。……

声が、聞こえました。
意識が浮かびきっていません。
身体がまだ動かなくて、どうにも反応できずにそのままでいると、そっと額に何かが触れました。
それが何なのかも分からず、ただ意識がはっきりするのを待ちます。

いつの間にか、眠ってしまったんでしょうか。
声が誰のものなのかさえ、すぐには明瞭になりません。
……布団の中で微睡んでる時って、まあ、そんなものですよね。
ただ、それにしたって変でした。
普通に夜眠って、朝に目覚めるのとは感覚的に違っていましたから。随分と長く眠ったみたいな気もします。

(おかしいな……)

今日っていつだっけ。
ここ、そもそも何処だっけ。……少なくとも、自分の家ではなさそうだけど。
沸々とそんな疑問が浮上し始めて、わたしはようやく、うっすら目を開けました。
何処かの室内。窓はカーテンが閉められていましたけれど、明るさから昼間と判断できます。
視界の情報から、宿の一部屋のように思えました。
そうして、今にも部屋を出ようとしていたその黒い背に問いかけます。

「あのう、シャドウさん」

言ってから、
(そう言えばこの人はシャドウさんだな)、と自分の中で一つ肯きます。
記憶が曖昧なのは、寝起きのせいでしょうか?
でもわたし、寝起きだからってそんなにぼんやりする方ではないって、自分でも思うんですけど。
ハッとしたように振り返る貴方を見返しながら、はて、と考えます。
眠りに落ちる前のことを、何故かすぐに思い出せないんです。そもそも、宿に宿泊した覚えもありません。
何がどうなったんだろうと思う前に、「えーと」、と一言置いてから、わたしはとんちんかんなことを言っていました。

「シャドウさん……で合ってますよね?」
「……………ああ」
「良かったです。……あの、わたし」

一度区切って、念のため頭の中を振り返ります。
でも、ダメでした。うっすらと白い靄が掛かったみたいに、前後が不確かなんです。
訊ねる方が早いと判断して、すぐ傍まで来ていたシャドウさんを見上げて、訊いてみます。

「わたし……どうなったんですか」
「……記憶がないのか」

その目が一瞬、悲しいのか苦しいのか、そういったものに共通する色を帯びた気がしました。
けれども、

「いやいや、そんな大袈裟な」と繕います。

だって、全部を忘れているわけじゃありませんから。
ちょっとこう、意識をなくす直前が思い出せない、ただそれだけでしたから。それよりも。

「!」
「どうした」

一瞬の間の後にガバと布団で半分、顔を隠します。
寝起きです。わたし、起きた後って髪は爆発しやすいですし、顔だって洗っていません。
正直見られたものではないのに、それをシャドウさんに見られるのは、あまりにあんまりでした。
もごもごとそれを伝えれば、微かに息の漏れる音がありました。
呆れられたかもしれませんが、まあ、それはそれとして。

「……体調はどうだ。何か食べられそうか」
「え? ……えっと」

体調の方は、普通です。食欲だってそれなりに。
そう言おうとして、ふと違和感を覚えます。
たっぷり眠って全快、のはずでした。なのに、妙にふわふわと身体に力が入りきらないのです。
誤魔化そうにも、相手はシャドウさんでした。
絶対すぐにバレてしまうのは明確でしたので、正直なところを伝えます。食事の方は、問題なく取れそうなことも付け加えて。
それにどう反応するでもなく短く肯くと、シャドウさんは部屋を出て行きました。
わたしはもう一度横になって、天井を見つめます。そうしながら、

(今日って、いつだっけ)

目覚めてすぐに思った疑問を、もう一度繰り返します。
自分に何があったのかを、そっと記憶の底から掬い上げようとし続けていました。





昏々とは眠り続けていた。

顔色は悪くもなく、脈拍も正常だった。
ただ、力を使い果たしたように――実際その通りなのだが――、そして消耗した身を守るためであるかのように眠り続けている。
ようやく辿り着いた町、宿屋に飛び込んで娘を寝台に横たえる。
呼吸は乱れもせず、静かにその胸が上下している。
それでも、目覚めない可能性を思ってゾッとした。

一晩が明けても、様子に変わりはない。
呼び掛けても反応はなく、そっと額に触れてもみたが、熱があるわけでもなかった。
やはり、深く寝入っているだけなのだろう。
どうするべきか思案し、今は安静にするしかないと判断して部屋を出ようとした時に、何の前触れもなく黒髪の娘の声がして驚いた。
向こうは向こうで、全くいつも通りの具合である。しかし、それなりに混乱してはいるようだった。

