僕は幼い頃、真夜中に目を覚ましては「怖い夢をみた」と言って、傍らで眠る母を揺り起こすような子供でした。
その頃の自分にとって、夢というものは、恐怖の対象といってもよかったのです。
――小さい子供の頃というのは、誰にでもそういう時期があるんじゃないでしょうか。
夢って、みる内容を選べないじゃないですか。
もちろん、楽しい夢をみる事もありましたよ。
仲の良い友達と一緒に遊んだり、欲しかった玩具を手に入れたり。
或いは空を自由に飛んだり、何処かで読んだ物語の主人公になりきって、本の中を歩いたりするような。
そんな、他愛ない幸福に彩られて出来たようなものを。
……けれど、いつもそんな内容ばかりである筈もありません。
夢というやつは、現実の世界と同じようなものなのかもしれませんね。
楽しい事、面白い事ばかりが続くわけではないのです。当たり前のことなのかもしれませんが。
僕がみる「怖い夢」というのは、例えば、所謂お化けの夢というものであったり、自分が誰も居ない世界に独り取り残されるというものであったり、家族の誰かが何らかの理由で居なくなってしまうものであったり、思い出せるものはたくさんありました。
子供心に、あの頃は恐ろしいと思えるものが幾つもあったのです。
ですから、そんな夢をみてしまった次の日など、夜が来るのが憂鬱で仕方ありませんでした。
寝る時間になり、明かりが消され、静かな夜の時間が訪れます。
厭な夢の記憶が、夜の暗がりに恐怖する僕を震えさせました。
暗がりには常に何かが潜んでいるような気がして、押し入れの隙間や部屋の片隅の闇が、どうしようもないほど怖かった。
いつの間にか寝てしまっても、再び悪夢に苛まれ飛び起きた時には、その暗がりが今にも自分に襲いかかってくるように思えて堪りませんでした。
泣きながら母を呼ぶと、その人は眠っていたのを起こされたというのに嫌な顔ひとつせず、やさしく僕をあやしてくれたのを覚えています。
けれど、そのあたたかな身体が自分を包んでくれても、僕は怯えていました。
母の腕の中で、悪夢の足跡が僕をつけ回すその音を聞いていたのです。
夢も、夜も、闇も。小さな頃の僕は、そのどれもが怖かった。
……けれど成長するにしたがって、その畏怖も徐々に薄れていきました。
自分の部屋で一人で寝るようになり、夜という時間に不安を覚えることもなくなりました。
例え夜中に魘され目覚める事があっても、それ程までに恐ろしい事とは感じなくなっていったのです。
もう自分は、泣いて夢を怖がる子供ではない。
――そう、今まで信じていました。つい昨日までは、ですが。
目蓋を何度か瞬くと、目じりから流れた涙が頬を伝いました。
激しく脈打つ心臓の音しか聞こえません。部屋の中は薄暗く、まだ夜明けまで僅かに間があるようです。
身体を起こすのも何処かだるく、実際に頭をもたげると吐き気に似た何かが自分の中で波打ちました。
布団を掴む手の甲に、ぽた、と新たな涙が滴ります。
僕はただ、しばらく動けずにいました。
たった今みた夢が、僕を打ちのめしていました。
身体に力が入らず、頭の中も今みたばかりの内容の記憶がぐるぐると回るばかりです。
自分が微かに震えているのはわかっていましたが、どうする事も出来ません。
恐ろしい夢でした。悪夢を、見たのです。
どうして、こんな夢をみてしまったのでしょう。初めてあなたが、……さんが僕の夢に現れてくれたというのに。
最悪の気分での目覚めです。
今見てきたばかりの世界がまだ続いているかのような気がしてなりません。
自分の内側が、夢の余韻のどろりとした黒で満たされている気がしました。
胸が詰まり、息が苦しく、僕は新鮮な空気を求めて傍らの窓を開けました。
ひゅうと吹く風は夏の匂いを含んでいましたが、夜に冷やされていてひんやりと心地良く、何度か深呼吸するうちに思考もクリアになっていきます。
頭が冴えてくると、いよいよ思い出されるのがその夢でした。
直ぐにでも忘れてしまいたいものだったのに、目蓋の裏にひどく鮮明に焼き付いた映像をどうしても振り払うことが出来ません。
あれは一体何だったのか。
ただの夢にしてはあまりにリアルが過ぎました、何か意味があるものなのかそうでないのか、或いは、それは――
