空気は、日に日に冷たさを増し始めている。
僕は首を持ち上げて、空を見上げた。
降り注ぐ陽の光は、少し前までの焼けるような熱を孕んだそれではなく、どこか淡い穏やかなものに変わっていた。
夏が終わり、訪れた秋が、この町をいつの間にかその色に彩っている。
黄や赤色が色付きはじめた街路樹の脇を通り過ぎ、建物の日陰に入る。
途端に、ひんやりとした温度が身を包んだ。
時間は確実に、あの夏から遠ざかりつつあるのだと、肌に吹き付けてくる風が告げているような気がした。

学校からの帰り道、角を曲がりしばらく歩くと、目的の場所には程なく着き、僕はその扉を開け中へと入る。
中心街へと続く通りにあるその郵便局は、規模としては大きい方に入るようだった。
けれど、既に貯金などを扱う窓口は閉まっているためか客は少ない。
小包を出す準備をしている女性、それに、唯一開いている郵便窓口で手紙を出そうとしている壮年の男性が一人ずつ。
僕は窓口が空くのを待とうと、ひとまず鞄から手紙を取り出して筆記台の上に置いた。
宛名と差出人の両方を確認しながら、ふと考える。
今日ここから出したなら、この手紙はいつ到着するのだろう、明日だろうか明後日だろうか、或いはもっと掛かるのだろうか。
あの人が住むのは此処からそれなりに離れた県だ。
前にも二度ほど手紙は出していたけれど、いずれもポストへの投函だったため訊ねようもなかった。
今日は、窓口の人に訊ねてみてもいいかもしれない。


僕はこころの内で、小さく、ごくごく小さく微笑んだ。
一通の手紙を出すという行為、ただそれだけで、胸の内がひどくざわめいた。
そしてそれは、決して嫌なものなどではなく、寧ろその逆である。
これがあの人の元に辿り着いた時のことを考える。さんの手元にこれが届いた時、彼女は僕のことを思い出してくれるだろう。
そう思うだけで、とてもあたたかい気持ちになる。
そうしてまた、僕は遠い地に居るさんのことを思い、今度は少しだけ胸に痛みを覚えた。
宛名の住所を目で辿り、そっと指先でなぞる。
……遠い。今の僕にとっては、とても。今まで何度となく思ったことを、再び思う。

独りでそんなふうに浮き沈んでいると、不意に、真上から手が伸びてきた。
一瞬の事である。僕がほんの僅かにぽかんとしている間に、その手は僕の手紙を奪い取っていった。
いつか何処かでこんな事があった、とデジャブを感じる間もなく振り返れば、ふぅん、とでも言いたげに、片手を顎に当てた気取ったポーズでその人物は宛名を覗き込んでいる。
刹那、眩暈に似た感覚が僕を襲ったのだけれど、同時にひどく憤慨した。
何なのだ、なんでなんでなんで此処にこの人がいるのだ。
いや、それより何より、なんて不躾なことをするのだろうか、この人は!

「なかなか丁寧な字を書くんだねぇ、君。……あ、もしかしてラブレターかい? へえ、成程ね。君にしてはなかなか洒落た封筒だなぁと思ったけど、どおりで」
「そんな浮ついたものじゃありません、そして風間さん、返していただけませんか今すぐに」
「ん、何、怒ったの? 駄目だねぇ君、こんな事くらいでカッカしてたらモテないよ、全くカルシウムが足りていないんじゃないのかい? せいぜい毎日牛乳飲んで、僕のようなカッコマンを目指しなさいね」

まぁ、今からじゃ相当努力しないと無理だろうけどねえ。
僕の手紙を手に、風間さんは憎たらしい台詞をペラペラとひとしきり捲し立てている。
一体何故こんな場所でこんな人にこんな下らない事を言われなければならないのだ。
そもそもどうして此処でよりにもよってこの人と鉢合わせなければいけないのだ。
僕が思わず睨みつけそうになるところで、「おい」、と声が掛かった。

「何やってんだよ風間、ガキじゃあるまいし返してやれよ」
「うん? ……なんだい、ひどい言いがかりだなぁ。まるで僕が後輩をからかって遊んでいるみたいじゃないか」
「……そのとおりだろーが」
「まったく、新堂までそんな事言うのかい? そりゃあまあ、その気持ちがゼロだったとは言わないけれどさ。それに僕は紳士だからね。勿論ちゃんと返してあげるつもりさ、ただちょっと、僕なりにアドバイスをしてあげようと思ってだなぁ」

