世界に一台しかないと言われる飛空艇、ブラックジャック。
充てがわれた個室を出て階下を見下ろせば、人の数は多くない。
住み込みらしい整備士がほんの数人、行き交う程度。自分が知る仲間のほとんどは、姿が見えなかった。
物資の補給のため、何名かが街に降り立っている。そのはずだった。
数時間後には、停泊しているこの船も再び空を舞うのだろう。
ふと、視界の端に黒髪を捉えた。
階下はテーブルや椅子、そして遊戯盤といったものが並んだ広間になっている。
その隅の席で、娘は何かゆっくりと手を動かしていた。
という名のその娘とは、ごく最近にお互い、顔を合わせたばかりだ。
初めて自分と相対した時、彼女は名乗りもそこそこに、こう訊ねてきたのを覚えている。
「……あのう、もしかして日本の方だったりしませんか?」
それというのは、の国の名前なのだという。
自分の顔立ちが日本の者に似ているというが、こちらからすれば、こそドマの人間に通じる顔立ちをしている。
しかし話を聞けば、その内容は俄かには信じられないようなものだった。
かといって、娘に偽りがあるようにも思えない。
そうする理由もないだろうし、あまりに現実味に欠ける中身としか言いようがない。
仮に謀を企てるなら、もっとまともなことを口にするだろう。
そしてこちらの答えを待つ目は、真っ直ぐなものだった。
幾分の申し訳なさと共に首を振れば、向こうは然程気落ちした様子もなく「変なこと訊いてしまって、ごめんなさい」と手を振った。
少なくとも表面上は、は落ち着いて振る舞っている。
しかし、実のところはどうだろうか。
声を掛けようとして、娘の手が止まっているのに気付く。目はここではない何処かを見ているように呆けてみえたが、
「殿」
「あ、カイエンさん」
近くまで行って呼び掛ければ、すぐに彼女は振り向いた。微かに笑みさえ浮かべている。
は、この船に乗るようになって以来掃除のような雑務をこなしていたが、時々席については、何か書いていた。
今も卓上には自分の読み取れない文字の並ぶ紙が数枚置かれていたが、それとは別に紙を折っているようだった。
……それというのは、折り紙だろうか。
「それは」
「これですか? 紙風船です」
小さな紙細工を示してみせる。
その形状は自分の知るものとほぼ同じで、彼女の国にも同じ文化があるのだと思い至る。
……シュンも何度か、勉強の合間に手遊びとして同じものを折っていたことがある。
折り方を教えたのはミナだった。そのことを思い出して、形容できないものが胸に広がるのを感じる。
「ドマにも、折り紙があるんですか」
「……左様。やはり、殿の国と似たところがあるのでござろうな」
内側を押し隠して言えば、「そうなんでしょうね」とは肯く。
「カイエンさんが持ってらっしゃるその刀だって、どう見ても日本刀ですもん」
「殿の国でも、同じものを?」
「昔の話ですけどね。……わたしの時代では、持ってる人はいないです」
「誰も持ち歩かないと?」
「わたしの国では、武器を持って歩くのは駄目なんです」
もしそういう人がいたら、それは法律違反なんですよ。
ごく当たり前のようにその娘は言う。
の国にはモンスターの類は存在せず、戦もないという。それ故、武器の所持も不要なのだと。
それが真であれば、何と恵まれたことであろうか。
そう思うと同時に、こうも思う。……恵まれた国から訪れたこの娘は、果たしてこの先、一体どうなるのだろうかと。
「……ですので、セッツァーさんに拾って頂くまで何事もなかったのは、本当にラッキーだったんだなって今になって思ってます」
「確かに。……それまではたった独りで?」
「ええっと、アルブルグ? でしたっけ? ……の街からこのブラックジャックが見えた、ってお話はしましたよね」
確かめるように言うので、肯きを返す。
その辺りは耳にしていたが、詳しいところまでは聞いていなかった。
どのようにしてこの娘が、あの帝国の地に足を踏み入れたのか。そこまではまだ、自分は知らない。
「……正確に言いますと、あの街の近くにわたしはいたんです。気がついたら、ですよ? 全然知らない場所だし、何も持っていないし、まあ困りましたよね」
「もし拙者も同じ状況に陥ったら……果たして冷静でいられるかどうか」
そうですよね、と小さく笑うが、それは今だからこそだろうと思う。
実際には焦燥があったと想像に難くない。
「でも」と、娘はそのまま続けた。
「通りかかった人に助けて頂いたんです」
「それは。何とも、幸運でござったな」
「……うーん。ですけど、最初はちょっとぎょっとしたんですよ? こう言ったら失礼なんですけど、その……見るからに怪しい人だったんで」
「ほう。……それは、どのような」
「えっと。全身真っ黒で、顔も隠してて……」
