ふわりと、心地いい風が通り過ぎた。
司書の先生が開けた窓からは、網戸越しにも外の新鮮な空気が入り込んでくる。
図書室の一角、放課後の一時。
窓の外では白い雲が流れ、青空も徐々に夕の色に染まり始めている。
まだ閉室するまでには間があり、人の出入りもそれなりにあった。
図書室独特の静けさ、同時に、行き交う誰かの衣擦れ、囁き程度の会話からなる微かなざわめき。
いつもと変わりない時間が確かに此処に在る。
そんな中、僕は本棚の前で立ち尽くしていた。
眼前にはご贔屓の著者、その人のシリーズものの小説が整然と並んでいる。
しかし一作目から続くそのシリーズは、とある一冊だけがきれいに飛ばされていた。
丁度、僕が次に読みたいと思っていたものだ。それだけが無い。誰かが借り出しているのだろう。
時間がある時に、時々僕自身借りて読んでいる最中のものだった。
ここ最近はご無沙汰だったのだが、ふと思い立ち見に来てみれば、正に絶妙のタイミングで借り出されている。
けれど、その事を寧ろ、好ましく思う。
自分以外にも、この作者のシリーズを読む人が居るのだ。
特別に有名な著者というわけではない、なのに、自分と同じようにこの人の文章を読む誰かが、この学校にいる。
そう思うと密かに同志を見つけたような気持ちになった。
僕は胸の内でそっと同志にエールを送りつつ、その場を離れる。
静かに棚と棚との間を歩み、ふと立ち止まった。
窓際の傍、其処に立ったまま一冊の本に目を落とすさんは、差し込んでくる陽の光を避けるように日陰の中に溶け込んでいる。
あの人は、図書室が好きなようだった。今日も時間を見つけて立ち寄ったのだろうか。
逆光の中、その人の周囲だけ時間が止まっているかのように、さんは微動だにしていない。
だからだろうか、まるで僕には一枚の絵画のように感じられた。……彼女の向こう、窓の外では雲がゆるゆると通り過ぎていく。
彼女がふと、動いた。
その指が次のページを繰った時、その顔にあった表情が少し変わったのだ。
そうして徐にキョロキョロと辺りを見回し、その視線が僕を捉えた。
何か言いたげな目に、僕はすぐさま彼女に近付いていた。
「荒井くん」
「どうかなさったんですか、さん」
「これ」
示して見せたのは、彼女の読んでいた本、いや、そこに挟まれていた小さなメモだ。
『 今日の放課後裏門で待ってます 』
簡潔に書かれたメモだった。
本に挟まれていたためだろう、色褪せや紙の日焼けなどの劣化もなく、いつ書かれたものかもよくわからない。
字体も丁寧できれいと言えるが、女性と男性どちらが書いたともつかないように思える。
「どう思う?」
「……メモ、ですね。誰かがうっかり挟んだまま返却してしまったんでしょう」
「これって、このままそっとしておいた方がいいのかな」、
そう呟いて首を小さく捻る。
「忘れものとして提出しても仕方がないよね」
「そうですね……」
最近のものでない可能性の方が高いだろう。僕はそう推測する。
さんの手にしている本は決して新しいものではなく、実際かなり経年しているものだった。
今年や去年のものではなく、もう何年も前、もしかしたら卒業していった誰かのものかもしれない。
なるほど、確かにこんなものをうっかり見つけてしまったなら、一瞬どうしたものかと思うだろう。
「これって」
「はい」
「このまま元に戻したら、次に気付いた誰かがどうにかするまで、このままだよね」
「そうでしょうね」
「何年も何十年もこのままかもしれないね」
「……そう、ですね」
その可能性は十分にあるだろう。僕はそう思う。
或いは誰にも知られる事なく、ずっと先の未来までそのままかもしれない。
「まあ、それならそれでいいか」
「……ある意味、タイムカプセルみたいですね」
「あ。タイムカプセルで思い出したんだけど」
さんは一旦区切って、「話してもいいかな?」と訊ねてくる。
