砂漠の夜って、本当に冷えるんですね。
フィガロに宿泊したことは、今までにも何度かありましたけど……。
あ、あと昼と夜とで気温差がすごいって、聞いたことはあったんです。
でも、わたしが住んでいたところには、砂漠ってありませんでしたから。外国の方だったらあるんですけど。
……だから、初めて訪れた時はいろいろ吃驚したんです。流石に今は、それなりに慣れましたけどね。

暖房が入った室内。
わたしは外の様子をなんとなく眺めていました。
星影さやかな、という言葉が似合いそうな夜でした。
窓辺に立つと、別棟に灯る明かりがいくつか目につきます。ぽつりぽつりと数える程度。
例え真夜中であっても、城の誰かが眠らず起きていて、この城を守っている。
そう思うと、場所が変わるとなかなか寝付けない自分でもなんとなく安心して眠ることができましたっけ。

そんな以前のことを思い出しながら、わたしは振り返ります。
図書室である空間は、独特の静けさがありました。
全くの無音でもありません。誰かがページを繰る音、足音に、微かなさざめき。
蔵書の数はやっぱりそれなりにすごくて、(わたしもこの世界の文字を読めたらなあ)と思わずにはいられません。
夜とはいえ、まだ眠るには早い時間でしたから。まだ何人かフィガロの学者さん達がいて、それぞれ調べものをしたり、書き写したりをしていました。

わたしも、図書室は結構好きなんです。
学校にいた頃は、それなりにお世話になったものです。だから、ちょっと懐かしいっていうのもありますね。
ただ、……エドガーさんから教えてもらったことがやっぱり、一番の理由です。ここを訪れたのは。
わたしにとっては唐突なことでした。




「はい?」

夕食後のゆるやかな時間。
既に席を立ってしまった人達も多くて、何人も残っていない頃合いでした。
そんな時にエドガーさんから声を掛けられて、いつもみたいに返事をしたんです。向こうは向こうで、普段通りとてもにこやかでした。
少しだけ、時間をもらえないかな。
そう言われて、特に断る理由もありません。エドガーさんに促されて、すぐ近くの一室に場所を移します。
足を踏み入れれば、中には既に一人、先客がいました。

「シャドウさん?」
「彼にも、同席してもらおうと思ってね」

前もって声を掛けておいたんだ。
そうエドガーさんが教えてくれる間にも、貴方は押し黙ったまま。
椅子に腰掛けたまま微動だにしない辺り、いつも通りのシャドウさんです。
エドガーさん、わたし、それにシャドウさん。
三人が揃ってなお、わたしは(明日の行程のことかなあ)くらいに思っていたんですけど。
実際のところ、その内容は全く想像していないものでした。

「単刀直入に言おうと思う」
「何でしょう」
「以前から、君が元いた場所へ帰れないかを考えていたんだ」

わたしは黙って、彼を見返していました。
何か言おうにも、エドガーさんが言い出した言葉の意味、そして続きがどんなものか、まだ何も分かりませんでしたから。
ただ沈黙するこちらを見ながらゆっくりと、けれど流れるように、その人は言葉を紡いでいきます。

「ティナが幻獣界から来たように、別の世界と行き来するというのは未知の話ではないと、前から考えていてね。ただ、幻獣界へ繋がる手がかりはあったものの、君の世界の手がかりというのは極めて少ない」
「…………」
「ただ、現には、今こうしてここにいる。……ならば必ず、世界が繋がった瞬間があるはずなんだ」
「…………」
「うちの学者たちには、魔大戦や幻獣について以前から調べてもらっている。今の戦いに必要なことだからね。同時に、の世界に繋がる手立てがないか、過去に似た例がないか、記録や本を見てもらっている」
「…………」
「どうしても今は、前者の方に労力を割いてしまう形になる。この世界自体が息を吹き返さないことには元も子もないからね。だが、戦いが終われば……君が帰るための手がかりの方にもっと注力できると思う」

そこまでを告げると、エドガーさんは一度口を閉ざしました。
わたしも、そしてシャドウさんも、変わらず黙ったままでした。
そういう話が出ることを、全く予想していませんでしたから。……シャドウさんも呼び出しを受けただけで、この時初めて、その話を聞いた……そんな感じでしょうか?
あ、やっぱりそうだったんですね。……いえ、あんまり反応がないみたいで、もしかしたらその辺も、事前に聞いてたのかなって。
そうですか。じゃあ、わたしと一緒ですね!
……とにかくひとまず、目の前の人の言葉を理解し、噛み砕く必要がありました。
こちらが軽く何度か肯くと、エドガーさんは再び話し始めます。

