飛空艇のデッキに通じる通路。
その一角に、格子の入った通気口がいくつか設けられている。
外の風が細く吹き込むその場所に、黒髪の娘はいた。
は、与えられた部屋で過ごすことも多かった。
同時に、艇内の気に入ったらしい場所で見かけることも時々あった。
デッキの上で、外の見える窓の近くで。あるいは、あいつらが集まる談話室を見下ろせる階段に腰掛けていることもある。
そして、今いるこの場所もその一つだ。
彼女は、この風の通る場所が気に入っているらしい。
目的地を目指し空を舞うファルコンは、それなりの速度が出ているにも関わらず然程揺れを感じない。
微かにひゅうと吹き込む風の音、離れた場所での賑やかなあいつらの談笑、話し声。
そうした中で、娘は座り込んでいた。
何かに目を落としていて、見れば、それが本であることに気付く。
本。……黒髪の娘は、この世界の文字が読めないと言っていた。それだというのに。
一瞬思うが、近付いてみればそれが絵本の類であると分かる。
向こうが、俺に気付いて顔を上げる。
……ちらっと微笑むと、再び下に目を落とした。
そのままで、彼女は言う。
「マッシュさんやリルムが、ガウに読み聞かせてた絵本なんですけど。借りてきちゃいました」
「……そうか」
ただ、それだけのやり取り。
そして娘は、再び本の世界へ戻っていく。
新たな風が通っていくこの場所で、俺は先日のことを思い出した。
町の店先で、買い出しが終わった際に店の主人から声を掛けられていたのことを。
出身はドマか、と訊ねられて、間髪入れずに「はい」と笑って返していた。
主人もそうかと笑うばかりで、それ以上は訊ねてこなかったが。
壊滅したドマ国の生き残りだと思ったのだろう、笑うその目の奥には憐れみの色が見え隠れしていた。
店を離れてから、は「違います、っていうのも何と言うか。まあ、アレですよね」と言って小さく笑っていたが。
事実、娘の経緯は複雑だ。一言では表しようもない程に。
当の本人は、絵本の中の文字列を指でなぞりながら少し難しい顔になっていた。
話し言葉はなぜか通じるのに、文字の読み書きは駄目なのだという。
娘の書く文字は確かにこの世界のものとは違っていて、にとってはこの世界の文字は難解のようだ。
「シャドウさん」
呼び掛けられて視線を下げれば、彼女は文字の一つを指で指したままこちらを見上げている。
「これ、何て書いてるんでしょう」
「…………」
俺も座り込み、その意味を教える。
幸い、アルファベット自体はの世界にもあるという。
ただ彼女にとってそれは外の国のものであり、元々得意な言語ではなかったらしい。
「でも、いつまでもそうも言っていられませんもんね」
「…………」
その言葉に、俺は何も言うことができない。
それは、娘が元いた世界に戻ることを諦めたことに由来するのか。
あるいは、この世界で生きていくことを見据えているのか。
……俺が、いつか遠くない未来、娘の手を離すその時が来ることを予見しているのか。
何を以てがこの世界の文字を学ぼうとしているかは分からない。俺にできるのは、今少しだけ手を貸してやることくらいだ。
「ここは、何て?」
俺はの指差す箇所に目を落とす。
そこには、小さな子どもと星の絵。そして、シンプルな一文。
「……“この星は、きみのために光ってる”」
読み上げると、娘はしみじみ肯いた。
「絵本らしいですね。言葉選びが優しいというか」、
ぽつりとそう言って、彼女はページをめくる。
夜空を旅する小さな子どもが、迷子の鳥に出会い、一緒に空を飛んでゆく話。絵も柔らかく、言葉も短くて分かりやすい。
だが、不思議と胸に残る。
「この絵本、結末がはっきり描かれてないんですね。この鳥、ちゃんと帰れたのかな……」
呟くような問いに、俺は答えない。
それは、絵本の中だけの話ではないからだ。
帰る場所を探しているのは、自身も同じなのだろう。
それが元いた世界か、この空の下かは分からないにしても。
「……最後のページ、きれいですよ」
彼女が見せてきた最後の絵は、夜明け前の空だった。
星の光が薄まり、空がほんのり明るくなっている。
そのページの片隅に、小さな文字があった。
「“きみが笑えば、夜も朝になる”」
声に出すと、が「やっぱり優しいなあ」、と微笑みながら呟く。
絵本を胸に抱きながら、風の通る通路の片隅で。
その頬を、通気口から吹き込む風がそっと撫でていく。
黒髪がふわりと揺れて、静かな空気に少しずつ溶けていくようだった。
娘はまるで――この世界に、ゆっくりと馴染んでいく途中のように見えた。
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