」
「わかってるなら、何でそんな事――」
「だから、もし」
有無を言わせぬって、ああいうのを言うのかしら。
は、話し方も変わらないのに何処か強引に、私が口を挟もうとするのを遮って言葉を繋げたわ。
「ほんの少しでも、シャドウさんの心の引っ掛かりになれてたら――これから先ずっと、わたしはシャドウさんを縛り続ける事が出来るかなって、そう思って」
「……え?」
私は、彼女が何を言おうとしているのか最初わからなかった。
ふと気付けば、は真っ直ぐにこちらを見ていたわ。髪と同じ色の黒い目が、ジッと私を見上げているの。
何故かたじろぎそうになるのを、私は拳に力を入れて堪えたわ。
「今あの人が背負ってる何かみたいに、その一部に自分も加えてもらう事が出来たら、わたしは死んでもシャドウさんとずっと一緒に居られるのかなーって。そう思ったら、それはそれでしあわせな事のような気がして。そう思った時かな、わたしが笑ったっていうのは」
私、その時になって気付いたの。
の顔が微かに青ざめてるっていうのに。
彼女は言ったわ。
「一瞬でもそんな事を考えたわたしは、何処かおかしいんじゃないかって其ればっかり考えてるの。今も、そう。――わたしは、シャドウさんには苦しんでほしくないって思ってる筈なのに」
そう言って微かに笑んだに、私はもう何を言えばいいのか判らなかった。
ティナじゃないけど、人を愛するって不思議なことなのねって、思うの。
その人の幸せを願ったり、自分の気持ちに自ら苦しんだり、あたたかい感情がふとした瞬間に冷たく翳ったり、……それでも溢れ出る想いを、自分の中に留めておくことがどうしても出来ないんだもの。
私だって同じだわ。と、何も変わらない。何も。
……ああ、大分夜も更けてしまったのね。
この話はこれでお終い。
覚えてる? 誰にも言わないでねって約束したのを。
私は貴方だから話したのよ。だから、お願いね。今私が話した事は忘れて頂戴。
私は何も口にしなかったって。そういう事にしておいてね。
のこと?
大丈夫、きっと明日にはいつものが居るわ。彼女は弱くもあるけれど、同時に強くもある人だもの。私はそう思ってる。
大丈夫。きっと大丈夫。
だから、明日の朝に会ったら、いつも通りおはようを言おうと思うの。
さあ、今日はもうここ迄よ。
眠って、それから明日の彼女に会いに行きましょう。
おやすみなさい、どうか、いい夢を。
どうか私の友が、今日という日を思い出さないよう。
どうか明日が、晴れた一日であるように。
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