屋上へと続く階段は、いつもと変わらない様子を呈している。
幾つも積み上げられた古い机と椅子、あまり掃除の行き届いていない床、埃っぽく湿った黴臭い空気。
窮屈な空間ではあるけれど、外界と此方を隔てるその扉の元へ辿りつく事自体は容易だ。
立ち塞がるように足元に配置された二つのカラーコーン、そこに繋がれたチェーンに「立ち入り禁止」の札が下がっている。
跨いでそれをやり過ごすと、更に目の前のドア、その真鍮のノブに、形だけの鎖が巻きつけられている。
其れを外そうと手を伸ばしたところで、

「あっ」

背後で、誰かの小さな声が反響した。
全ての授業が終わった、ある日の放課後の事だった。
一瞬ギクリとした。普段滅多な事では人の通らない棟の外れだ。
それだというのに、此処まで近付かれてその足音に気付かないなんて。僕は内心歯噛みした。
漠然と、いつか誰かに自分の行為を見咎められてしまう事があるかもしれないと思っていた。
けれど其れが、こんなに早く訪れようとは。
万が一教師の誰かであったら、これから此処に通う事は難しくなるだろう。そう思いながら恐る恐る後ろを振り返る。
キョトンとしたような目で階下から此方を見上げているその人と視線が交差し、僕は思わず瞬いた。

「……さん」
「やっぱり荒井くんだ、そんなところでどうしたの?」

何かプリントのようなものを片手に、さんが表情を崩して訊ねてくる。
僕は曖昧に肯きながら、どうするべきかとほんの少し逡巡した。
この人は教育実習生であり、生徒の素行にも注意するべき立場に置かれている。
やはりここは誤魔化した方がいいのだろう。そう考えて、僕は素知らぬふりで扉から離れた。

「ええ、ちょっと……。そういうさんこそ、どうして此処に?」
「うん、校内探訪中。わたしこの学校のことまだよく知らないから、歩いて回ってみてるの」

どの棟に何の教室があるのか、一応把握しておこうと思って。
そう言って手にしたわら半紙のプリントを僕に示してくる。
校内の簡単な見取り図が描かれたそれに、丁度今、自分達の居るポイントまでがマーカーでチェックされていた。
さんが書き込んだものだろう。
この時のさんは、まだ実習に来てそう間もない頃だった。
そうでなくとも広大なこの校舎内、歩くのに不慣れなのも当然だ。
そう思っているうちに、彼女はぐるりと辺りを見回していた。プリントの見取り図を自ら覗き込み、次いで僕の方を見る。

「荒井くん、此処って屋上に続いてる階段で合ってるのかな」
「……そうですが」
「もしかして屋上に出られたり……あ、やっぱり駄目なのか」

扉を見上げたさんは、チェーンに掛かった立ち入り禁止の札を見てさも残念そうな声を上げた。
校内散策で、屋上に上がる事まで考えていたのだろうか。
僕が再び目を瞬いていると、その事に気付いた彼女は小さく笑みながら言葉を繋ぐ。

「わたしの高校もそうだったけど、屋上っていうのは入れないものなんだね。この学校はどうなのかなって思ってたんだけど」
「……上がってみたいんですか、この上に?」
「禁止でなかったら行ってみようかなって思ってたんだけどね。わたし、今まで学校の屋上って一度も上がった事がないから」

でもあれじゃあ、仕方ないな。
施錠されているように見える扉に目をやりながら彼女は言う。僕は少し考え込んだ。
あの場所にこの人を連れていっていいものだろうか。
さんの立場上云々という問題ではなく、『 この学校の屋上 』 という事、そのあらゆる危険性をについて僕は危惧した。
けれど、直ぐに思い直す。そんな事を言っていたら、この高校で日々を過ごしていくのは非常に困難なことになる。
其れに、今は自分が一緒なのだから大丈夫だ。
僕はそう結論し、思い切って口を開いてみる。

さんがお望みでしたら、お連れしましょうか」
「でも、鍵が掛かってたら無理だよ?」

首を傾げながらも、その人は僕に続いてそっとチェーンを跨いだ。
その前で、僕は巻かれた鎖を外し躊躇いなくドアノブを回してみせる。
押すと、いささか冷え始めた夕の風が緩やかに吹き込んできた。
驚いた顔をするさんのその隣で、僕は差し込んでくる陽の光に目を細める。
丁度西日が当たる方向、微かに赤みを増した空は昼間と変わらず眩しかった。

「もう随分と前から、どういうわけか鍵は掛かっていないんですよ。傍目にはそうは見えませんし、先生方も気付いていないのかも判りませんけれど」
「…………立ち入り禁止では、ないの?」
「禁止ですよ」
「…………でも、施錠になってないの?」
「まあ、そういう事です」
「…………」

憮然とした様子のその人は、幾らかの沈黙の後 「それは学校の管理責任上どうなんだろう」 、と呟くように零した。
良くないことでしょうね。と僕も言葉を返してから、さんを見る。
数秒、互いを真顔で見返し合い、どちらからともなく苦笑するように息を漏らした。




薄い水色をたなびかせていた空に、徐々に濃紺が混じり始めている。
鉄柵の向こうに佇んでいる見慣れた街並み、やわらかに流れていく風、今という時間に彩られた色。
全てがいつにも増して鮮やかだ。
さんにとっては初めての眺めになる景色を、僕はいつものように見下ろした。隣に立つ人も静かに僕に倣っている。
別棟の向こう側にあるグラウンドの方から、運動部のものらしい男子生徒の掛け声が遠く聞こえてくる。
時折キンと甲高い球を打つような音は、野球部だろうか。
そんな事を頭の何処かで思っていると、不意にさんが動いた。
柵に掛けていた手に力を入れ、僅かながらその身を乗り出すかのように足を浮かせたので僕は慌てた。
思わず 「さん!」 と声を上げてしまう。
少なからず焦りを含んだ声に、彼女は少しだけ不思議そうに此方を見た。