思い出したくない、けれどその軌跡を辿らずにはいられない。不思議で、恐ろしくて、悲しい悪夢だったのです。
窓のへりに手を掛けながら、未だ明けない夜の空を見上げながら。
僕はゆっくりと、夢の記憶を手繰り寄せました。
……その夢の舞台は学校で、しかも日付も明確に設定がなされているものでした。
さんが教育実習を終えられた日。丁度、あの日の放課後のことです。
本当にリアルな夢でした。全てが、あの日を再現していたんですよ。
さんはご存じないでしょうが、僕はあなたと別れた後にとある集まりに参加しました。
新聞部の取材というもので、僕を含めその集まりに呼ばれた何人かがその部室に集合したのです。
夢は、その取材がもう終わろうとしている場面からでした。
取材者である新聞部の一年生を、僕たちは取り囲み見下ろしていました。
僕たち、というのは、集まりに呼ばれた側の数人の生徒です。
男子も女子もいましたし、学年も様々でした。実際には、僕らは皆まったくの初対面ばかりで、顔見知りなどいなかったのです。
なのに、夢の中では少し事情が違っているようです。
僕らはあるひとつのクラブに所属する旧知の仲らしく、そうでないのは僕たちに囲まれ困惑した顔を見せる取材者の生徒だけでした。
……ひどい事をするものです。その生徒は両腕を縛り上げられ、信じられないといった表情でこちらを見上げていました。
なのにその顔を見返す面々は、ニヤニヤと笑っているのです。
いやらしいのを通り越して、人として許されない表情なのではないかとさえ感じました。もっとも、その中に僕も含まれているのですが。
僕はその時点で、「これは夢なんだ」と気付いていました。
明晰夢、ってやつですか。
夢の中の状況や設定を既にほぼ理解していて、僕は周囲の様子に調子を合わせながらも傍観をしていたのです。
これは現実の事ではないと、判っていましたから。
目の前で縛り転がされている生徒を前に、夢の中での自分がどんな言動をするものなのか。
その世界での僕自身の視点で、僕は事の成り行きを見守っていたのです。
やがて、僕たち側の一人が歩み出ました。
抵抗しようとする生徒を押さえつけ、無理やりに何かを呑み込ませます。
毒入りのカプセルです。数時間を経て、服用した者を死に至らしめる毒物。よくもまあ、そんなものを用意出来たものですよね。
……まあ、所詮は夢ですから。
今思えば、本当に無茶苦茶な設定でしたよ。
映画か何かだったとしたら、三流もいいところです。
だって、僕たちが所属するそのクラブというのは――、まあ、その事はもう少し後に回すとしても、僕たちはその生徒を 『 獲物 』 としてしか見ていなかったんです。
服毒させ、学校の何処かに隠した解毒のアンプルを探し出すことを命じ、必死に捜し回るその獲物の姿を見てゲラゲラと笑い合う……。
思い返すだけで、反吐が出そうですよ。
自分たちはそんな行いを、それまでに何度も繰り返してきたという設定のようでした。
それだけに飽き足らず、僕たちはその獲物を狩る事を最大の悦びとしていたというのですから、救いようがありません。
僕は、冒頭の時点で既に冷めていました。
「ひどく趣味の悪い内容だ」と自らの夢を酷評し、ただこの後、どのように事が展開するのかをただ見物しようかと思っていたのです。
けれどその時、部室のドアがノックされました。
室内にいた僕たち側の数人が、顔を見合わせます。
教室内の時計は随分と遅い時刻を示していました。
自分たちと縛られた生徒の他に、この場所へ誰が訪れるのか。僕たちはこの 『 活動 』 を行う際は相応の準備をしていたようです、部室には人が寄り付かないようにあらかじめ根回ししていた筈でした。
それでも手違いか何かがあったのでしょうか、宿直の先生辺りが見回りにでも来たのかもしれません。
そうだとしたら、その人はすぐさま僕らの手で処理される事になるのですが。
けれど、次の瞬間に僕は凍りつきました。
開いたドアから顔を出したのは、他の誰でもないさんだったのですから。
僕は頬を張られたようなショックを覚えました。
今この場に居合わせる筈のない人物が、居合わせてはいけない人が、どうして此処に存在するのか。
時間までもが凝固したかのようでした。
