平日の夕暮れ。
時間が遅い事もあってか、図書室にはあまり人影がなかった。
並んだ長机のあちらこちら、二、三人がそれぞれスペースを空けて座り込んでいる程度。
読書をしているか、積み上げた本の横でノートに書き込み続けているか。
広い室内でこの人数、がらんとした空間。
時折誰かがページを繰る音、シャープペンシルの立てるカリカリという音が響いている。

貸出しのカウンター前では暇そうな図書委員が、欠伸を噛み殺しもせずに時計を見上げているのが見えた。
もうじきこの図書室も閉められる、その時間を待っているのだろう。
僕は少し急いで、目的の本を探す事にした。
一週間後に迫るグループ内発表に使う資料、それを集めるのにいささか手間取っている。
今日中に参考になりそうな本を家に持ち帰りたいと思っていた。

本当ならもっと早くに此処へきて本探しをしたかったのだけれど、体育祭も近く、クラスの競技選手選択についての話し合いがあまりに長引いたのが痛かった。
ああいうのは 「騒ぐ」 という行為の好きな人間が勝手に行えばよいと思う。
僕のような人間があの場にいても、利益になるような事など何もないだろうに。

そんな事を思いながら、棚に並ぶカテゴリーと、あいうえお順に分けられた札を辿っていく。
……どうやら、僕の欲している本はこの棚の最上段部にあるようだ。
僕は傍にあった脚立を持ち出し、段を踏んだ。かなり上まで登らなければ届きそうもない。
一段上を目指す都度にギシリと音が軋む。
大丈夫だろうか、足元に少し不安を覚えていると、不意に幾分の安定感が得られた。

「……さん」
「押さえてるから。今のうちに取った方がいいよ」

見れば、さんが脚立を両手で支えてくれている。
いつの間にとも思ったけれど、言われるままに目的の本へと手を伸ばした。
取れた。

「ありがとうございます。……さん、こんな時間にどうしたんですか」
「うん? ああ、プリントの整理とかしてたら少し遅くなって。あと、ちょっと調べ物で辞典が欲しくてね。此処ならあると思って来てみたら、荒井くんが危なそうにしてたから」

声をひそめながらそんな会話を交わす。
今日はもう顔を合わせる事などないと思っていた人との、ささやか過ぎる程のささやかな会話。
決してそれに気を取られていたため僕が不注意になっていたのでも、まして彼女に非があったわけでも何でもなかった。

パチン、と何処か間の抜けた、図書室というこの場所には不釣り合いな高い金属音が鳴った。

それが何なのかその時には判り得ない事だったし、それどころではなかった。
急に自分の足場はぐらりと重力を失った。
脚立の留め金が劣化で外れるなど、僕は想像していなかったのだ。
バランスを崩したと認識した次の瞬間には、自分の意思とは無関係に身体が落ちていた。
僕は慌てた。自分独りで転倒するならまだしも、下にはさんが居るのだ。
思ったが無意味だった。彼女を巻き添えにする形で床に叩き付けられる。彼女は声も上げなかった。
僕は起き上がろうとして微かに走った痛みに呻いたけれど、そんなのはどうでも良かった。
それより何より、僕の下では彼女が潰れてしまっているのだ。

「っ……、す、すみません! 大丈夫ですか、さ……」

とにかく彼女の上から退かなくては。
大丈夫だろうか、さんは何処か怪我をしたりはしていないだろうか?
考えながら顔を上げようとした瞬間、しかし、僕は硬直した。
本当は直ぐにでも身を引くべきだったのに、僕は刹那、思考というものが出来ない状態に陥った。
動いた瞬間にふっと鼻腔をくすぐった、彼女の髪の香りのせいだ。
身体が凝固したかのように固まりかかった。
音を聞き付けて近付いてくる図書委員の足音がなかったら暫く固まりっぱなしになっていたかもしれない。
ふと我に返って見れば、すぐ傍にその人の顔がある。
再度、慌てた。距離があまりに近すぎる。

僕がオタオタしているうちにも彼女は自分で身を起こし、
「……でー……ああ、吃驚した。もう、何この脚立、危ないなぁ」
などと言っている。
いつもと変わらず、マイペースな人だ。それから後ずさった僕の方を見て言うのだ。
「荒井くん、平気? 怪我してない?」
と。

……それは僕の台詞です。そう思った。
自分の方が下敷きになってしまったのだからまず自分の身を気にするべきなのに、この人ときたら本当にマイペース過ぎる。
この人は本当に、僕の気持ちも知らないで。
思わず額に手を当てる。まだジンジンと、自分の中に残る疼きを抑え切れない。

「ぶつけたの? 大丈夫?」
「ああ、……いえ、そうじゃないんです。怪我はしていません、それよりさんは」
「わたしは丈夫に出来てるから。荒井くんの一人や二人、落ちてきたって何て事ないよ。……あ、はいコレ」

そう言って彼女は傍らに落ちていた本を僕に寄越した。
ありがとうございます、と僕はそれを受け取る。
しかし思った。
今日は帰ったら、この本を中心にした資料の整理をしようと計画していた。
けれど、果たしてそれが出来るだろうか、今の僕に?
たった数瞬の時間だったというのに、自分の感覚は驚くほど鮮明に、彼女の一部を記憶している。
それは閉室時間を過ぎ、その人とも別れ家路に着いた今でも変わっていない。
資料整理どころか、今日出された数学の課題ですら手に付くかどうか全く想像が付かなかった。






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