片腕を掴まれて、ハッとしたんです。
見れば、シャドウさんは前方を見据えたまま何も言わずに、ただ厳しい光をその目に宿していて。
此方に走った視線は一瞬です。
それだけでも、これまでの経験からすれば「どうすればいいのか」というのは理解できました。


穏やかな風の吹く、午後の事でしたね。
なだらかな丘を抜け、ぽつぽつと手入れのされた畑が現れ始めて。
青々と生い茂る新緑、その上に雲から差し込む陽の光が時折降り注いでは消えていきます。
それを眺めながら(町か村が近いんだなあ)と思います。
この世界はモンスターが存在することから、大抵の作物は集落から離れた場所には作りませんから。
そんな事をぼんやりと考えていた矢先のことでした。
突然立ち止まったシャドウさんに腕を取られてハッとして、そのまま短い距離を走って。
身を寄せたのは、近くにあった小さな納屋の陰です。
農具を置いているんでしょう、其処には誰の気配もなくて。以前のわたしだったら、中に入り込んで身を隠したかもしれないですね。
けれどそれでは敵に気付かれた時、かえって逃げ場がなくなるというのを最近ようやく理解しました。

インターセプターが、いない。
息を潜め、呼吸を落ち着けている間にふと、そう思いました。
ですが、わたしはその事についてはあまり心配していませんでした。
……だって、これまでも何度か瞬間的に離れることはありましたけど、今までずっと大丈夫でしたから。
賢いあの子の事、きっと別の場所に上手い事隠れているんだろう、そしてすぐにまた合流するんだろうなって。

寧ろ、と思います。
わたしはわたしの事に呆れてしまったんです。
だって、これまでそれなりに、シャドウさんやインターセプターと旅をしてきて。
この世界に来たばかりの頃よりずっと、注意深くなっていたつもりでいたんです。
なのに今回、全く敵の気配に気付くことが出来なかっただなんて。
……前にも二度ほど、こんなふうに皆で身を隠して、帝国兵をやり過ごした事がありましたよね。
(帝国の人達の中には勿論、いい人達もいるんでしょうけど、以前立ち寄った街で見掛けたのは粗暴な言動が目立つ人達でした。無用の接触を避けるのに、越したことはありませんもんね)
きっと今も、いち早くシャドウさんがその存在に気付いたんだ、流石だなあって。
なのにわたしは、やっぱりまだまだだなあって。
思って、そっと辺りを窺ったんです。
そもそも、帝国兵とも限りません。モンスターか、それとも、あるいは。

しばらく、目線だけを動かしていました。
遠くを、近くを、そしてまた遠くを見ます。
……何の気配も、感じ取れません。
風が、辺りに茂った緑を揺らしていきました。
気のせいか、気温が少し下がったような気がします。
そっと視線を上にやれば、いつの間にか暗い雲が立ち込めていました。さっきまで光が差していたというのに。
目を戻します。
相変わらず、何者かの気配は感じられません。
けれど、そんな筈はないんです。
だって、そうでなければ、シャドウさんの行動に説明がつかない事になります。
掴まれた腕だって、そのまま離されないままでした。それは、動いてはならないという事。
何を言うでもなく沈黙を通しているのは言わずもがな、声を出してはならない、という事ですよね。
音を立てないように細心の注意を払いながら、そっと静かに、わたしはシャドウさんを、傍らに立つその人を見上げます。
その目線を辿れば、きっと敵の位置が把握できる。そう思ったんです。
けれどその直後、わたしは動けなくなりました。

シャドウさんの覆面から覗く両の目が、はっきりと此方を捉えていたので。
その虹彩の碧をはっきりと間近に見て取れるほどの距離です。
目と目がかち合い、わたしは強張りました。
……事態が呑み込めませんでした。
だって、あんな状況で、あんなふうに身を隠している時。
シャドウさんがわたしの方を見る事なんて、今まで一度だってなかったじゃありませんか。
常に注意深く隙を見せないアサシンさんが、敵の動向から目を離すだなんてどういう事だろうって。
わたしはその目を見返します。
きっと、何かを伝えたいのに違いない。
声に出せない状況でも、わたしが理解するのをシャドウさんは待っているんだって。そう思ったんです。
ぽつり、と頬に何か冷たいものが落ちました。水滴――雨です。
ぽつ、ぽつと音を立てて雨が降り出してきますが、その事にもわたしは気付きません。
その最中にあって、わたしはまだ、シャドウさんの意図を読み取れないでいました。