記憶が一部、抜け落ちている。

それがどの程度のものかはまだ判らないが、ひとまずは目覚めた事実に安堵する。
空腹が長かったことを考えれば、消化のよいものが良いだろう。
宿の主人に事情を話せば、快く食材を分けてもらえた。数日前に精米したばかりだという米に、庭先の鶏が生んだ卵。
たまご粥と呼べるかは何とも言えないが、火にかけて煮込めばそれらしいものが仕上がった。
再び部屋を訪れれば、はベッドの上で身体を起こしていた。

「朝ごはんですか?」と訊ねてくる。
「朝という時間でもないがな」
「おかゆですか? えっ、もしかしてシャドウさんが作ってくれたとか?」
「…………」
「やだ、シャドウさんすごく優しい……」

一瞬遅れて「宿の者が作った」とでも言えばよかったのだと気付く。
思うが、後の祭りだった。は嬉々として膳を受け取って中身を覗き込んでいる。
大したものでもなかったし、口に合うかは分からないが。

「美味しそうですけど、まだちょっと熱いので少し冷めてから頂きますね。……その間に、シャドウさん」
「…………」
「いくつか、確認しておきたいんですが」

膝の上に粥の器が載った盆を抱えながら、はこちらを見る。

「インターセプターは……」
「別室にいる。……ここはニケアの宿屋だ」
「ニケア。……二ケア」

小さく肯き、娘は少し納得したようだった。
続けて、また訊ねてくる。

「今って……世界、崩壊してますよね」
「ああ」
「……皆と離れ離れになって、でもわたしとシャドウさんとインターセプターはたまたま、一緒にいて。サマサの村を出て、結構経ちましたよね」
「……そうだな」

静かに肯定すれば、はいくらか、考え込むような素振りを見せた。
記憶の整理をしているのだろう。短いやりとりからも、大きな記憶の欠落はないようだ。
ならば、無理に意識を失う直前のことを思い出さなくてもいい。そう思った。
しかし。

「……ベヒーモスは、倒せたんでしたっけ?」
「…………思い出したのか」
「ちょっと、確証はないんですけど……あ、その口ぶりだと戦ったのは間違いないんですよね?」

で、倒せたんでしたっけ?
は繰り返して訊いてくる。
覚えていないのも無理はなかった。戦い終わったその時、黒髪の娘は力を使い果たして倒れ込んでいたのだから。
そしてあの時、が力量以上の魔法を放っていなければこちらの方がやられていた。

獣ヶ原の洞窟。追い求める刃が隠されているという噂。探索の末に現れた巨体の化物。
一体は仕留めることができたが、もう一体が現れた時点で退くべきだった。
地面に倒れ込みそうになったその時、ふわりと身体が軽くなった。の治癒の魔法がこちらを包み込んでいた。
直後に彼女が放った攻撃魔法は、あまりに眩しかった。
ベヒーモスは既に跡形もなかったが、今のが持てる魔法力以上のものだった。限界を超えた力を、無理やりに引き出したのだろう。

反動は大きかった。
黒髪の娘は長く眠り続け、記憶も一時的に欠けてもいた。
だが、はこうして今、目の前にいる。それだけで十分だった。
事のあらましを伝えれば、彼女は全容が見えたというふうに肯いた。

「……じゃあ、ここに辿り着くまでわたし、ずっと意識不明で、シャドウさんにご迷惑を掛けちゃってたってことですよね」

申し訳なさそうには小さくなるが、そもそも俺自身の判断ミスだ。
目的のものが見当たらない時点で、早々に切り上げるべきだった。いや、もっと言えばを連れていくべきではなかったのだ。
結果、娘は無事に目を覚ましてくれた。だがもし、と思うと身が凍るようだった。

「いや。……すまない、俺が判断を誤った」
「えっ? そ、そうですか?」

短く詫びれば、は驚いたようだった。
色々と伝えたいことはあった。だが、まだ目覚めてそう間もない。
今は、娘の体調を整える方が先決だと思った。

「……今後のことも含めて、後で話す。今は、食事を済ませてくれ」
「あ、はい。……いただきます」

が肯くのを見届けて、俺は部屋を出た。
一撃の刃は、あの洞窟にはないようだった。あれだけ探索したのだ、可能性は低いだろう。もしまだ何処かに隠されているとしても、もはや戻る気はない。
次に目星をつけている場所がある。竜の首コロシアム。戦うことで貴重な武具を得られると話に聞いている。
多くの人間が集まるというその場所ならば、もしや、とも思う。
何より、戦うのは自分一人だ。を危険に晒すこともない。

次の目的地を見定めながら思う。
黒髪の娘の力は、以前とは比べ物にならないほどに大きくなっている。
今回のようなことが、また起こらないとも限らない。
……力が欲しかった。敵を一撃で葬ることができる力が。それさえあれば、娘が戦う必要もない。

娘が、が戦わずとも済むように。
自分が、修羅の道を行けばいい。俺はそう思った。







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