部室内の者の目は、突然の闖入者へと向けられます。
そんな中でポカンとしたような、同時にいくつもの視線に当てられてギョッとしたような表情をいっぺんにやっていたさんの目が彷徨い、ふと僕を捉えたのです。
僕がギクリとしていると、あなたは片手を上げて挨拶の形を取り、思いのほか普段通りの声色で言いました。
「――荒井くん、こんばんは」
僕は夢の中だと言うのにもかかわらず、眩暈を覚えていました。
出来ることなら、此処でこの世界を退場し、目覚めて安堵の息を吐きたかった。……けれど、そうはならなかったんです。
悪夢は、こうして始まりを告げました。最悪の悪夢が。
沈黙が部室を埋め尽くしていました。
僕とさんしか居ません。
椅子に座る僕たちは互いに向かい合っており、けれど僕は俯いたまま、顔を上げる事がどうしても出来ませんでした。
後ろの方で両手首を縛られた貴方も、しばらく口を開く事なく黙りこくっていましたから。
僕も、ただ下を見たまま、固く膝の上の手を握り締めていました。
あの直後、獲物の生徒とほぼ同等の扱いを受けて身体の自由を奪われたさんは、きっと本来なら早々、適当な措置を取られていた事でしょう。
そこで僕は、一芝居打つことにしました。
表面上の平静を装い、僕たちのリーダーである人物に言ったのです。
「この人は僕のクラスに来ていた教育実習生で、随分と世話になったのです。よろしければ、後の事は僕に任せて頂けませんか」。
薄い笑みと共に告げると、リーダーは僕の見せかけの意図を酌み、それを信じてくれたようでした。
僕たちが狩りの標的を選び出すのに、然程大きな理由など必要ないのです。
詳しい事も聞かれず、「ならお前に任せる」という言葉を存外あっさりと得る事が出来たのは、僕がそのクラブの中でもそこそこの信頼を得ていた事、さんが女性であり、そう人数を割く事もないと判断されたのもあるでしょう。
もしそうでなければ、他にもう一人くらい、誰かが見張りに付けられたかもしれませんが。
とにかく、僕はあなたと二人だけになる機会を見失わずに済みました。
けれど、それも長くはもたないと充分わかっていました。
リーダー……、その人は日野さんと言って、実際に僕の知人であり、とても頭の切れる人物なのです。
それは夢の中でも変わらず、ただその性格だけは180度違ったものになっていました。
さばけていて人が良く、面倒見のよい本当の先輩の面影は微塵もありません。
残忍さと狡猾さを備えた夢の中の日野さんは――この世界では僕たちは敬意を払い、日野様と呼んでいましたが――、僕がさんをどうしたか確認するに違いありませんでした。
僕が裏切りを働かないかどうかを、必ず確かめに来るはずなのです。
クラブのメンバー達と獲物の追う追われるの狩りが始まり、部室に自分とあなただけが残された後。
僕はずっと椅子に座ったまま俯き、どうすればいいのかを考えていました。
この夢の中の僕は、日野さんと同じように残酷な性質を持っているようでした。
そうでなければこんなクラブに在籍するはずもありません。
現実の僕たちとほとんどが同じというリアルを持ちながら、同時におかしな変貌を遂げた自分たち。
けれどそんな夢の中でも、僕がさんに好意を抱いているのは変わりありませんでした。
僕は、さんをこれからどうしたらいいか、それを必死に考えていたのです。
クラブのメンバー達から逃れる事は容易ではありません。
今まで幾度となく繰り返されてきたこの狩りで、生き延びた獲物はいませんでしたから。
僕たちは狙った標的を逃がすような真似はまずしないのです。特に日野さんの目を掻い潜ることは、困難の極みと言えるでしょう。
故に、僕は焦っていました。
日野さんが戻ってきた時には、もうごまかしは効かなくなります。
彼が戻る前に、僕はあなたをどうにかする策を講じなければなりませんでした。
しかし、一体どうすれば――。
「……荒井くん」
ぽつりと呟くように発せられた言葉に、僕はぴくりと反応してしまいました。
恐る恐る目を上向きにすると、さんが心配そうに僕を覗き込もうとしています。
手足を縛られ、更には椅子に括りつけられている状態でしたから、そうするのも少し大変そうでした。
そんなでありながら、あなたは僕に向かって言うのです。「大丈夫?」 と。
