クラス委員の女生徒から一枚の写真を受け取ったのは、昼食を終えた後のことだった。
残り少ない休み時間、僕はその時友人たちと教室で過ごしていた。
活発なその女生徒は、僕たち男子が数人で話をしているその輪の中に物怖じする事無く割って入り、皆に小さな封筒を配った。
聞けば、先日撮ったものを担任が現像し、焼き増してくれたのだと言う。クラスの皆が写る写真が、この中に入っているのだと。
その簡潔な説明を聞きながら、僕は平静を装いわざとゆっくり封を切った。
最近撮ったものと言えば、思い当たるのはひとつしかなかった。

小さなサービス判、白縁も無いその印画紙の中には見慣れた顔がいくつも並んでいる。
教壇の前に皆で固まり身を縮め、こちらに向かって多くが微笑むその中心に、彼女はいた。
中央でささやかな花束を胸に抱きながら、僅かに口角を上げているさん。
ほんの二週間程前の時間が小さく切り取られ、今、確かに目の前に存在している。
あの人が教育実習を終えた日、その最後のホームルーム後に記念に撮った、二年B組の集合写真。
僕はその一枚の写真を隔てて、あの人との静かな再会を果たした。




下校を促すチャイムが鳴り響いている。
体育祭も終わり今迄のように多くの生徒が居残り練習をするといった事はなくなっていたので、下校する人の群れがよく目に付く。
屋上からの眺めを何とはなしに見ながら、僕はただ柵に凭れていた。
右手にある写真に目を移す。
昨日まで会っていたかのような、それと同時にひどく懐かしいような、どちらともつかない不思議な感覚に揺られながら僕はその人の事を少しだけ見つめた。
彼女は口を開く事なく、こちらをやわらかく見返している。

夢に見た、別の世界のその人が僕を見ている。そんな錯覚に自ら眩暈を覚えた。

思わず目を閉ざし、柵に掛けていた腕の上に顔を突っ伏した。
じわりと傷口に沁みるような痛みが胸に広がる。気分は、いいとは言えなかった。
今日に限った事ではない、ここ数日ずっと、こんな具合が続いている。
時間が経てば、この胸に渦巻くもやもいつかは晴れるだろうと思っていた。
そんなふうに思い描いた日、そのいつかとは、いつになれば訪れるのだろう。
精神は不安定だった。気持ちが僅かに上向く事もあれば、沈んだままである事も多かった。こころはずっと重たかった。
あの悪夢を見た日から今日まで、ずっと。

目を閉じていると、突然目蓋の裏に夢の記憶が再生される事が何度もある。
その度に慌てて目をこじ開け、無理やりに夢の尾を振り払ってきた。
忘れようにも忘れる事の出来ない、別の世界を映した夢の記憶を。
そして自分は、あの日見たものを忘れてはいけなかった。
もう会う事も叶わない、向こうに置いてきてしまったあの人の事を忘れる事など出来なかった。
僕は知らず、その人を呼ぶように口にしていた。

さん……」

その瞬間だった。
ふっと、右手から写真が離れていて僕は驚いた。
風に攫われたのではない、明確に人の力が僕の手から其れを抜き取っていったのを感じて、僕は顔を上げた。
いつの間にか僕の隣に立っていたその男子生徒は写真を空高く掲げ、光に透かすかのようにしながらまじまじと其れを覗き込んでいる。
ギョッとしている間にも彼は言った。

ねえ、お前のクラスの女子の誰か? ……二年じゃさっぱり顔もわからねえな。なあ、教えろよ。どれがその 『 さん 』 なんだ? 荒井」
「……返してください、新堂さん」

僕は仏頂面になって一つ上の先輩に要求した。
向こうは本気で揶揄かうつもりでもなかったのか、 「ほらよ」 と意外にもあっさり写真を返してくれる。
僕はあまり彼女について知られたくなくて、足元の鞄の中に直ぐ其れをしまったけれど、ふと見れば新堂さんはニヤニヤしながら此方を意味ありげに見下ろしていた。

「しっかしなぁ、荒井が独りで屋上上がってくの見えたからちょっと構ってやろうかと思って来てみれば、俺が隣に立っても全然気付きもしねーし。よっぽどぼんやりしてたんだろ? おまけに何か言ったかと思えば……ふーん、結構隅に置けねぇのな、お前」

……揶揄するつもりではないのかと思った事を僕は取り下げる事にした。

「おっと。そんな顔するなよ荒井、別に俺はお前をおちょくりに来たワケじゃないんだからよ」
「僕にはそうとしか思えないのですが」
「違うって。悪かったよ」

肩をすくめてそう言う先輩の口調には少なからず誠意が感じられたので、僕はそれ以上の追及はしない事にした。
再び立ち上がり、黙ってまた眼下を見下ろす。彼も何も言わず、柵の上に片肘をつきながら風に吹かれていた。
僅かに、沈黙が流れた。

