友人に、「君は屋上が好きなんだね」と言われた事があります。
……ええ、嫌いでは、ありませんね。
実際、何度足を運んでいるかわかりません。最初に此処を訪れたのは、いつのことだったでしょうか。
もう、僕自身も覚えてはいないんですが、……ずっと昔のことのように思えます。
こうして空を眺めては、とりとめもない事に思いを馳せたり。或いは、悩み事を思案したり。
そんな時間を抱え込むのに、丁度良い場所であったのは確かです。単純に「好き」と表現していいものかどうかは分かりかねますが……。
ただ、こうして柵を越えて、高い場所から世界を見遥かす事は確かに好きだと言えるでしょう。
こんな場所に腰を下ろしているのを、誰かに見られるのはあまり好ましくありませんが。
現に、さんにその場を目撃されてしまってからというものの、僕はあなたに身を案じられる事が増えてしまいましたしね。
申し訳ないと思っているんですよ、ご心配をお掛けした事を。本当に。
「さん、あの時の事はもう忘れてもらえませんか」
「また、無茶を言うね。荒井くんも」
思い切って言ってみるも、あなたは目を細めたまま手を振りました。
僕も自分自身、無理な事を口にしているという自覚はありましたが。
閉口していると、そんな会話はなかったかのように別の話題がさんから飛び出します。
ここ最近の話の種は、少し前に流行った映画の事でした。
「……大分前の映画の筈ですが、よくご存知ですね」
「両親が録画してたちょっと昔のやつなら、いくつか観た事あるもの。寧ろ、荒井くんが知ってる方が凄いと思うけど」
「僕はまだそれ程ではありません。友人の中には、もっと映画に詳しい人がいたんですよ。観てないタイトルなんて無いっていうくらいの」
「それってとんでもなく凄いんじゃ……」
他愛のない言葉のやり取り。
そんな時間が、もっと長く続けばいいのにと思います。
けれどそんなわけにはいきません。遠くで、下校を知らせるチャイムの音が別の世界のもののように響いていきます。
空を見上げれば青と夕の橙が混じり合い、夜の気配が徐々に滲み始めていました。
……こんなふうに、世界の色が鮮やかに見えるのは久しぶりのような気がします。
ついこの間まで、褪せた色ばかりが目について仕方がなく思えていたというのに。
「……日が長くなりましたね」
「そうだね、この前までこの時間になれば真っ暗だったのに。……荒井くん、今日はこの後どうするの? 帰るの?」
「…………、友人を待ってから帰ります。委員会がもうじき終わる筈ですから」
「そう、じゃあわたしは控室と職員室寄っていくね」
言って手を振るさんを見送ってから、小さく胸を押さえます。
言葉にならない何かが其処に渦巻いている気がしました。
大丈夫かい、と声を掛けられて振り向けば、最初から此処に居たかのように恰幅の良いその人物が立っていて、心配げに僕を見ています。
「ええ」、と肯いてみせても、その心配顔は変わらないままでした。
「平気ですよ。大事ありませんから」
「そうかい? 僕、とてもそうは思えないんだけど……」
「細田くんの言うとおりだよ。君、あんまり大丈夫じゃないでしょ。荒井くんもこういう事には苦悩するモンなんだねえ、うんうん」
「へえー、さっきの人が荒井先輩の? もっとよく見ておけば良かったー」
やかましい声が交差して、僕は頭が痛くなってきました。
風間さんも福沢さんも、普段こんなところに来る事なんてないくせに何故、今日に限って現れるのでしょう。
大人しく他の場所を彷徨っていればいいものを。
「でも、あの人って教育実習生でしょー? 実習が終わっちゃったら、荒井先輩とはもう会えなくなっちゃうんじゃないですか?」
「うーん、でも、先生になれば、この学校に就任するんじゃ……。あ、でも必ずしも先生になるとも限らないもんね」
「それよりもっと手っ取り早い方法があるじゃないの」
名案とばかりに、風間さんが指を立てて周りを見やります。
この人が何か言い出す時は、大抵碌な事ではない。
思いましたが、その中身は実際に碌なものではありませんでした。
「彼女を僕らの世界に招いてはどうかな? 生徒じゃない人間を仲間に加えたっていいんじゃないかと、僕は前々から思っていたんだ。年上の女性というのも捨て難いしねえ」
「下らない考えは捨てて頂けませんか」
風間さんに向かって僕は言い放ちました。
この人は僕から見ても確かに先輩に当たるのですが、それでも尊敬に値する言動をしているのを本当に見た事がありません。
ましてや、さんを僕らの世界に招くなど、言語道断でしかないのです。それを口連ねてやろうとしたところで、
「勝手を抜かすなよ、風間」 思わぬ救援がありました。
「そう簡単に仲間に加えるとか言うなよ、試験もしてないのによ。それに、荒井だってそんなの望んでないんじゃないのか?」
「あら、でも随分とご執心のように見えたのは事実じゃなくて?」
窘める新堂さんに、やんわりと声を乗せたのは岩下さんです。