助けてくれたというその人物の特徴を、がひとつずつ挙げていく。
一言目の時点で、すぐに一人の人物の名前が思い浮かんでいた。もしや、と思う。
そうだとしたなら。
「……名前は、聞かなかったのでござるか」
「訊ねる暇もありませんでした。街まで連れてきてくれたのはいいんですけど、お礼を言う間もなく何処かに行っちゃって」
せっかちさんですねえ、と娘は独り言のように言う。
ほぼ断定してしまってもよいと思うが、また会えるとも限らない。
今は、何も言わなくてもいいのだろう。
ひとまずそう考えることにしようと思っていると、
「あっ、それはさておき、カイエンさん」
と改めて呼び掛けられた。
「カイエンさんも折り紙、折れます? ドマでどんなのがあるのか、知りたいです!」
はそう言ってこちらを見る。
……こうした時間で、少しでもこの娘が心穏やかでいられるのであれば。
そう思い、椅子に腰掛ける。
紙を折るのはいつぶりかも分からない。けれど、知っているものは幾つかあった。
正方形のそれを、丁寧に折り畳んでいく。
世界が裂かれて、しばらくが経った。
各地を歩き回れば回るほど、気掛かりは増えていった。
その中のひとつが、マランダに住むとある娘のことだった。
もう返事が来ないことを知りながら、相手への手紙を書き続けている。その姿は痛々しくさえあった。
返事の手紙を書き、ある時から造花も共に送るようになった。
紙を元にしており、本物には程遠い。しかし色鮮やかなものを使えば、それなりに見栄えするものが仕上がった。
共に戦った仲間のことも気に掛かっていたが、紙を折る時にはあの黒髪の娘のことも思い出していた。
果たして、無事でいるだろうか?
そうであってほしいと思いながら、ただ紙を折り続けた。
部屋を出ると、通路に一人、階下を見下ろしている人物がいる。
手摺りに片手を預け、静かに目を細めている。
視線の先を辿れば、子供たちに混じってが席についていた。
リルムと共に何かを折る傍で、ガウが紙風船を宙に放って遊んでいる。微笑ましい光景だと思った。
「殿をアルブルグまで連れてきてくれた人物というのは、やはりシャドウ殿でござったか」
当の本人はこちらを一瞥するも、すぐに視線を外してしまう。
随分と経ってから、
「…………ほんの、気まぐれだった」とぽつりと言う。
「気まぐれでも、それで殿が助かったのは紛うことなき事実。通り掛かったのがシャドウ殿で良かったと思っているでござるよ」
「…………」
無口な男は、一年経ってもやはり無口なままでいる。
しかし決して冷淡なわけではないことも、一年前から知っている。
数拍置いてから、「殿は」と続けた。
「一年前、……こちらに来たばかりの頃に、ああして椅子や階段の隅に座りながら時々、ここではない何処かを見ているようでござった」
「…………」
「きっと、元いた場所のことを思っていたのでござろう。……最近はそんな姿を見ることもないので、安心していたところでござるよ」
それだけを伝えて、こちらも口を閉ざす。
故郷を思うことは、決して悪いことではない。
ただ、取り戻せないものを思う痛みは自分自身、よく知っている。
再会した時、二人がこの引き裂かれた世界を共に旅していたと聞いて驚きもした。
しかし、黒髪の娘は以前よりも笑顔が増え、あの遠くを見るような目はみなくなっていた。
それというのは、きっとこの無口な人物のおかげでもあるのだろう。
この戦いが終わり、集った者たちが離散する時はそう遠くないうちに来るだろう。
その時二人がどうするのか、それを自分がどうこう言う立場にはない。
ただ、互いに良い選択をしてほしい。そう思った。
「ねえねえ、二人とも! 手、出して!!」
いつの間にか、リルムが階段を駆けてすぐ近くまでやって来ている。
自身の手にも何かを持っているようだが、何か小さいものらしく中身は分からない。
「に教えてもらったやつ! の、リルムさまバージョンっ」
感謝しろよ、と言いながらこちらの手にそれを委ねてくる。
手のひらを出そうともしないシャドウにも、半ば強引に押し付けていった。
他の者にも配りに行くのかリルムはそのまま通路を抜け、追いかけっこのつもりか、ガウもそれに続いていく。
静かになった通路でそっと手を開けば、花を模した折り紙がそこにある。
シャドウも同じかと視線をやれば、向こうの手には手裏剣があった。どちらも以前、に折り方を教えたもの。そのうちの一つだった。
互いを見合わせ、自然とその目は階下に落ちる。
こちらを見上げている黒髪の娘の顔には、いつもと変わらない微かな笑みがある。
この世界でも、この娘は生きていける。
そう信じられるような微笑みだと思った。
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