図書室に行くと、その日の彼女は新聞閲覧コーナーにいた。
とはいえ新聞を広げているわけではなく、眺めているのは洋画の月刊誌のようだった。
新聞が並べられているすぐ隣の棚には雑誌もいくらか置かれていて、映画関連以外にも主婦層向けと思われるような料理雑誌があったりする。

「新作の情報収集ですか」

向かいに座りながら声を掛けると、さんは目をちらと此方に向けて微かに微笑んだ。

「うん。わたし、この役者さん好きなの」

彼女が示してみせるのは、ベテランではあるけれど、主役を演じるというよりは脇を固める事が多い助演役の俳優だ。
どうして好きなのかを訊ねると、以前観た別シリーズの映画で、その俳優の演じたキャラクターがとても良かったのだという。
それで、他の出演作も気になり始めたところなのだとか。

「……さんは」、
思い切って、僕は自分なりに気になるポイントをもう少し訊いてみる事にする。
「映画は、出演する俳優を一番に気にされる方ですか?」
「それも勿論だけど、原作の有無とか、監督が誰かとか、まあ、全部ひっくるめてのバランスかな」

俳優がよくても、映画全体の出来が良くない事もたまにあるし。
そう言う彼女の話に相槌を打ちながら、心の中でも僕は肯く。
ミーハーな連中は役者で映画を観ることが多いけれど、さんは違う。
とはいえ深く映画を愛するとまではいかず、彼女は彼女なりに、観たいものを観たいように楽しんでいるといった印象だった。

「この新作、8月公開かあ。……この頃までわたしがこの街にいるんだったら、此処で観ていくんだけどな」
「……もしそうだったら、おすすめの映画館をご案内出来たのですが」
「うーん。そうしてもらえたら、良かったんだけどね」

残念、と彼女は言う。
その頃にはさんは大学に戻り、卒論を進めなければならないという。
……本当に残念なのは、僕の方だ。
ぽつりと、そう思う。
この人と、もっといろいろ話をしてみたかった。
映画だけに限らず、彼女が他に何が好きなのか、どんな事に関心があるのかだとか。そんなあれこれを、もっと知りたかった。
そうする時間は、僕達には残されてはいなかった。
残念、と言ったその時のさんの声や抑揚を、笑い方を、静かに誌面に目を落とす時の穏やかさを、今の僕はまだ覚えている。
あの人は、今、何をしているだろうか。
そうして、僕自身はといえば。




……どうして、こうなってしまったんだろうか。
目線をそっと横にやれば、同じ学校の生徒らが楽しげに会話をしながら座席に腰を下ろしている。
自分もそれに続きながら、多少の居心地の悪さを感じているのは否めない。
本当なら、独りで観る筈の映画だった。
誰かと一緒になって観るより、その方が自分なりのペースで前後の時間を過ごせるし、鑑賞後の余韻に思う存分浸ることができる。
故に、僕は独りで映画館に足を運ぶことが多かった。それだというのに。

「荒井さん」

上映前の微かなざわめきの中、隣からそっと小さく呼び掛ける声は、はっきりと自分に向けられたものだ。
見れば、坂上君は少しばかり申し訳なさそうな顔をしている。
まるで自分のせいであるかのように小さくなりながら、此方を窺っているようだった。

「あの、何だか無理矢理一緒に観ることになってしまったみたいで……すみません」
「いえ、いいんですよ」

一つ下の後輩を、虐げるつもりはない。
それに、隣が全くの見知らぬ存在ではない事も救いではある。そもそも、坂上君のせいというわけでもないのだ。
それだというのに、何だか必要以上に恐縮してしまっている後輩は、引き続き小さくなり続けている。
僕はふっと、胸の内で息をついた。


ほんの十分ほど前のことを思い返す。
僕は、掲げられたパネルをジッと見ていた。
市内でも、ここはずっと昔からある映画館だった。小さい頃から何度も足を運んでいる。
今では新しいショッピングモールが郊外に出来て、そちらに新しい映画館が入っているらしく、以前よりは客足も減ったのかもしれない。
それでも、僕はこちらの映画館の方が好きだった。
特別に大きな規模を誇るわけではなかったが、職人が描く手描き看板が有名で、それを目当てにこちらに通う常連も多いと聞く。
見上げた向こうにあるのは、新作映画のワンシーンを描いた手描き看板だ。
……さんにも、見てもらいたかった。
そう思いながら、僕が目を細めていた時のことだった。

「あ」

小さく発せられた誰かの声になんとなく目を向けると、何処かで見たような顔が幾らか驚いたように此方を見ている。
私服だったのですぐには分からなかったけれど、
「よお、荒井じゃないか」
と脇から掛けられた声の主、日野さんの姿にふと記憶が蘇る。新聞部の。……ああ。

「日野さんに坂上君、奇遇ですね。こんな所でお会いするなんて」
「こっちの台詞だよ。俺達は新聞部の集まりの帰りさ。まあ、夏休み中のレクリエーションってやつだな」

そう言って、他に居た私服の生徒らを示した。これから皆で、この夏の話題作を観るのだという。

「荒井も此処に居るってことは、この映画を観に来たわけだな」
「ええ、まあ……」
「丁度なあ、都合悪くて来れなかった部員の分、前売り券が残ってるんだ。せっかくだし、おまえも俺たちと一緒に来いよ」
「え、あの、」
「あ。もしかして、もう荒井も前売り券持ってるのか?」
「いえ。あの、そうではなくて」
「おお、そうかそうか、運のいい奴だな。これは俺のおごりだが、気にしなくていいからな。よーし、じゃあ皆入るか! もうすぐ上映時間だしな!」
「…………」

そういった経緯を経て、今の状況に至っている。
全く、日野さんのペースには参ってしまう。今なお此方に気を遣う素振りの坂上君に、僕は言った。

「寧ろ、僕の方こそ良かったんでしょうか。せっかくの新聞部の集まりに混ざってしまって」
「日野さんがああ言うんですから、いいに決まってますよ。でも……」
「でも?」
「……荒井さん、本当は誰かと待ち合わせをしてたとかじゃ、ないんですか?」
「いいえ。そんな事は、ありませんが」
「そうですか、安心しました」

どこかホッとしたように、坂上君は続けた。

「……まるで、誰かを待っているみたいに見えましたから」

――。
一瞬の間を呑み込み、何か口にしようとしたところで照明が落ち始めた。

「あ、始まるみたいですね」
「……そうですね」

僕は何事もなかったように前に向き直り、スクリーンを見つめる。
叶うことは、ないかもしれない。
けれどいつか、その待ち人を此処に連れてくる事が出来ればいい。今は、願う事しかできないけれど。
来るかどうかもわからない未来を思いながら、僕はもう一度だけあの人の事を考える。
記憶の中の彼女の微笑みが、銀幕の向こうに見えたような気がした。






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