ふわり、と白いものが目の前を舞い降りた。
見上げれば、高く澄んだ空の青を徐々に灰色がかった雲が覆い始めている。
ゆっくりと落ちてくる雪の欠片は大きく、音もなく僕の頬にその一つが着地する。ひんやりとして、冷たい。

一瞬で融けてしまったそれを手袋の甲の部分で拭い、僕は再び下を向いて歩き出した。
無意識にマフラーをかき合わせ、首をすぼめる。冬休みも終わったこの時期は特に冷え込みが厳しい。
クラスの中には風邪をひいて休んでいる者も何人かいたし、僕自身も年明け前に微熱を出した事があった、気をつけなくては。
一日でも授業を受けられない日があると勉強に差し支えてしまう。

キンと張り詰めるような温度の中、少し歩くといつも立ち寄るコンビニエンスストアがある。
僕はチラと腕時計に目を落とし、それからまた天を仰ぎ見た。先程よりも雪の勢いが増し、風も出ている。
白の乱舞から逃れるようにコンビニのドアを押しくぐると、暖房の施された空気が僕を迎えてくれた。
今日はこの後に塾があるのだが、まだ幾分時間がある。それまでを此処で過ごさせてもらう事にしようか。
そんな事を考えながら店内を見渡しかけ、

「あ……」

小声ながらも思わず口に出してしまっていたのは、店の奥にいた客の一人、その後ろ姿が似ていたからだった。
髪の長さ、背格好、体格。
各々が、もう半年近く前に此処を去ったあの人に共通するものを持っている。
まさか、そんな筈はない。彼女がこの場所に戻ってくる理由など無い、だからあの人である筈がない。
そう思考しながらも僕は刹那、その場に立ち尽くしていた。
それとは関係なく、彼女に似たその客は不意に体の向きを変えた。黒い髪に隠れた顔が露わになる。

……違った。彼女ではない。

重く溜め込んでいた息を吐き出すのに、時間が必要だった。
ゆっくりと何度か呼吸を繰り返す間にもその客は僕の脇を通り過ぎ外へ出たようだったが、僕の方はといえば胸に何か痛みのようなものさえ覚えていた。
あの頃自分たちが出会ったのは夏に入る少し前の頃、此処の窓の外には熱を帯び始めた日差しがあった筈だった。
それが今は、雪が白く降り積もる季節へと移っている。
それだけの時が経過したんだと、僕は改めて気付かされる。
さんは、今どうしているだろうか。

足を雑誌のコーナーに向けながら、内心で自嘲した。
何をしているのだろう、自分は。
ほんの数瞬でもあの人が戻ってきたのではないかと考えたこと自体、どうかしている。
そう思う反面、僕の中でまだ彼女の姿が色褪せていない事を考える。
さんが教育実習を終え、それからも僕から手紙を綴ったり或いはその返事をもらったりと、ごくささやかな繋がりはない事もない。
けれど、僕はあの夏を終える前から危惧していた。

彼女はいつか、僕の事など記憶の引き出しの忘れものにしてしまうのではないだろうか。
僕のこの感情は、あの人に会えなくなれば徐々に薄れ、やがて風化するのではないだろうか。

そんな筈はないと思い込もうとするのは難しいことだった。
僕は、記憶と云うものが永い時間を経るごとに他のたくさんの情報量に埋没し、穏やかに消滅していくことを知っている。
もしさんが、彼女の生活を送っていく中で荒井昭二という人間の事を忘れていくというのなら……それはそれで仕方のない事だと思う。
ただ――

雑誌の並ぶ通路に立ち視線を巡らす。
今日発売の札が下がるラックの中に、僕がいつも読んでいるゲーム雑誌が収まっている。
……さんもあの時、此処でこの誌面を目で追っていた事を思い出す。
本を読む時の彼女のページの繰り方、文字を辿る時の早さ。
そんな些細な事を昨日まで見ていたかのように覚えている。
隣を見ればその人が立っていて、僕が今手に取っているのと同じものを読み耽っているような錯覚に囚われそうだった。

夏が過ぎ秋も終わって、こうして冬が訪れたというのに、けれど僕は、今でもさんを鮮明に覚えている。
しかし、これから先もそうでいられるだろうか。そう思うと怖くて堪らなかった。
会えないという事が、これ程静かに胸を抉るものだとは知らなかった。
雑誌のコーナーに立ち続ける事が急に苦しい事のように思えて、僕は塾が始まるまでの時間も確認しないまま出入り口に向かった。
コンビニのドアの向こうでは更に冷えた空間が待ち構えていて、未だ降り続く雪は衰えていない。
僕はすっかり灰白色に染まった空を仰いだ。
さん……」
遠く離れた場所に居るあの人の名を口にした。続けた。

「――僕は、あなたを忘れていくのでしょうか」

ひらひらと舞う冷たい白が、一つ、また一つと僕の顔に貼りついていく。
頬を流れるものが雪融けのものだけでないと自分自身で知るのに、そう時間は掛からなかった。






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