異界の出口の前で、わたしは立ち尽くしていた。
向こうには、わたしの元の世界が待っている。
それなのに、足を踏み出すことを躊躇っていた。
隣には今まで行動を共にしてくれた彼がいて、わたしと手を繋いでくれている。
ひやりとした温度がそこにあった。軽く握れば、彼も優しく握り返してくる。

出口の発見は、呆気なかった。
呆気なさすぎて、現実感が薄い。もっと苦労して、探索に探索を重ねた上で辿り着くもの、何ならラスボス(という存在がいるかどうかは別にしても)を撃破した後に出てくるもの、そんなイメージを勝手に抱いていた。
実際は、いくつもあるドアを慎重に開けているうちに見つけてしまった。
床が無かったり、怪異の誰かがいたり。そんなことばかりだったから、警戒しながらそっと扉を開けたところ、うっかり当たりを引いたという感じだった。

しばらく、ドアを開けたまま様子を見ていた。
幻覚、あるいは何かの罠?
いろんな可能性を考えるけれど、彼の言葉がわたしの疑念を払拭した。
(帰り道だよ)と彼は言う。
(たまに、こうして開くんだ)と。
つまり、こちらと向こうを繋ぐ道で間違いないらしい。

「……向こうへ行けば、わたしは帰れるんですね」
(そうだね)
「でも、……もう貴方とは会えなくなっちゃうんでしょうね」
(…………)
「なんとなく、そんな気がするんです。簡単に行ったり来たりはできないんだろうなって」
(……そうだろうね。でも、君はここに長くいてはいけないよ)

彼らの言葉で、そんなふうに言う。
それでも、わたしの心は迷っていた。
帰りたい。それというのは揺るぎない思いだった。
もう、疲れてしまっていた。できることなら誰も傷つけたくなかった。けれど攻撃対象とみなされて向かってこられたら迎え撃つか、逃げるかしかない。そうしてここまで何とかやって来た。
自分だけでなく、一緒に付いてきてくれた彼をも巻き込みたくはなかった。

同時に、彼と離れたくないとも思う。
ここまでずっと見守ってくれていた人だった。言葉を教えてくれた、身を挺してわたしを守ってくれた、たくさん優しくしてくれた。

彼を見上げる。
いつもは這って歩く彼が、今は立ち上がっていた。
初めてそうした時は驚いたけれど、そうすることもできるのだと教えてくれた。
(でも、すごく疲れるんだ)とも。
立って並べばわたしをずっと凌ぐ長身で、静かに佇む姿はごくふつうの男の人にしか見えなかった。

相反する気持ちがせめぎ合っている。
けれど、決断するしかなかった。
何度も考えてきたことだった。だから、こうしてグズグズしていても仕方ない。仕方ないのに、この手を離すことがどうしてもできない。
その気持ちを断ち切るために、わたしは口を開いた。

「……お願いがあるんです」
(…………?)
「わたしを、引き留めないでくださいね」

小さく笑って言う。
最初の頃に、何度も彼を信用していいものかと考えた。優しくしてくれる度に、それが裏切りの前触れではないかと思うと怖かった。
だから、最後までこの人が善良だったなら、その時には心から彼を受け入れようと決めていた。
……だからどうか、最後までそうであってほしい。そう強く願っていた。

「貴方が優しい人だって……最後まで信じたいんです」
(…………うん。君は人間だから、帰るのが一番いいんだって知ってるよ。だから……それを止めることはできない)

彼はそう言って微笑んだ。
今まで見た中で、一番寂しそうな笑い方だった。

「ありがとうございます。でも……おかしいですよね、引き留めてほしいって……そんなふうにも思ってしまうんです」
(…………)
「もっと一緒にいたかったなあって……わがままですよね、自分でも分かってるんですけど」
(…………)

彼は、何も言わなかった。
ただ、そっと腕を広げてくれる。こちらもその胸にしがみつけば、背中に手を回してくる。
抱きしめてくる腕は、微かに震えていた。
その低い体温の中に包まれながら、今までのことを思い出す。
不安と畏怖に苛まれそうな時も、この人が側にいて慰めてくれた。感謝していた。
もっと言葉にして伝えたかったけれど、喉の奥がつかえるようで形にならない。
やがて静かに腕が離れて、その手のひらがこちらの背中に置かれた。

(さあ、行って)

軽く背を押されて、その感触が離れていった。

(君がそう言ってくれて、嬉しかった。君のこと、忘れない。幸せを願っているよ)
「……わたしもです」

貴方のこと、忘れません。
そう告げて振り向かないまま出口を抜ける。
最後の一歩を踏み出した瞬間、後ろでパタンとドアの閉まる音がした。
ゆっくり背後を見れば、もうそこには何もなかった。元の世界の光と音が戻ってくる。
自宅近くの、草がまばらに生えた空き地にぽつんとわたしは立っている。

冷たい風が吹き抜けていく。
空を見上げれば、重く垂れ込める暗雲があった。
まるでさっきまでいた異界の、無機質なコンクリートのような鈍色の空だった。今にも雨が落ちてきそうだ。

戻って来た。
……戻ってこれた。あの人のおかげで戻ってこれた。
わたし自身が決断して、望んだ選択だった。だから、何も後悔はない。これでいいと、それだけははっきりと言える。
ただ、どうしようもない程に心は空疎だった。
雨が、落ち始めた。空を見上げたままのわたしの顔を雨粒が叩いていく。

「冷たい……」

降り始めた雨は、容赦なくわたしの心を冷やしていく。
その中で、あの人と過ごした時間をわたしは思い出している。
彼の低い体温の中にあったぬくもりを、その優しさをわたしは覚えている。
立ち尽くしながら、あの体温が恋しいと、そう思った。






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