いつの間にか傍に立っている新堂さんが、呆れたように風間さんのことを窘めている。
その手に、A4版程の茶封筒。
受験、若しくは就職関連の書類だろうか、連れ立ってそれを出しに来たのだろうか(そう言えば二人とも、クラスは違えど同じ三年生である。しかし、彼らは行動を共にする程仲が良いのだろうか。あの夏の七不思議集会の時は、坂上くんの登場を待つまでの間、互いに口を利く様子もなかったように思うのだけれど)。
新堂さんは僕の方を見ると、彼のせいでもないのに、悪い、とでもいうように肩を竦めてみせる。
そう、以前に新堂さんにも、今のような事をされたことがある。
けれど、彼はまともで直ぐに返してくれたどころか、僕の事を気遣ってくれさえした。
それだというのに、このバ風間ときたら。

「でしたら早くそれを此方に返してください」
「おっと。……ははは、荒井くんは本当に小さいねえ。やっぱり牛乳を飲むべきだよ、君」

僕が手を伸ばそうとすると、反射的に風間さんは手紙を持つ手を頭上に掲げた。
この無駄すぎる程の無駄な長身くらいしか取り柄のなさそうな上級生は、どこまで人を愚弄すれば気が済むのだろう。
おかげでこっちまで周囲の注意を引いてしまっている。
窓口の職員や客からは失笑を買っている始末だし、今入ってきた別の客からの突き刺さるような冷たい視線だって――

「……こんな公共の場でふざけるなんて、一体どういうつもりなのかしらね」

冷え切った声は、聞き覚えのあるものだった。
見れば、長い黒髪を背に垂らした女性が、学生鞄を手に此方へと視線を投げ掛けている。
ぎくりとしたように身を強張らせた風間さんの手から僕の手紙が滑り、その人の足元へと落下する。
屈んで拾い上げた彼女は、差出人欄を、次いで僕の方を見た。
風間さんの方には目もくれず、歩を詰めるとスッとその手のものを差し出してくれる。

「はい。……おふざけの過ぎる誰かさんに取られないよう、せいぜい注意なさいな」
「……ありがとうございます」

僕は一礼すると、岩下さんからそれを受け取った。
ごくごく小さく口を引き結んだ仕草、それが微笑みなのかそれ以外の表情なのか、よく読み取れない。
ともかく、そんなふうにして一度瞬くと、彼女は何も言わずに別の筆記台の方に向き合った。
鞄から取り出すのはやはり大きな封筒で、岩下さんも何がしかの進路についての書類を出しに来たのだろうかと、頭のどこかで思う。
……ああ、そんな季節なのだ、と思う。
一年後の今は、自分も同じように高校卒業後の準備をしている頃だろう。
その時、僕は、そしてさんはどうしているのだろうか。

ほんの少しだけそんな事を考えるけれど、ふと見れば新堂さんはさっさと自分の封筒を窓口に提出していた。
仕方なしのようにすごすごと僕から離れた風間さんはと言えば、改めてといった感じで局内の様子を見回して、へええ、と何故か感嘆の声らしきものを上げている。
「ここから手紙や物を送ったり出来るんだね」 、と妙に当たり前なことを口走ったかと思うと、

「宇宙に通信文を送ったりも出来るのかな?」

などという問いを発して窓口の人を絶句させていたりする。
完全にふざけているのかと思えば、顔の方は(この人にしては比較的)真面目だったりと全く以って掴めない。
横で聞いていた新堂さんが、おまえなあ、と溜息交じりに呟いている。僕はある意味で、新堂さんに感服した。
やはりあの七不思議集会後から交流を持つようになったのだろうか(それにしたって彼自身、若干振り回されている感はあるものの)、何にせよ、よくあのような人と交友関係を保っていられるものだ。
思っていると、当の本人と目が合った。
「次、おまえも出すんだろ?」 といったふうに、親指を立てた拳で空いた窓口を示してみせる。
小さく会釈し、僕は手紙を窓口職員に差し出した。
訊ねてみると、さんの在住する住所であれば、明後日の到着になるという。
その日付を胸に刻んでいると、ふとすぐ傍の壁に並べ飾られた様々な切手に目が留まる。
以前までは、家に買い置きのあった、普通の切手を使っていた。
今回その買い置きがなくなり、「ついでだから」と母からの切手の買い物も頼まれて郵便局までやって来たけれど、せっかくなのだから綺麗な柄のものを選びたい。どれがよいだろうか。

「おや、切手選びかい? だったらこの風間さんが、一回五百円で君とその封筒にぴったりのものをチョイスしてあげてもいいんだよ。さあさあ、今こそ僕に、五百円玉を奉納したまえよ荒井くん!」
「結構です」

僕はきっぱりと言い放った。
向こうはむむむ、と眉間に皺を寄せ、口を尖らせた子供のような表情になる。
この期に及んで、まだ僕を揶揄かい足りないのだろうか、この人は。

「君ね、このナイスガイな風間さんが荒井くんのためを思ってわざわざ選んであげようと言ってるんだよ? それ、せっかくのラブレターなんだろう? 大人しく僕に従った方がいい結果に繋がる筈……」
「おい馬鹿、やめろ」

