目を覚ますと、そこはわたしの部屋でした。
見慣れた天井、心地いいベッドのぬくもり、朝の日差しが微かに差し込む窓辺。
わたしが生活していた空間、何も変わらないままの時間があって、それにわたしは何の疑問も抱きません。
今日は何曜日だったっけ、何をする予定だったっけ――。
そんなことを思い出そうとしながら、寝返りを打ちます。
目覚まし時計を見ようと手を伸ばして、ふと、何かに手が当たります。
疑問符が浮かびました。
だって、そんなところに何か物を置いた記憶はないんです。一体、何が手に当たったっていうんでしょう。
予想するよりも先に、顔を上げます。
固まります。
だって、そこには黒い背中があったんですから。
その人はベッドの傍に座り込んでいて、すぐに動く様子は見られません。
ただ、声だけが音を辿ったのが分かりました。
「目が覚めたのか」と。
数瞬の沈黙の後、「ぎゃっ」とわたしは飛び退きそうになりました。
だって、どう見てもそれはシャドウさんの声で、その後ろ背もその人そのままなんです。
――シャドウさん!
わたしはその時になって、ようやく向こうの世界のことを思い出します。……向こうの世界?
寝起きの混乱した頭で、それでもぐるりと辺りを見回します。
どう見ても、自分の部屋です。わたしが元居た世界です。……帰ってきた? いつ? どうやって?
何も思い出せません。何も。
そしてどういうわけか、ごく普通にシャドウさんが目の前にいるんです。
それって、つまりどういうことなんでしょう?
「……これって、夢ですか?」
「さあな」
何処か溜め息が混じったような声色で、シャドウさんはそう応じましたが、とにかく。
聞けば、そちらも目を覚ました時にはこの部屋にいたと言います。
そして同時に、わたしも傍らに横たわっていたということ。
とりあえず寝台の上に移してくださったみたいですけど、それからあまり時間は経っていないということ。
つまりお互いほとんど、何も分からないということになります。
「何か……世界を飛び越えちゃうみたいなこと、わたし達しましたっけ」
「そんな記憶はない。だが」
「だが?」
「が初めて向こうに行った時も……同じようなものだったのではないか?」
その言葉に、わたしは少し考え込みます。
言われてみれば、確かにその通りなんです。
わたしは何のきっかけもなく、気付いたら向こうの世界にいつの間にかいたんです。
それと同じことが、またしても今回起こってしまった、みたいな感じでしょうか。しかも何故だか、シャドウさんまで一緒という謎の事態です。
一体、どういうことなんでしょう。
そりゃあわたしも、夢ですかと言いたくなりますよね、全く。
幸い、わたしは一人暮らしをしていましたから。
誰かに見つかってしまうとか、そういった類の心配は皆無でした。ただ、これからどうすればいいのか……そこがどうにも分かりませんでした。
果たしてすぐにでも、向こうに戻れるものでしょうか?
そんな心配を抱えながら、ひとまず一日を過ごします。
食事やお風呂を済ませつつ、夜には床に就きます。
(ベッドが一つしかないので場所を譲ろうとしましたけど、シャドウさんは決して使おうとはしませんでした)
もしかしたら。
もしかして、寝て起きれば向こうに戻れているかもしれない。
そんな思いを胸に眠りにつきましたが、次の日目覚めれば、変わりなくこちらの世界のままでした。
そして、シャドウさんも当たり前のようにこちらに居たままだったんです。
一日、二日と過ぎていきました。
気付けば一週間が過ぎ、一月が経過しても何の変化もありません。
ずっと部屋に籠もっているのも閉塞するものです。
最初の数日が経過した時点で、わたしは男の人用の服を買ってきました。
シャドウさんが嫌でなければ……。
そう思って用意したものですが、そちらもこっちの世界を知るために必要と判断したのか、服を着替え、素顔を晒して外を少しずつ出歩くようになっていきました。
最初の頃はわたしが辺りを案内していましたけれど、すぐに一人で外出するようになって。
……それでも、いつもわたしが帰ってくる時には、シャドウさんはあの部屋で待っていてくれたんです。
「ただいまです、シャドウさん!」
「……おかえり」
ある時、ぽつりとそんな声が返ってきました。
わたしは吃驚して、まじまじとその顔を見返してしまいます。
だって、いつもだったら「ああ」くらいしか言わないシャドウさんが、確かにおかえりって口にしたんです。驚きもするでしょう。
けれど、その人は微かに笑みさえ浮かべています。
顔を覆う布がないせいで、細かな表情の変化を読み取るのが前よりずっと簡単です。
……だからこそ。
わたしは思います。だからこそ、こちらに来てから以前よりも穏やかになっていくその顔の表情を見るのが、わたしはとても好きでした。
「……どうした、?」
「いいえ、何でもありません!」
内心を押し隠しながらそう答えます。
嬉しくって堪りません。
――こんな未来だって、きっとあるかもしれない一つの選択肢なんじゃないでしょうか?
もちろん、向こうの世界で過ごす時間だって、自分にとってはかけがえのないものです。
けれど、……こちらで過ごす時間だって、きっと同じように素敵なものに違いないのです。
わたしはそう思いながら目を閉じました。
「…………という夢をみたんですよ」
「…………そうか」
わたしが話し終えると、シャドウさんはただそう応えましたね。
たぶん、顔を覆う布の下では何とも言えない表情になっていたと思います。
それは、脈絡のない内容の夢に対する呆れからくるものかもしれません。そうだとしても。
「シャドウさん」
「なんだ」
「もし、シャドウさんがわたしの世界に来ちゃったら、いろんなところにご案内しますね。あっ、美味しいものも食べに行きましょう。奢りますから!」
嫌でなければ、ですけど。
そうお話していると、
「えっ、二人だけズル〜い! リルムも美味しいもの食べたい!!」
「ガウ! ガウも食いもの!」
通りがかりの子達が割って入ってきたので「じゃあ」と、わたしは両手を合わせます。
「皆わたしの世界に来ちゃったら、おすすめのお店に全員で食べに行こう!」
「やったーーー!」
「ガウーーー!」
分かっているのかいないのか、どちらも諸手を挙げての大喜びです。
そんなわたし達の様子に、シャドウさんは細めた目をただただ向けるばかりでした。
いつか、そんな時が来るかもしれないって……思い描くくらいはいいですよね、シャドウさん?
そう訊ねることをわたしはしませんし、たぶんそちらも答えてはくれないのだと思いますが、それでも。
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