どうしてこの状況で、僕を心配するような言葉を掛けられるのか。
僕は耳を塞ぎたくなりました。いっそこんな事態に陥ったこと全てを自分のせいだと言って、罵ってくれた方がまだ耐えられたというのに。
僕はぐっと歯を食いしばってから、一つ、息を吐き出しました。
さんと言葉を交わすことに覚悟を決め、顔を上げたのです。
「僕は平気です、でもさんが…………」
「うん? ……ああ。いやあ、本当参ったよね。まさか実習最後の最後でこんな事になるなんて、流石に予想外だったかな」
いつもの調子でそんなふうに話すあなたの口ぶりは、まるで他人事のようでした。
あまりの理不尽な事態に理解が追いついていないのかもしれないと僕は推測しました、そうでもなければそれ程までに平常でいられる筈がありませんから。
「そう言えば荒井くん。もしかして、演劇部だったりする?」
「――は?」
「いや、ほら。さっき何だか、何人かいた子達のリーダーみたいな人に荒井くん、わたしの事喋ってくれたでしょ」
「……ええ」
「あの時の荒井くん、荒井くんじゃないみたいだったから。演技が上手だなーって思って」
「……気付いていましたか、芝居だって」
「それはね。なんとなく判ったよ、事情の方はまだちょっとサッパリだけど。でもとにかく、わたしを助けてくれたんだよね? ありがとう」
「…………」
僕は返す言葉もなく、顔を伏せました。
彼女の事を任せてもらえないかと日野さんに進言した時、僕はさんの方を見ないようにしていました。
それでもそれらしく振舞ってみせるために、一度だけあなたに一瞥を送ったのです。
何人かに押さえつけられていたさんは、何処かきょとんとした表情で僕を見ていました。
演技とはいえ、あの時の自分の冷たい笑みを張り付けた顔を見てほしくはなかった、そんな僕を見ても、夢の中のさんは自分を信じてくれた。
僕は、固く目を閉ざしました。
何があっても、貴方を護らなくては。そう再び思ったのです。
「教えてください、さん。どうしてこんな遅い時間に、貴方が此処にいるんですか」
「よくぞ聞いてくれた、荒井くん!」
「……前振りは結構ですから」
「ああ、うん。それがね、聞いてよ。実は」
さんは顎で僕の足元を指し示します。
この部室に入ってきた時にあなたが所持していた荷物は、取り押さえられた時に回収されていました。
何という事はない、軽い、白い紙袋がひとつ。
日野さんが中身を確認した後、凶器になるものではないと判断したようでそのまま此処に放置されたのです。
立場上、僕はあなたに其れを直ぐ返すわけにもいかず、取り敢えず自分の傍らに置いてはありましたが、僕はまだその中が何なのかを知りませんでした。
「ベタで悪いんだけどね。忘れ物、取りに来たの」
「…………は?」
「実習生控室にそれ、置き忘れてきちゃってね。――わたしの他に、何人か来てた実習生がいたでしょ? その他の子の荷物がまた、其れとそっくりな紙袋だったもんだから。間違ってわたし、自分のじゃないのを持って帰ってきちゃって」
「……」
「その子には後で送るなり何なりして返すにしても、本当のわたしの紙袋、其れだけは絶対持って帰りたくて。……そりゃあ、結構遅い時間だし、入れないだろうなとは思ったんだけど。でも借りてたアパートからも近かったし、駄目なら駄目で踏ん切りも付くだろうしと思って一応来てみたら、職員室玄関脇のインターフォンに宿直の先生が出てくれて。助かったよ、明日は朝一番の新幹線予約してたから、朝取りに行くわけにもいかなくてね」
「……」
「それで、目的果たして帰ろうとしたんだけど、宿直の先生、何て言ったと思う? 『 ついでだから見回り手伝ってから帰れ 』 って言うんだよ! 普通こんな時間に、学生にそういう頼みごとするかなぁ。……まあ、こっちも無理に時間外に学校入れてもらった身だから、嫌ですとも言えないし、でも暗いし怖いし。さっさと見回り終わらそうとしたら、この部屋の電気点いてるの見つけちゃうし。ここ出たらあの先生に文句言ってやらないと割に合わないなあ、まったく」
僕は頭を抱えました。
なんて間の悪い人なんでしょう、寄りによって、今日この日に忘れ物をして、それをこんな時間に取りに来るなんて。