「なあ、荒井」
「何ですか」
「あー……その、なんだ。ええとだな」

新堂さんは急に頭をポリポリと掻き始めると目を逸らし、そわそわするような落ち着かなげな仕草を見せた。
彼には珍しく、口ごもってしまい歯切れが悪い。何か言いにくい事でもあるのだろうか。
僕はふっと、小さく息を漏らした。
自分の見た夢の中での彼は、こうではなかった。
そんな事をぽつりと思い、そしてそんな当たり前の事を思い浮かべた自分を自嘲したためだった。
あちらの世界は誰もが自分自身でありながら、けれど同時にそうではなかったのだから当然だ。
自らを嘲る小さな笑みが浮かぶのを禁じ得なかった。新堂さんにそれを見られないよう顔を僅かに背け、彼が続きを発するのを待つ。
いつからかずっと続いていた蝉の音が一瞬止み、幾ばくかの間を空けて再び鳴き始める。
それを何処か遠くで聞きながら僕は待った。

「……最近お前、何か変じゃねえか?」

夏の風に乗って耳に届いた声に、僕はゆっくりと振り返った。
新堂さんはいやに真面目くさった顔つきになって此方を見ている。
僕が何と返していいかわからずにいると、その間にも彼は続けて言う。

「先週の金曜だったかな。昇降口辺りで俺、荒井とすれ違ったんだぜ。お前は気付かなかったみたいだけどよ。……まあ俺もその時はダチ何人かと一緒だったから、話し掛けるタイミング逃がしちまったが。その時から思ってたけど、お前、何か変だぜ」
「……何処がですか?」
「何か、暗いっつーか。どよんとしてるっつーか……上手く言えないけどよ」
「…………僕がおおよそ明るい方でないというのはご存じでしょう?」
「そういう意味じゃねーって」

頭をガシガシしながら、新堂さんは言葉を探しているように小さく唸っている。
そんな彼を前に、僕は内心驚いた。
悪夢から目覚めたあの日から、こころが重みを引き摺るようになったその日から、それでも僕は表面上、ごく普段通りを装ってきたつもりだった。
家で、学校で、通学路で、家族や友人の前でいつもどおりにしてきたし、それは今までその筈だと信じていた。
けれど、本当のところはそうではなかったのだろうか。
少なくともあの七不思議の集会で知り合ったこの先輩には、隠し通す事が出来ていなかったらしい。
どうしてだろう。まだ彼とは見知って間もないというのに、何故僕の小さな変化に気付いてくれたのだろう。
思ったけれど、答えが出る問いではないような気がして、こころの中で頭を振った。

「すみません。新堂さんに不要な心配をさせてしまったようですね」
「別に、要らないってことはねえけどな。お前が何でもないって言うんなら、それでいいんだけどよ」

首の後ろを掻きながら、新堂さんは続けた。

「まあ、何か悩んでんなら話を聞いてやらないでもねえって、言ってやるかなって思ってよ……」
「新堂さん」
「……ん、何だよ?」
「ありがとうございます、心配してくれて」

告げると、先輩はぐっと詰まったように言葉を呑み込んだ。
今になって恥ずかしくなったのか、舌打ちして
「ったく、こんな事言わせるなっつーの」 と零してはいるけれど、彼は彼なりに自分の事を気遣ってくれたらしい。
僕がふっと微笑むと、向こうはほんの少し顔をしかめた。
けれど直ぐにそれがさっきまでのニヤニヤ顔になると、
「まあ、何だ。荒井が悩んでんのがさっきの 『 さん 』 ってやつの事だってんなら相談に乗ってやるぜ? なーに、誰にも話したりしないって、俺も男だからな。約束は守るから安心しな!」 仕返しと言わんばかりに一気にまくし立て始める。
僕は遠慮する旨を伝えながら、それでもまた微かに笑んだ。

今の自分の周りに居るのは、あの世界に居た皆とは違う。
僕は、正しい場所に戻ってきたのだというのを感じながらそっと目を閉じる。
浮かぶ記憶は、もっと時間が経てば擦り減っていくかもしれない。
けれど僕は、別の僕たちがいた事を、向こうで生き続けているさんの事を忘れない。
そう口の中で呟き双眼をゆっくりと開く。
夕の陽に彩られる街並み、未だ響き渡り続けている蝉の音、帰宅する学校の生徒の話し声、そこへ傍らの新堂さんの声が重なっていく。
僕はそれに応えながら目を細めた。
眼前に佇み続ける世界は、何処までも変わりなく其処に在った。






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