その後の事は、……ご存知の通りです。なんですけれども。
……あのう、今になっても、あの時のシャドウさんの真意がわからなくって。あれは、何を伝えたかったんですか?
…………自分で考えろと言われましても。
わからないから、こうして思い切って訊ねてるんですってば。もしまた同じような状況があった時、困っちゃうでしょう?
はあ。……じゃあ、もう少し考えてみますね。
あの、次がありましたら、もうちょっとわかりやすいサイン、お願いしますね。
……ああ。シャドウさんも、雨で濡れちゃいましたもんね。インターセプターも。
風邪ひかないようにしてくださいね。今日は早めに休みましょうか。……あっ、今からお酒とか、駄目ですからね。
それじゃあ、おやすみなさい。また明日。






言えるわけがないだろう。「敵などいなかった」などと。
……今思い出しても、あの時、自分はどうかしていたのだ。
インターセプターを遠ざけてまで、俺は何をしたかったというのか。

ふと我に返った時には、気付けば目の前にはがいた。
驚いたように此方を見上げているが、決して声を出すでもなく、ただ見返してくるだけだ。
時間が、どれ程経過したかもわからない。
朱の差す頬にぽつりと、雨粒が落ちる。
俄雨か、大きな粒が辺りに落ち始め、急に一帯は雨に見舞われ始める。
けれども、彼女の黒髪や額を濡らす雨滴をはまるで意に介さない。
……ただただ此方を見ているだけのの頬に手を伸ばそうとしたのは、ただ雨を拭ってやろうとしただけだったろうか。
しかしそれよりも早く、彼女の方が動いていた。――突っ伏すように、此方の胸に倒れ込んでくる。
動揺しなかったわけではない。
……が、何か様子がおかしい。
その身体を支えようとして初めて、自分がの腕を掴んでいた事に思い至るがとにかく、支える。
ぐったりと力の入らない様子に顔を見れば、朱を通り越した赤に染まり、まるで意識がないかのようで咄嗟にその頬を何度か叩いた。

!」
「…………!?」

すぐさま目が開き、ぎょっとしたように俺を見ると慌てたように何かを言い掛ける。
寸でのところで、といったように第一声を呑み込み、胸を押さえ息を吸っては吐く。
幾らかしてから、恐る恐ると小声を発した。

「……わたしはどういう状況でしょうか」
「意識を失ったように見えたが」

今なおその身を抱えてはいるが、すぐに離してやっていいものか、すぐには判断できない。
もっとも、彼女はというと「ああ、その」ともごもごしている。
やがて、ぽつりとこう言った。

「……き、緊張しすぎて、呼吸するのを忘れてました」

そういって明後日の方向を向き、今になってまた何度か深呼吸を繰り返す。
単純に、酸欠に陥ったらしい。
俺が何も言えないままでいると、呼吸を整えたは静かに立ち上がり、腕から彼女の重みが離れた。
取り繕うかのように「あの、それで」と言葉を繋いでくる。

「敵はどうなったんでしょう」
「……敵?」
「はい、あの。……ほら、シャドウさんが引っ張ってくださったのって、敵から身を隠すためでしょう? わたし、てっきり帝国兵かなって思ったんですけど」

どうなったんですか、とは問うてくる。
彼女の中では、一連の俺の行動はそのような設定に起因するものらしい。
……そう思っているなら、そのままで構わない。

「心配するな。もう気配を消す必要もない」
「……良かったです」

はあ、とは溜息をひとつ。

「もう、あの隠れてる時の緊張感、勘弁してほしいですよ」

心臓に悪くって。
そういうに顔を向けるのが何処か後ろめたく、俺は背を向け合図をする。
いつの間にか通り雨は止んでいたが、駆けてくるインターセプターもその身は濡れそぼっていた。
悪い事をしたと思う。自分の身勝手に付き合わせてしまった上にこれだ。
そういう俺やも、同じく濡れ鼠ではあるが。
空は何事もなかったかのように雲が晴れ始め、傾き落ちかけた陽の光が眩しく差し込めてくる。
……いや。

「何もなかった」
「……え? 何か言いました?」
「いや」

自分に言い聞かせるだけの言葉だ。
頭を振ると、小さな動きでも頭巾に染み込んでいた水が幾らか滴る。
近くに、村がある筈だった。
相棒と黒髪の娘を呼べば、いつもと同じようについて来る。
歩き出せば行く先の道を、夕の風が渡っていく。雨露に濡れた新緑が、その風に揺れる音だけが満ちていった。






▲NOVEL TOP