しかし今になってそんな事を言ってもどうしようもありません。
「でも、幸い荒井くんにまた会えたんだしね。……ところで、何時までこうしていればいいのかな、わたし」
縛られた手首を示すように、貴方は身を捻ってみせました。
外してあげたいのはやまやまでしたが、いつクラブのメンバーが戻ってくるか判りません。
出来うる限り、リスクは避けなければなりませんでした。
「……すみません、さん。本当にごめんなさい、もう少し、そのままでいてもらうしかないんです」
「そう。まあ、事情がありそうだし仕方ないね。……今日の地上波の映画、せめて録画しておけば良かったな。こうなるとは思ってなかったから、ビデオセットして来なかったよ」
あなたは目線をちらっと僕の後方、掛け時計の方へと向けながらそんな事を言います。
こんな時でもマイペースにそんな事を言うさんに、僕はどうしていいのか一瞬判断に迷いました。
それでも、あなたの普段と変わらない物言いにつられてしまったのかもしれません。
気付けば自分自身、いつも通りの言葉が口をついて出ていました。
「……レンタルショップで借りるより、テレビ放映されているものを観る方がお好きなんでしたっけ……?」
「うーん、どっちもいいんだけどね。ビデオだったらいつでも自由に観れるっていう魅力があるし。地上波でやってるのは、何て言うのかなあ、今この時間に同じものを観ている人達が全国にいるんだっていう一種の共有感っていうか……、そういうのを感じられるのが好きかな」
「そういう考え方もあるんですね」
「あれ、荒井くんはどっち派? 確かこないだの地上波観たって言ってたよね?」
「ええ。でも本当を言えば、家で鑑賞するなら時間に縛られないビデオの方が好きなんです。理解出来なかった部分を巻き戻して見直すことも出来ますし……」
「あ、それはそうだよね。どっちも長所あるから、わたしも両方とも好きなんだけど」
うんうんと目の前の人は肯きました。本当に、いつもと何も変わりませんでした。
それまであった僕とさんの、何気ない日常で交わしてきた会話。
それらと何ら違いのない時間が、確かにここに存在していると錯覚してしまいそうです。
まるでこの世界が歪んだ夢であることを忘れてしまいそうな瞬間。
だから僕は、貴方が 「それはそうと、荒井くん」 と続けた時も、何でしょうとごく普通に応えてしまっていたんです。
さんの口から、その台詞は紡がれました。
「わたしは――、殺されるの?」
チッ、チッ、という僕の腕時計の秒針音が耳障りに思えるほど大きく響く中で、さんは表情一つ変えていませんでした。
真っ直ぐこちらを見る目の、なんて穏やかな色に溢れているのでしょうか。
どうして其処までを判っていて、躊躇なくそれを問う事が出来るのでしょうか。
僕は呆然とあなたの顔を見返しながら、しかし微かにさんの脚が震えていることに気付いてしまったのです。
僕は言いました。
「そんな事、僕がさせません」
「そういう事態だっていうのは否定しないんだ?」
「…………」
「ねえ、荒井くん。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかと思うんだけど、…… 『 これ 』 は一体、何なのかな? どう考えても、いろいろと普通ではないよね」
「……こうなっては、隠し通せるものでもありませんね」
夢の世界での僕は、顔を覆いたくなりました。
他の誰に知られる事になったとしても、さんにだけは、知られたくなかった。
そう口の中で呟きながらも告げたのです、僕たちの所属するクラブ―― 『 殺人クラブ 』 のことを、ついに僕は、貴方に打ち明けました。
しばらくの間が、新聞部の部室の中を流れていきます。
僕はあなたが絶句するものと想像していたので、その静寂は長く保たれるだろうと思っていました。
しかし思いのほか早く、それは破られたのです。
「殺人クラブ、か。……はは、何というか、素直すぎるネーミングだね。もうちょい捻ってみても良かっただろうにね」
「さん……」
「うん?」
「軽蔑しましたか、僕を」
「え?」
あなたは一瞬何を言われたのか判らないという顔で、こちらを見返しました。そのまま僕は続けます。