べらべらと続けようとするその口を、何故か微かに青ざめた顔の新堂さんが両手で塞いだ。
――チキチキチキ、と小さな刃のスライド音が、確かに響いていた。
もが、と潰れた声を発する風間さんをも、直ぐに静かにさせた音だった。
見やれば、岩下さんが筆記台の上で何やら作業をしているようだったが、背をこちらに向けているのでその内容は窺い知れない。
ただ、さっきのその音が彼女のものならば、その手に何が握られているかは容易に想像できた。
ズルズルと風間さんを引っ張っていく新堂さんを見送りつつ、改めて切手選びを再開する。
いくつか種類はあるようだったが、特に目を引いたのは花の柄が描かれたものだ。封筒の色ともきっと合うだろう。
僕はその切手を購入し自ら封筒に貼り付け、窓口に差し出す。
「あら、素敵な絵柄を選ぶのね」
自分の郵便物の準備を終えたらしい岩下さんが、すぐ後ろに立って言った。

「いつもそんなふうに、細かなところまで気を遣った手紙を出すのかしら」
「いえ……、いつも、というわけではないのですが……」
「そう。……ふふ、ごめんなさいね。急にこんな事訊いて。貴方なら、もしかしたらそうなのかと思って。女の子はみんな、そういう些細なところもよく見ているものだから」

岩下さんはクスクスと笑うと、最後にぽつりと 「頑張りなさいね」 、と言った。



郵便局を出ると、近くに設置されたポストの傍に新堂さんと風間さんが居る。
二人で立ち話をしていたようだが、僕と岩下さんの姿を見ると、「よう」、と新堂さんが手をあげた。

「何か、珍しいな。学校以外の場所で、こんな組み合わせが揃うなんて」
「ただの偶然でしょう? それだけの事に過ぎないわ」
「まあ、そりゃそうだろうけどさ」

淡々と言う岩下さんに、新堂さんは苦笑いした。
流石にこの女性には、二人の先輩たちも頭が上がらないらしい。
それから僕たちは二言、三言の言葉を交わした。新堂さん達はこれからこのまま中心街に向かうのだという。
僕は他に用事もないため、このまま帰宅する旨を伝えた。岩下さんも同じだという。
解散となり皆がめいめいの方向に散る。僕も帰路に就こうと数歩踏み出したところで、ぽんと頭を叩かれた。

「……まだ、僕に何か?」

思わず、棘のある口調になってしまうのは決して僕のせいではない。
この期に及んでまだ何かを仕掛けてこようとしている、この振り返った先に立つ風間さんのせいに他ならないのだ。
キッと睨みかけるけれど、目の前の本人は特におどけるでもなく、ただその肩を竦めてみせた。

「いやだなあ、そうカリカリするものじゃないよ。僕はただ、言い忘れたことを言おうと思っただけなのにさ。それに新堂にも、 『 そう言えば荒井に謝ってないだろ 』 って背中引っぱたかれる有様で、ほら、あそこからこっち見てるだろう? やれやれだよ、まったく」
「では、謝っていただけるのでしょうか」
「まさか。僕は何も謝ることなんてした覚えはないからね。僕が言いたいのは――」

風間さんは朗々と言いたい事だけを口にすると、少し離れた場所に佇んでいる新堂さんの元にすぐさま戻っていった。
二人が合流すると、こちらに一度だけ手をあげて見せ、街の方に消えていく。




君にとっては少しばかり離れたところに居るひとなんだろうけどねえ。
僕に言わせれば大したことない距離だよ。
……ほら、地球と遠くの星々とを比べてごらんよ、其れを思えば本当にちょっとの距離だろう?
なんでそんな事を言うのかって?
ラブレターを手にしてた君の後姿がほんわかムードを醸し出してたかと思えば、次の瞬間にはあんまりにもどよーんとしちゃってたからさあ。
それだけで僕には解ってしまうんだよ。ふふふ、驚いたかい?
だからちょっと慰めてあげようかと思ったのにさ。まったく、そうプンスカしないで、この僕の偉大なる優しさを称えてほしいものだよ。
まあとにかく、せいぜい頑張りたまえよ、少年!




「……貴方に言われなくたって、」

もう誰もいない中心街への通り道、彼らの消えた方向を見やりながら、言葉がこぼれる。
自分でも驚くほど、声に先程のような棘は残されていない。
暮れ始めていた夕の中で、ぽつぽつと街のネオンが輝き始める。秋の風と、秋の温度と、秋の匂いが通り過ぎていく。
ふいと空を見上げれば、赤から紺色へと繋がるグラデーションの中に欠けのある月が浮いている。
離れた場所にいるその人も、同じ月を見ていてくれたらいいと、僕は思った。






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