● 教室の一刹那

教科書を読み上げる、朗々とした声が続いている。
三時限目の現代文の授業。
気温が上がる時間帯だが、それにしても暑いと思う。
そういえば、昨日見たニュースで 「平年よりも酷暑になる可能性」 についてを報じていた。
事実、制服が夏服になってまだ日も浅いのに、半袖ばかりが活躍している。長袖の出番は、今年は数える程度かもしれない。
……せめて、涼しい風でも吹いてくれれば。
思うも、開け放した窓からその気配はない。無風状態というのか、滞留した空気がただただ教室の中に満ちている。
朗読の声が続いていた。

教科書に目を戻す。
夏休みの前には試験もあるし、同時に体育祭とその準備もあるという強行スケジュールだ。
ただでさえ忙しいというのに、集中力を欠いて授業を棒に振るなど、時間の無駄に他ならない。
読み上げられている箇所を改めて目で追おうとしたその時、机の脇を、その人が通り過ぎていった。
朗読の声が続いていた。

さんは、ゆっくりと教室の中を歩いていた。
前方の出入口付近に落ち着き、ひと通り室内の様子を見渡すと、持っていたA4のボードの中に何かを書き込んでいく。
引き結ばれた口元、その表情。
静かなその姿は確かに一人の教育実習生であったし、時折僕と言葉を交わす時のさんとは、まるで違う別の誰かのようにも思える。
不思議な感じがした。
自分の知る彼女は、何処かふわふわと掴みどころのない所を持つ人物である。
くだけていて、茶目っ気を覗かせる事も多い。なのに、今はそんな様子は微塵もない、凛とした一人の実習生だ。
ごく当たり前の事を、何故か今の自分はそんなふうに思い、同時におかしな思いに憑りつかれそうになる。
例えば、そう、今の彼女の方こそが本当のさんで、今まで僕が見てきた彼女は幻だったのではないかというような――。
ふと、さんの目が何の前触れもなく此方を捉えた。
朗読の声が続いていた。

次の朗読者に自分が指名された時、僕はしどろもどろになった。
今何処を読んでいるのか全くわからず、結局前の席の人に教えてもらってようやくどうにかなったのだ。
授業を終え、四時限目の教室移動の際、廊下の端で僕はさんに呼び止められた。

「荒井くん、これ」
「……はい?」

見れば、彼女は手の甲を差し出している。中に、何か隠し持っているらしい。
誰も僕達に注視していないのを確認してからそっと受け取る。ちらと見れば、其処には塩飴がひとつ。

「お腹すくと集中力途切れちゃうもんね。糖分補給しないと」
「……さっきのは、そういうのではありませんよ」
「ああ、暑かったもんね。暑くてもぼーっとしちゃうよね」
「……そういうのでもないんですが……」

言葉少なに言うも、本当のところを告げるつもりはない。
さんは 「どっちにしても、皆には内緒だよ」 と言って、手を振ってそのまま廊下の向こうに消えてしまった。
全く、と思う。
やはり、さんはさんなのだ、と改めて思う。
授業中のあの人も、たった今目の前にいた人も、どちらもまるで変わらない。
……あの人の、目と目が合う時に微笑む癖はどうにかならないものだろうか。せめて、授業中くらいは、なしにしてもらいたい。

「心臓に悪いんですよ……」

口の中で呟く言葉は、すぐに消えて溶けていく。掌の中の飴玉をそのままに、僕はそっと溜め息をついた。





● 花壇の前で

雨が降っている。
連日の晴れが続いていたから、久しぶりの雨になる。何日ぶりだろうか。
そう思いながらいつものコンビニエンスストアの前を通る。
通り過ぎ際に店内をそっと見るも、知る人の姿はない。……いつもより時間帯が早いので、当然だろう。
体育祭で使う応援用小道具の作成準備という理由で、今日に限って、僕のクラスは早めの登校を言い渡されている。
けれど、かえって良かったのかもしれない。雨の日の通学は、傘と傘とのぶつかり合いであまり心地いいものではない。
三本早い電車で来た結果、人はいつもより少なく快適だ。幸い雨も小雨と言える程度のもので、それ程鬱陶しくはなかった。
木々の葉に落ちる雨滴を眺めながら校門に入ると、ふと、傘を持ったまま動かずに佇んでいる人の姿が目に留まる。
登校する生徒の数はまだまばらで、時間も余裕がある。
花壇の前のその人は、僕が近付いてもすぐには気付かなかったようだった。けれど、

「……もうじき向日葵が咲きそうですね」
「そうだね」

動じる様子もなく、彼女は応じてくれた。
目の前の花壇には、多様な植物らが並んでいる。
春先に咲いていたチューリップ、これから大輪の花を咲かせるだろう向日葵、そして今まさに見頃を迎えている紫陽花。

さんが此処に居る間に咲けばいいのですが」
「ギリギリで間に合うかも。ほら、あれなんかもう咲きそう……」
さん! あまり近付き過ぎては……」
「あ、そうだね」

僕はちょっと慌てた。この花壇は、あまり近寄り過ぎるのは良くないのだ。
そんな僕の心配をよそに、彼女はあくまでマイペースだったが。

「この学校の花壇、改めて見るとすごいね。いつもはあんまり見てなかったんだけど」
「……以前はもっと見事だったそうですよ。今も園芸部員の方が手入れしているそうですが」
「園芸部かー。わたしの高校には無かったなぁ」

細かな雨滴が降りしきる中で、彼女は僅かに目を細める。
その視線の先には、高校生だった頃のさんの思い出があるのだろうか。
……彼女は、どんな生徒だったんだろうか。どんな学校で、どんな学校生活を送ってきたんだろうか。
そんな事が頭をよぎるうちに、さんがぽつりと言う。

「それにしても、今よりもっとすごい花壇って、どれだけすごかったんだろうね」
「……聞きたいですか?」

この花壇の事を、此処であった出来事を、僕は知っている。
ごくごく単純に目の前の人にそう問うけれど、彼女は軽く「うーん」と唸って頭を振った。

「花も悪くないんだけど」
言って、手に持っていたコンビニの袋を揺らして見せた。
「今わたしは、新製品のチョコの方が猛烈に気になるかな」
「……花より団子ですか」
「まあ、花よりチョコというか」

そんなふうに言って、いつもの如くその人は笑う。
きっと、僕と同じくらいの高校生だった彼女も、今みたいに笑う人だったのだろうなと思った。

「それより、今日って小道具準備の日じゃなかったっけ?」
「……そうでした。では、また教室で」
「うん。またね」

そう言ってさんは手を振り、教師用通用口の方へ歩いていく。
過去の事を話したり、訊きたいと思うのもきっと悪いことではない。そして、先のことを望むのも、おそらくは。

「……早く咲くと、いいんですが」

独り言を向日葵に向けて呟き、僕は花壇を後にした。
口ではああいうあの人も、穏やかに花を見つめる一人の女の人である。
彼女が此処に留まるうちに、小さな思い出がもうひとつ増えればいい。僕はそう願った。






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