「どうしたの、荒井くん?」
「あ……、あの、あまり此処では今みたいな真似はしない方がいいです。その、……危険ですから」
「ちょっと下を見ようとしただけだよ?」
「だからこそです、もし突き落とされるような事があっては大事ですから」
「突き落とされるってそんな、誰に!」
「相沢さんに…………いえ、あの、そのっ」
「相沢さん!? どちら様ですかっ」
「あ、あの、とにかく!」

僕は手で彼女を制し、取り敢えず此処では少しでも危ない事はしないでほしいというのを伝えた。
さんは何となくよく判らなそうにしていたものの、僕が話そうとしないのを感じ取ったのか素直に肯くに留めてくれる。
その事に安堵し、同時に、これでは実習生と生徒の立場が逆ではないかと思えて内心で小さく苦笑してしまう。
そして其れは彼女の方も同じだったのだろう、
「わたしの方が注意される生徒みたいだね」 と言いながら声に出して笑った。
それを皮切りに、今まで沈黙していた分を取り戻すかのように話をした。
さんの初めての屋上の感想、僕が初めて此処を訪れた時のこと、高い場所で風に吹かれるということの心地良さ、そんなような事を、少しずつ、いくつか。

「そう言えば、荒井くんは屋上にはよく来るの?」
「ええ、まあ……、時々、来ます。気に入っているんです、この場所が」
「そうなんだ。もしかしたら他にも誰か、こっそり此処に来る人とか、いるのかな」
「そうですね……、ごくたまに僕以外の人が来るのを見ますよ。そう多くはありませんが」
「そっか。此処が入れるようになってるの、知ってる人は知ってるんだ。……残念」
「残念……ですか」
「うん。荒井くんとわたしだけの貸し切りだったら、秘密基地ってわけでもないけど何かワクワクするのになあって思って」

子供のようにそんな事を言うさんの髪が夕暮れの風に靡いている。
「あ、荒井くんのお気に入りの場所なのに、初めて此処に来たわたしがこんな事言うのは図々しいよね」 。
そう続けて謝ろうとする彼女に僕は首を振った。
もしさんの言うとおりだったら、とほんの少し考える。ほんの少し、だけだけれども。

「もうじき、理科系の授業で屋上を使うクラスが出てくる筈です。その時には此処の鍵が外れている事に誰かが気付いて、また施錠されるでしょう」
「そう。いつまでもこのままってわけにもいかないしね」
「…………さん」
「うん?」

返事を返す彼女は暮れていく街を眺めている。
僕は目の前の人を見ている。いつしか夕闇が迫り始めていた。僕は言った。

「今日の此処でのことは、誰にも話さないでもらえますか」
「勿論」

そう言って此方を見たさんは何処か悪戯っぽい笑みを浮かべている。
僕は続けた。

「一人で立ち入られるのも避けて頂いた方がいいと思います。その、……一人で居る時に、万が一誰かに見咎められたらまずいでしょうから」
「うん。荒井くんと一緒の時しか屋上には来ないよ、安心して」

僕が言いたい事を承知しているように、さんは肯いてくれる。この人はきっと約束を守ってくれるだろう。
僕たちは二人で立ち入り禁止の場所に侵入するという小さな禁忌を犯し、そしてそのささやかな秘密を共有した。
ひどく、子供じみた秘密だった。
けれどさんは声も立てずに笑むと、「何だか楽しいなぁ、こういうの」、と言ってくれた。
それにつられて僕も微笑んだ途端、その人は刹那、ポカンとしたような顔になる。
どうしたのかと思っていると、直ぐ彼女は言葉を零した。
「荒井くんが笑った」 、と。
一瞬さんが何を言ったのか僕には判らなかった。

「…………な、何ですか?」
「荒井くんがちゃんと笑った、と思って」
「……僕は今までそんなに仏頂面ばかりでしたか」
「ううん、笑ってた時も勿論あったけど、なんとなくぎこちないところとか、あったから……」

その人は感動したと言わんばかりに両の手を合わせながら僕を見ている。
確かにこれまで彼女の前で上手に笑えていたかどうか思い返せば、それは否定せざるを得ないと思う。
けれどそんなに反応をされるとは。
さんは続けて言う。
「良かった」 と。

「……良かった、ですか」
「うん。荒井くん、わたしと居て楽しくないかなって、思ってたから……」
「そんなこと……」
「うん、それに、笑った方が可愛いよ、荒井くん」

思わず僕は沈黙した。
可愛いなどという言葉は男たるもの受け入れ難いものなのだ。それだというのにこの人は。
空に星が瞬き始めた時分に、そんなやり取りを交わした事がついこの間のことのようだと僕は思った。
顔を上げると、その時と同じように夕の色に染まりつつある空が其処にある。
時間が流れ、季節が巡り、再び夏の始まりが訪れようとしている。
予想通り暫くして施錠された屋上への扉の鍵が、いつの間にか誰かにまた外されているのを見つけたのはつい先日のことだ。
今は隣にいないその人の言葉を思い出すと、今でも溜め息が出そうになる。
僕は禁じ得ない苦笑を零し、けれど空を見上げながら独り、呟いた。

「……貴方と居た時間は楽しかったですよ、さん」

あの人も同じように感じてくれていたなら嬉しいと、僕は思った。






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