オペラ劇場から、招待状が届いたという。
伝説の八竜、そのうちの一体が劇場内に現れた事、そしてその討伐を果たしたのは以前の話だ。
フィガロに立ち寄った際に届いていたのが国王宛ての礼状、そして共に同封されていた再開公演のチケットだという。
舞台どころではなかった様子のあの劇場も、ようやく再開の目途が立ったのだろう。
世界を巡る旅の中、急に予定の進路を変えたのは、その招待状を王が受け取った直後のことだ。公演の日付が迫っているらしい。
そもそも関心のない俺は全く観る気もしなかったが、一行の中には折角だからと操舵手に進路変更を願い出る者もいたようだった。

「……シャドウさん、もしかしてオペラお好きだったりしますか?」

話を聞いたが、徐にそう此方を振り仰ぐ。
俺が一言、「いや」とだけ答えれば、彼女は小さく肯いた。

「じゃあ、夕食はいつもの時間にお部屋にお持ちしますね」
「……お前は観に行かないのか」
「オペラですか? わたし、オペラってよく分からなくて。映画だったら内容によっては、観たんですけどねえ」

そうは微かに笑う。
彼女の世界にある映画というものの話は、少し前に聞いた事があった。
その場で役者が演じるのではなく、物語の全てを映像に切り取った状態で観るものだという。今回の劇とでは、大分趣も異なるのだろう。
ともあれ、自分もも飛空艇を下りることはない。この時はそう思っていた。
ふと気付けば、船は既に劇場のある大陸に近付きつつある。
夕暮れが迫っていた。


観劇する者達は、早めの夕食を取り早々に船を下りていった。
いつも通りの時間にが持ってきた食事を済ませる。その頃にはとうに陽も落ちて、窓の外には夜の帳が下りていた。
闇色が辺りを覆う中、しかし其処には煌びやかな明かりがある。
やや離れた位置に飛空艇を停泊させてはいたが、視界に入る劇場の明かりはそれでも眩しく、俺はカーテンを引きその光を遮断しようとした。
手が止まった。
それというのは窓の外、眼下に捉えたのが外を歩くの姿だったからだ。
その足はどう見ても劇場の方向へと向かっている。今から観劇を? あまり興味も無さそうな口ぶりだったが、気が変わったのだろうか。
しかしそうだとしても、あまりに時間が経ちすぎている。
先に艇を下りた者達は一時間半も前に下船しているのだ。とうに開演時刻は過ぎているだろう。それでも、今から観に行こうという気になるものだろうか。
小さな奇異を感じ、少しの間立ち尽くしていた。
黙殺してもよかったかもしれない、オペラ劇場に今は危機などなく、に身の危険が及ぶような事など何も無いのだから。
頭の中では、そう分かっていた。それだというのに、何故か一瞬、あの娘がもう戻ってこないかのような錯覚を覚える。
何を、馬鹿な。そんな事がある筈がない。
思うが、しかし気付けば部屋を出る準備をしている。……どうも自分は、あの娘に相当甘いらしい。
そう思わざるを得なかったが、すぐにそれを打ち消した。
単純に観劇に向かったのなら、それでいい。生じてしまった小さな違和感を、自分のために払拭する。ただそれだけの事だ。
インターセプターに部屋に残っているよう言いつけ、その頭を一撫でする。
静かに俺は飛空艇を下りた。


劇場の受付やその周辺に人影は少ない。
今はその多くが舞台とその席に集まっているのだろう。受付に一人が立ち、ごく少数の運営側の人間が時折辺りを行き交う。遠くから、緩やかに流れてくる音色。
チケットは持参していなかったが、以前何度かあいつらと共に出入りしたのを覚えているのだろうか。
自分が場違いなのは重々承知の上だったが、誰も何も言い咎めてくる気配はない。それどころか会釈までされる始末だ。
どうにも居心地が良いとは言い難かったが、しかしとにかく辺りを見渡す。
来てみたところで、どうするというのを考えていたわけではない。
舞台席へ通じる階段、その先の向こうにある大扉を見上げる。
あの先に多くの観客がいるのだろうが、その中から一人を見つけ出そうとは思っていなかった。
思案の後、舞台席を除いた劇場内を一回りする事にする。
あの娘を見つけられなければ、逆に舞台席の何処かに居るという事になる。それならそれでいい。

しかし、人通りのない通路の先にあっさりとその姿は見つかった。
壁に向かって凭れるように両手をつき、は静かに目を閉じている。
等間隔に配置された頭上の暖色のライト、その光を避けるかのような位置に黒髪の娘は居た。
ジッとしていて、まるで彫像のように動かない。
こんなところで、何を。
思うが直後、の壁についていた手がズルズルと滑り、その膝も力なく沈みかけていた。
観劇に来て、しかし具合が悪くなり抜け出してきたのか。
すぐさまその身体を支えてやれば、向こうは驚いたように此方を見上げてくる。
構わず、片方の手袋を脱ぎその額に手の平を押し当ててみる。「ひゃっ」とが声を上げたが、気にせずに温度を確かめた。
頬は赤く色づいていたが、特に高熱というわけではないようだった。