「希望がないわけではない。ただ……には酷なことだけれど、帰るための道筋が必ず見つかるという保証もない」
「……それはまあ、ふんわりとは思ってました」

わたしは少し座り直して、続けます。

「それでも、今こうして調べて頂いてるって聞いて……ありがたいなあって思ってます」
「……本当なら、手立てが見つかるまでは話さないでいるつもりだったんだよ」
「…………?」
「迷いもしたけれど、伝えておいた方がいいと判断した。君にも、考える時間が必要だろうからね」
「考える?」

何を、と言いたいのが顔に出ていたんだと思います。
、君は」、
エドガーさんの目がちらっと一瞬、シャドウさんの方に向けられます。すぐに視線をこちらに戻して、続けました。
「今の君には、こちらでの友人もいる。大切に思っている人もいると思う」
「…………」
「ここで生きていくことも出来るだろう。もしそのつもりでいるところに、帰り道が見つかったとしたら……はどうするのだろうと思ってね」

今、答えを求めたりはしないけれど。
そう口にするエドガーさんの意図が、少しずつ分かってきます。
確かにわたし、何も考えないようにしていました。
だって、帰れないってまあまあ怖いですもん。
だから、考えないようにしてました。とはいえ、どうしても思考しちゃう時はありますけど。

ぼんやりと(ずっとこの世界にいるのかもしれないなぁ)と思ったことも、何度かあります。全く無計画でいるわけにもいきませんし。
そして確かに、そのつもりでいる時に「選択肢」が急にぽっと出てきたら……すぐに答えを出せるのか、迷ってしまうんじゃないかってところを、エドガーさんは心配してくれたみたいですね。

……だからこそ、シャドウさんにも同席を求めたんだと思います。
だって、こちらの世界が破れてから、わたしをずっと見守ってくれていたのは他でもないシャドウさんですから。
わたし一人の問題でもないと、そこまでを考えてくれたんでしょうね。

「だから……今のうちに考えておいてほしいんだ。その時が来たなら、はどうしたいのかを」

真っ直ぐ見つめてくる目は細められていて、そこには労わりの色がありました。
「それに」、
付け足すように言うと、エドガーさんはシャドウさんに向き直りました。

「このことは、シャドウにも伝えておくべきだと思ってね」
「…………」

変わらず黙ったままのシャドウさんが、今の話をどう思ったかすぐには分かりませんでした。
だって、ほぼほぼ反応がないんですもん。
まあ、そこがシャドウさんらしいところなんでしょうけど。

とにかく。
エドガーさんは、わたしが答えを出すのに時間が掛かると思ったんでしょうね。
だからこそ、まだ手がかりのほとんど無い今のうちから考えておくようにと、そう判断したようでした。
ずっと先を見通している辺り、さすが一国の王エドガーさんですよね。
まあでもわたし、その時にはもう、答えは出ていたんですけど。

(そうなったらいいな……)

そう思うと、いてもたってもいられなくて。
エドガーさんの話が終わって、シャドウさんにもおやすみなさいを言ったその後に。
足は、別棟にある図書室に向いていました。
学者さんたちが調べ物をしているというその場所に、微かな希望があるように思えたんです。
外に出た瞬間、冷たい夜の乾いた空気に出迎えられます。砂漠の夜の、その冷えた温度。
それすら気にならないほど、遠くに光が見えた気がしました。





立ち並ぶ本の数は、どれほどだろうか。
自分が場違いだろうという自覚はある。ただ、国王の客人と認識はされているのだろう、城の人間達から見咎められることもなかった。
室内に残る者たちはそう多くなく、静かな時間が辺りを包んでいる。

棚には隙間なく書物が並んでいる。
この中に、黒髪の娘が元いた場所へ帰る手がかりがあるのだろうか。

本棚を見つめる。
黒髪の娘が、元いた場所へ帰る手がかり。
確かに、幻獣界のように繋がる可能性もあるだろう。こちらの場合は行き来が比較的最近にあったため、道筋を辿りやすかったと見るべきだろう。
そしての場合、手がかり自体は限りなく少ない。だが、娘の存在そのものこそ、世界が繋がった証拠とも言える。

娘にとっては、微かな希望に違いなかった。
それを理解していながら、いっそこの場所に火を放って全て燃やし尽くしてしまおうか、と思い掛けていた自分に慄然とする。
……今、俺は、何を考えていた?