「うふふ……。確かに、私達の世界に来れば、ずっと一緒にいられるものね。彼女がその選択をするかしないかにも寄るけれど」
「……僕は、あの人に此方に来てほしいだなんて、思っていませんよ」
零すと、何人かが息をつく気配がありました。
新堂さんがポンと僕の肩を叩き、やれやれと風間さんが肩を竦めます。
相変わらず心配げな細田さんと目が合い、福沢さんが 「荒井先輩、気を落とさないでくださいね」 と息巻きます。
一人、岩下さんはジッと僕を見ていました。
「……あなた、もしかして後悔していて? あの時、私達と一緒に来るって選択をした事を」
「いいえ」
「嘘は嫌いだわ」
「そのつもりはありません」
僕は本心から、そう告げました。だって、そうでなければ――
「荒井くん」
声に、皆がやんわりと振り向きます。
去ったばかりの筈のさんが其処に立っていて、何かを手にそれを振って見せていました。
「お友達?」 と訊ねるその声に、僕より先に風間さんが答えます。
「やあ、先生はじめまして。三年の風間望、その他諸々どうぞお見知りおきを」
「おい、何がその他諸々だ風間てめえ」
新堂さんが言うのを皮切りに、他の面々からも多少の不満が吹き出します。
さんは面白そうに笑いながら、「荒井くん、本当にいろんなお友達がいるね」と口にします。
そのままふっと手渡されたのは、シネマ専門の月刊誌でした。
確かにお借りする約束はしていましたが、わざわざ戻ってこなくても良かったでしょうに。明日という機会もあるのですから。
けれど、それを言ってもあなたはただ笑っていました。
わたしがさっき渡すのを忘れてただけだから、気にしないで。
そう言って、今度は僕達みんなに手を振って帰るさんを、その姿の消えた方向を僕はずっと見ていました。
迫る夜という時間に、学校が暗く沈んでいきます。
空が瑠璃色から濃紺に染まりつつあることが、この闇のひしめく学校からでも確かにわかりました。
――僕があの時、彼らの誘いに乗っていなかったら。
僕がこの学校に棲む者になっていなければ、きっと、あなたと出会うこともなかったでしょう。
だから、この選択をした事を、後悔なんてしていないんです。
同時に、けれど、とも思います。
もし仮に、同じ世界を生きる者同士であったならと、まるで思わないわけでもありません。
現に別の世界では、そんな僕とあなたがいるようですしね。
それでも、……こういう世界も、あったっていいのではないでしょうか?
さんは実習を終え、一度はこの学校を離れました。
けれど、この世界のあなたは教師になる事を選びましたね。春を迎えて、再びこの高校に、正式な先生として迎え入れられました。
僕と……、いえ、僕達と再会したのも、あの屋上での事です。
僕達は、頻繁とまではいきませんが、さんと時々言葉を交わすようになりました。
それが数ヶ月経ち、半年経ち、一年が経ち、数年が経っていきました。
いつまでもこの学校に居る僕達の事を、あなたは、きっと何処かで何か気付いていたでしょう。
それでも、何も訊ねるわけでもなく、あなたはあなたのままでした。だから僕らも僕らでいたのです。
稀にさんが、知らないうちにこの学校の怪異に呑み込まれそうになっても、僕或いは仲間の誰かがそれを助けていたのを、きっとご存知ないでしょうね。
岩下さんがあなたを救ったことだってあるんです、あの時は、僕も驚きました。
……それだけ、さんが皆に好かれているという事なのですよ。
僕はまた、空に程近いこの学校の屋上で遠くを見つめています。
今日はたなびくような白い雲がその陰影をくっきりと際立たせていて、その向こうに薄い薄い水色の空があります。
……こんなふうに世界が鮮やかであったのは、ずっと昔の事だったように思います。
この学校に身を移してからというもの、一度は褪せた色しか映らなくなってしまったように思えていた僕の目にも、再び光が射したのです。
声は、唐突に響いていました。
「荒井くん、みんな、外でドーナツ買ってきたんだけど一緒にどう?」
「わーい、先生、私ストロベリーチョコレート!」
「ドーナツねえ。飲み物もあると嬉しいんだけどな」
「はい、どうぞ」
「流石先生、僕の好みを覚えていてくれるなんて! 僕は今心から感動しているよ!!」
「……風間、おまえちょっと黙れ」
さっきまで姿のなかった面々が次々と顔を出します。
もう慣れっこのさんは驚く事もなくにこにこしていて、皆におやつを配っています。
僕達はもう決して交わる事のない存在同士、いつかは、離れてしまう事を知っています。
でも、……こんな世界も、思った程悪くはないのです、きっと。
僕がそっとさんを見ていると、うっかり目が合ってしまって僕は慌ててどぎまぎと目を逸らします。
そうして少ししてからあなたを窺うと、緩やかに此方を見て笑んでくれるその人がいるのです。
かつて色彩に溢れていたこの世界には、今なお、色の満ちる予感がある。
そうであればいいと、僕は、心から思っているのです。
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