「僕は卑怯な人間です。昼間、さんを見送った後の僕は安堵していたんです。あなたにこのクラブの事を、……僕がこの組織の一員である事を知られずに済んだ、と。そして、とても虫のいい話ですが、これからもそのことを隠し通したまま、さんと時々お付き合いできればと考えていました。僕がこの学校を卒業しても、この経歴を隠して何事もなかったかのように、人並みの人生を歩んでいければと思っていたんです」
きっとあなたは、そんな僕の事を嫌いになってしまったでしょうね。
そう言って、自虐の笑みを僕は浮かべました。
当然の報いです。
そんな事は判り切ったことでしたが、あくまで普段通りを通そうとしてくれているさんに、この世界の僕はもう耐えきれなかったようです。
罵ってくれて構わない、なじってくれて構わない。けれどどうか、せめて貴方が今、この状況から脱するまで僕に助力させてほしい。
その最後の瞬間までを僕に見届けさせてほしい。
僕に最後の安堵を与えてほしいと、お願いしたのです。
……夢の世界の自分を、僕はいささか冷えた目で見ていました。
それまで数々の凶行に手を下してきた殺人クラブでの自分。
そいつはそんな台詞を吐いてはいましたけれど、しかし、これまで散々人の血で汚してきたその手でさんを護るというのか。
そう思うと胸の奥がむかつくようでした。
僕はこの時になって、さんがそいつに罵りの言葉のひとつでも投げつけてくれればとさえ思う程に、夢の中の自分に憎悪し始めている事に気付いたのです。
あなたは黙って彼の話を聞いていました。けれども、それでもさんは言ったのです。
「わたしは、荒井くんを嫌いにはならないよ?」と。
僕は、身体の温度がすぅっと下がっていくような感覚を覚えました。
あなたは続けます。
「初めて会った時から荒井くんは優しくしてくれたよね。わたしがちょっと具合悪くて廊下の隅でへばってた時、気付いて声掛けてくれた。わたしが欲しがってたゲームのカードの事も覚えててくれた、図書室に行こうとしてた時案内してくれた、ほんの何週間かしかここに居ないわたしとちゃんと仲良くしてくれた、今だってわたしを助けようとしてくれてる。―――――わたしは、荒井くんを嫌いになったりしないよ」
そう繰り返したさんの表情は、いつも僕の前にあった其れとやはり変わらないのです。
決して侮蔑の色は見当たりませんでした。
僕と世間話をする時や共通の趣味を語る時、僕をからかおうとする時や、頭を撫でようとこちらに手を伸ばす時、授業中やホームルームの最中、廊下ですれ違う時や登下校の際に偶然行き合い、ふとした瞬間に目が合った時。
そんな刹那に存在していたのと同じ表情が、今も目の前に確かに在る。
けれどそれを目にした瞬間、僕の内側に得体のしれない何かが広がりました。
それは夢の中の自分にではなく、この世界を傍観していた僕の中で起こったのです。
何故あなたは、今まで僕に向けてくれていた表情をこの世界の自分にも与えるのか?
さんが今言ったような行為を夢の中の自分もしてきたのだとしても、こいつは僕のニセモノだ。こいつは殺人に手を染めてきた最低の人間なのだ。
それだというのに、なのに何故、貴方はそんなふうに笑えるのか。
さんはこの世界に居てはいけない、さんはこいつに関わるべきではない、さんは生き延びなくてはならない。
それだというのに、何故、あなたは、この世界の僕にまで優しくあるのか。
こいつは罪を咎められるべき存在なのに、この夢の世界の自分は本当の僕ではないのに、それなのに何故、何故、何故。
「荒井くん……?」
僕の様子を訝しんだのか、さんの声色が微かに違っていました。
けれどそれに構わず、僕はガタンと椅子から立ち上がりました。
此方を見上げるあなたは吃驚したような表情をしていました。きっと、その時の僕自身の顔が、泣き出しそうなものだったからでしょうね。
考えるより先に、自分の口が動いていました。
その言葉を発したのは夢の世界の僕、それともこの世界を傍観していた本当の僕――?
今となってはそれさえも判りません、けれど、しかし、僕は言いました。
「さん……、」
A : 「必ず、あなたを守ります」
B : 「僕では、あなたを守りきれないかもしれません」
←BACK
▲NOVEL TOP