「立てるか」
「え、あ、はい。あの」

そっと身体を離してみても、はどうという事もなく其処に立っている。
目を瞬いたかと思えば、
「……シャドウさん、オペラ観に来たんですか?」とややズレた問いを口にする有様である。
ひとまず、身体の方はそれ程の大事ではないらしい。
しかしそうだとしても、今しがた座り込みそうになる程の脱力があったのは確かなのだ。
早々に飛空艇に連れ帰るべきだろう。俺はそう判断した。

「違う」
「じゃあ、どうして」
「俺の事より、自分の心配をしろ」

崩れ落ちそうにさえ見えたのだ。何か目に見えない不調を抱えているのかもしれない。
そんな事を端的に告げて戻る様に促したが、其れを聞いた娘は極めていつものように微笑んでみせた。
何処も具合は悪くないという。
なら、何故。
は少しだけ黙り込んだが、言いたくないというよりは言葉を整理しているといった様子だった。
やがて、娘は言った。
「……此処、わたしの世界の建物に似てるんですよね」、と。
彼女の言葉は続いていた。

「此処にいて目を閉じてると、帰ってきたみたいな感じがして。それで、ちょっと……人気のない時間帯を狙って、こっそり来てみたんです」

すぐ飛空艇には戻るつもりだったんですけど。
そう口にする彼女はいつものように振舞っているが、俺はようやく合点がいく。
自分の世界を思い出していたのだろう。たった独り、この場所で。似ているとはいえ、何処までも遠いその世界の事を。

「シャドウさんに支えてもらうまで、座っちゃいそうになってるの気付きませんでした。……疲れてるんですかね、駄目ですねわたしってば」

錯覚は、或いは、いつか来る未来のものだったのだろうか。
飛空艇の窓から見下ろした娘の姿を思い出す。
あの時自分は、もう彼女が戻ってこないかのように感じていた。
今まであまり考えないでいた事が、不意に自分の中にはっきりと姿を取って浮かび上がる。目の前の娘はある日突然、この世界へと現れた。
ならば、いつか突然に姿を消す事もあるのだろうか。もし、そうなら。もし、そうだとしたら。

「仰る通り、戻って身体を休めた方がいいかもですね」
「帰りたいか」
「……はい?」

は、俺の問いの意味が一瞬解らなかったようだった。
繰り返した。

「元の世界に、帰りたいか」
「…………」

黒髪の娘は、すぐには答えない。
意味を咀嚼し、やや考えるような素振りがあったが、やがてその口元が笑みを形作った。
その目が、此方を真っ直ぐに見る。

「もし、わたしが帰りたいって言ったら……シャドウさんはわたしの事、引き留めてくれますか?」

空間には、変わらず遠くから流れてくる音楽、その音色の残滓が満ちている。
俺はただ何も言えず、その目を見返す事しか出来ない。
自分に、口に出来るような言葉など無かった。俺に、そうする資格などない。
娘がいつか居なくなるかもしれないと考えるのを、今まで敢えてしてこなかった。……考えたくなかった。
沈黙が落ちる中、唐突にが笑い出した。
よく他の奴らと冗談を言い合う時のような、屈託のない笑い方だった。

「もうー、シャドウさんってば何で無言なんですか。こういう時は普通、一択ですよ?」

あっけらかんと言って、それでもなお黙したままの俺に彼女は肩を竦めてみせた。
それに、と笑みを残した口元が音を辿る。

「わたし、帰りたいと思ってるわけじゃないですよ? ほら、この世界には皆と、それからその……シャドウさんがいますし!」
「…………」
「此処に来たのはその、ただ向こうの事を思い出して、覚えておこうと思って。それだけですから!」
「…………」

殊更陽気に振舞うがひとしきり言いたい事を言ってしまうと、ふう、と一つ息をつく。
再びの沈黙。
いつの間にか、流れてきていた音色は別の曲のものに変わっていた。微かに曲に入り混じって聴こえる女の歌声。
その中で、娘はぶらぶらと両手を手持ち無沙汰のように二、三度振ったかと思えば、「じゃあ、そろそろ戻りましょうか」と歩き出す。
その後ろ背が一瞬、あの姿と重なって見えた。
あの、もう戻ってこないかのように見えた、飛空艇の窓から見送った背に。
の動きが止まったのは、俺がその腕を掴んでいたからだ。
引き留める言葉を俺は持たない。……行くな、などとは言えない。
黒髪の娘は振り返らなかった。ただ、
「大丈夫ですよ」、という声があった。

「わたし、帰ったりしませんから」
「…………」
「なんですけど」

その腕を掴んでいた自らの手から力を抜こうとした時、やはり振り返らないまま娘は続けた。

「……離さないでくださいね、シャドウさん」

その言葉に、手が止まる。
同時に遠くで、沸き上がるような拍手喝采らしき音が上がった。その音の雨は此処にまで降り注いでくる。
その雨の中にいながら、目を閉じる。
……掛ける言葉を持たない俺でも、せめてこうするくらいは許されるだろうか。
そうだといい。身勝手にもそう願いながら、その腕を取る手に力を込める。
音の雨がいつまでも、辺りに降り注ぎ続けていた。






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