時間は大丈夫かという意味合いのようで、僕は肯いてみせる。
「どうぞ」
「……今日のお昼前に、全校清掃があったでしょ?」
「ええ」
月に一度、この学校では一時間程度の時間を取って、普段の掃除とは別に清掃活動を行っている。
いつもの清掃では行わないような場所――とは言っても、旧校舎は別なのだが――を集中的にきれいにするのだ。
さんも他の先生方と一緒に参加していたのを、僕も遠目に見ていた事を思い返す。
「僕たちのクラスは玄関の外側周辺が担当でしたね」
「うん。それで、女の子たちが花壇のところでちょっとザワッとしてたの、知ってる?」
「……いえ」
花壇。
寧ろその単語を聞いただけで少々気持ちがざわりとするが、僕は他の男子生徒と一緒に花壇とは別方面のゴミ拾いをしていた。
女子たちの方で何があったかはまるで把握していなかったし、さんから聞かなければ知らないままだっただろう。
「花壇の雑草むしってた子がね、面白いもの見つけちゃって」
「……何だったんですか」
「こけし」
「…………は?」
「うん、そうなるよね。わかるわかる。どうして花壇からこけしが出てくるのって話だよね」
うんうん、とさんは肯いている。
しかし、普通のゴミ……例えば空き缶だとかそういった物ならまだ分かる。しかしよりによってこけしとは。
一瞬そう思い掛け、ぎくりとする。
あの花壇にまつわる話の中で、こけしという存在に結び付きそうな内容を一つ思い出したのだ。
もしそうだとしたら。
「……それでそのこけしは、どうしたんですか?」
「わたしも近くに居たんだけど、担任の先生に報告して、どうしましょうかってなったんだけどね。先生は元通り埋めておこうって」
「では……花壇に戻してあげたんですか」
「うん。先生も、あんまり詳しく何か言うわけでもなかったんだけど」
さんは少し首を傾げるが、ただそういう出来事があったという程度の認識に見えた。
彼女自身は、それほど引っかかりを感じてはいないらしい。
僕はというと、正直ホッとしていた。
ただでさえあの場所に近付くのは警戒を必要とするのだ、もし其処にあったものに手を出したなら、どうなっていたかわからない。
そう言えば、僕たちの担任は比較的長くこの学校に籍を置いていると聞く。
あの人もまた、この学校の逸話の幾つかを知っていたとしてもおかしくはない。
僕はそう納得する。
……勿論、その物体が必ずしも花壇のあの話に由来するとは限らない。
僕が耳にした限りでも、何通りかのパターンが存在するのだ。そのうちの幾つかは真実ではないという事だろう。
しかしとにかく、用心するに越した事はない。
内心で思案する僕とは裏腹に、さんはそう深く考える様子でもなく、ただこう言った。
「この学校にはいろんなタイムカプセルがあるね」
まあ、学校ってそんなものかもしれないけど。
そう言ってぱたんと本を閉じたさんに、僕はそうですねと相槌を打ちながらそのタイトルを見やる。
……覚えた。
「じゃあ、このタイムカプセルも元に戻しておきますか」
「……思い出した時にでも、僕が時々様子を見ておきますよ」、
何気なさを装いつつ、僕はそう告げる。
「いつ他の誰かが掘り返すかはわかりませんが、せめて僕が卒業するまでの間くらいは」
「荒井くんが卒業するまでかあ……案外すぐだろうね」
彼女はそう言って、いつものように微笑んだ。
そうして僕は、自分の言葉通り時々、図書室のあの本を開く。
いつのものともつかない、誰かへと宛てたメッセージ。
僕は確かに彼女と、このタイムカプセルをあの時見たのだ。
窓際の傍らに目を向ける。
今はその姿を見つけられなくても、あの日確かに、さんはこの場所にいた。
ふわりと、心地いい風が通り過ぎた。
あの日と全く同じような、夏のはじまりの匂いがした。
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