形容し難い暗い色の何かが、自分を蝕んでいる気がした。
どうしてそうなっているのか判らない。何故そんなことを考えたのか判らない。
言葉にならない何かが、自分の中に居座り続けている。ひどく不快で、感情が掻き乱されるようだった。

俺は、俺自身のことさえ不確かだ。
……あの娘がどんな選択をしようとも、それでいい。そう思っているのは確かなはずだ。
寧ろ、娘の幸福を願う程度には気にかけている自覚もある。
なら何故、今こうして、ひどく心は不安定なのだろう。

学者たちは黙々と作業を続けている。
全ての本に目を通すには相当の時間を要するだろう。そしてフィガロの蔵書の中に糸口が見つかるとも限らない、そもそも、本であるのかさえ分からない。
それでも、いつ娘が元いた場所へ帰る手立てを得るか、分からない。
悪寒のような寒気が、自分の中を通り抜けていく。

「シャドウさん」

不意に、声は掛けられた。
上着を羽織ったが、灯された明かりの暖色に照らされながら立っている。
娘は続きを口にした。

「もしかしてですけど」
「…………」
「シャドウさんもさっきの話が気になっちゃって、ここに来ちゃった感じですか?」
「…………」
「気になっちゃいますよね。すぐにどうこう、って話じゃないのは分かってるんですけど。わたしも何だかちょっと、落ち着かなくって」


娘の言葉を遮り、訊きたくないはずの問いを口にする。
「帰りたいか」と。
は瞬いて、すぐには答えない。
少し間を置いた。繰り返した。

「もしその時が来たら……おまえは帰りたいか」
「――そうですね。帰りたいと思ってます」

黒髪の娘の答えは、明朗なものだった。
冷水を浴びせられたように、胸の内が冷えていく。それが分かって、何故自分が暗い感情に足を取られているのかがようやく見えた。
を、帰したくない。手放したくないのだ。
ただそれだけのことなのだと、ようやく合点がいく。同時に、自分に対して無性に腹が立った。
あまりに身勝手なことを思ったものだ。そう自嘲しかけた時、娘は言葉を続けていた。

「それで、一旦帰ったら、また戻ってきたいなあって思ってるんです」
「…………?」

疑問符が浮かんだ。
一度帰省して、また戻ってくる?
何を言っているのかすぐに解らずに、その目を見返す。娘はそうする中でも、変わらずいつもどおりだった。

「えっと。わたし、こちらに来てしばらくになるので、家族や友達が心配してると思うんですよね。だから大丈夫だよっていうの、まず知らせたいんです」
「…………」
「でも、こちらの皆さんとさよならする理由も無いと思うんですよね。それにほら、シャドウさんとも会えなくなったりしたら嫌だなあ、っていうか」
「…………」
「何ていうか、もし帰れるなら帰りっぱなしじゃなくて。またこっちにも来れたらいいなって勝手に思ってるんです。ゼロか百かじゃなくて、もっと自由に行ったり来たりできるようになったらいいなっていうか」
「…………」
「選択肢が向こうに帰るか、こちらに残るか、二つしかないのってすごく不自由ですよね。なんで二択しかないの? って思うんです。わたしはどっちも、っていう選択肢が欲しいなーって」
「…………そうか」
「だから」

見上げてくる目は、やわらかく笑んでいた。

「もしその時が来ても、わたしが居なくなって寂しいとか思わなくて大丈夫ですからね。戻ってきますから!」
「…………、誰が」
「えっ、やだ冗談のつもりだったのに図星だったりします?」
「…………」
「もしそうだったらすっごく嬉しいんですけど」

そう言っては小さく笑う。
決して何の展望もまだ見出していない。
それだというのに、そういった可能性もあるのかと思えてくるのが不思議だった。

いつか、黒髪の娘が遠くへ行ってしまうことを恐れていた。
そうなる前に、自分から離れることも考えた。
そういった全てを、払拭できたわけでもない。
けれど、胸に広がっていた氷のような冷たさはいつの間にか消えている。
娘の思い描いたような未来が訪れればいいと思う。その未来に例え、自分の姿がなかったとしても。






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