● 彼の指先

腕時計を見下ろします。
あと少しで午後の十五時という頃合い。
(丁度よかった)と思いました。狙ったわけではないんですけど、タイミングよくおやつの時間で。

ティナとセリス、それにわたしとでその日作ったのはドーナツです。
わたしは滅多に、自分では作らない方ですけど。ティナが、ほら。モブリズで時々、子供達に作ってあげていたんだそうです。
既製品のお菓子は、なかなか手に入りにくかったそうで。
カタリーナに教わって、少しずつ粉を混ぜるところから覚えていったんですって。

セリスはその辺、あまり経験がなかったみたいで。
丁度いいですよね。ティナは中級者、セリスは完全初心者マーク。わたしはまあ、二人の間、中間くらいの位置ですから。
それでも、材料が混ざっていれば、後は火の通りさえクリアすればOKです(まあ……いくつかはチョコドーナツでもないのに真っ黒だったり、クリームドーナツじゃないのに割ったら中から半生クリームが出てきたりしましたけど。え? やだなあ、単に生焼けなだけですってば)。

そんなこんなで、籠に盛られたのはこんがりきつね色、ティナからお墨付きをもらったものばかりです。
揚げたてのいい香りを嗅ぎつけて、すぐにガウがダッシュでやってきました。
広間にいた何人かに配るのは、ティナにお願いすることにします。それ以外の人たちには、わたしとセリスで。

(シャドウさんは食べないかな……)

ちょっとそう思いながらも、部屋のドアをノックします。
応答がありません。広間にも姿が見えないとなれば……甲板の上でしょうか?
停泊していたファルコン、この日は穏やかな天気の日でした。もしかしたら、外の空気を吸っているのかも。
そう思ってのことでした。
小さな籠を抱えて外へと出てみれば、風もほとんどない暖かな陽気でした。

見回してみれば、やっぱりです。
シャドウさんは少し離れたところで、外の景色ではなく甲板の何処かへ視線を落としています。
すぐにこちらに気付いたようで、ふっと振り向きます。

「シ…………」

声を掛けようとして、息を飲み込みます。
シャドウさんがスッとその手を上げて、人差し指を一本、口元の前に示してみせます。
初めて見るその仕草に一瞬ドキリとしますけれど、どこからどう見ても(静かに)という合図でした。
だから、どうにかこうにか呼ぼうとしていた名前の断片を口の中に押し留めます。
思わずハテナが浮かぶわたしに向かって、その手の指が今度は親指で向こうを示します。
こちらからは物陰になっていて、すぐには気付きませんでしたけれど。
貴方の傍まで近付いてみて、ようやく納得しました。

壁にもたれたまま、リルムが気持ちよさそうに寝息を立てています。
最近は肌寒い日が続いていましたけれど、この日は春みたいな陽気でしたから。
お昼寝したくなっちゃうのも不思議じゃないですよね。

抱えていたらしいスケッチブック、それも今は膝の上にありました。
描かれていたのは、青い空です。まるで世界がこうなる以前の、あの頃のような。
ふと見上げれば同じように広がる青に、白くなびく雲が流れていきます。
世界にはまだ、生命の息吹がある。
そう信じられるような、ある日のひと時のことでした。





● 彼の背中

旅をしていて、シャドウさんの後ろを歩くことがよくあります。
自然と、その背中を見つめる機会が多くなりました。
改めて見れば、やっぱり、男の人ですね。広い背中だなって思います。
マッシュさんほどではないにしても、わたしから見たら十分、大きな背なんです。

何度か、……そうそう触れることなんてありませんけど。
ケアルを施す時に、本当に何回かだけ、その背中に触れたことがありましたっけ。
思いのほか厚みがあったのを、今でも覚えています。
口に出して言うことなんて、今までもこれからも、たぶんないでしょうけど。
シャドウさんの背中が、とても好きです。……なんですけど。

同時に、その背中を見ていると急に不安になることがあるんです。
……そうですね。
すぐ傍に居る時なら、そう感じることもあまりないんです。
でも、離れた距離から見るその背中は、何故だかとても心がざわつくんです。
どうしてだろうって考えて、すぐに答えはわかりました。
振り返らずに、そのまま何処かへ行ってしまって、二度と帰ってこないような。……そんな背中に、見えてしまうんです。

近くにいるなら、まだ、追い縋ることだってできるでしょう。
その手を取って、シャドウさんが目の前にいることを確かめることだってできるでしょう。
でも、その背を見送らなければいけない時って、……こちらとしては内心、心穏やかではないんです。
……こんなこと、本当に口に出しては言えないですけどね。
だから。

「お気をつけて、シャドウさん」
「ああ」

わたしがファルコンに残る時は、シャドウさんにそれだけを言って見送ります。
でも本当は、貴方が帰ってこないんじゃないかって、心の何処かで不安なんです。
あはは。小さな子供みたいですよね、わたし。
……だから、皆が戻ってきた時はいつも一番に出迎えるんです。
心の不安を拭い去りたくて、安堵を得たくて、そうせずにはいられないんです。

シャドウさんが帰ってきてくれる。それだけでいいんです。
それだけでいいので、どうか黙って、何処かに行ってしまわないでほしい。
今日もわたしは、そう願っているんです。





● 彼の声

シャドウさんの声を、「冷たい声だ」と嘯く人がいて呆気にとられたことがあります。
街中でのことでした。
買い出しに出ていて、ふと足を止めたんです。何処かの男の人たち同士の噂話のようでした。
暗殺者シャドウを見掛けた、とか何とか。
まあ、はい、それはそれで、別に事実でしたから。
その日の前日に街には到着していましたし、シャドウさんはそういう方面で名が知られているみたいでしたし。
ただ一瞬、わたしはその名が挙がっていたことに反応してしまっただけです。すぐに、その場を離れるつもりでした。なんですけど。

「初めて声を聞いた」「凍るような冷たい声で身震いした」なんて言葉が続いていて、思わず立ち尽くしてしまいます。
心底、吃驚してしまって。
しばらくして、(そんなふうに感じる人もいるんだなあ)と思いました。
もしかしたら、話を盛っていたのかもしれませんけど。しょせん、噂話ですもんね。

それにしたって(全然そんなことないのに)って思うんです。
初めてお会いした時も、多少わたしの方だって身構えはしましたけれど。
でも、少ないながらも会話は成立していましたし、その時の声を冷たいだなんて感じはしませんでした。
感情を抑えた口調や声色かもしれません。
聞く人が聞けば、ぶっきらぼうな印象を持つかもしれません。
でも、そこに隠された優しさと温かさをわたしは知っています。

シャドウさんに名前を呼ばれるの、わたしは嬉しいですよ。
シャドウさんの声が好きで、もっと聞いていたいって思ってます。
饒舌でないのが残念というか何と言うか、ですけど、でもそれがシャドウさんですもんね。


「はい!」

貴方に呼ばれて、返事をするのが好きです。
シャドウさんの声が、わたしを呼んでくれる。それがどうしようもなく嬉しくて、仕方ありません。
だから明日も同じように、いつもの声でわたしを呼んでほしい。そう祈りながら毎晩目を閉じているのです。






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