寂として、辺りに音はなかった。
蹲ったまま、どのくらいの時間が経っただろう。
わたしは少し座り直す。ひんやりとしたコンクリートの冷たさが下半身に沁みるようで、ひどく心細かった。
天を仰ぐ。ぶら下がった電球がひとつ、ぽつんと灯っている。
少しでも明るい方がいいと思い、そのすぐ近くにわたしは腰を下ろしている。

いくらかは、心臓も落ち着いてきたかもしれない。
全力のダッシュに加えて、得体の知れない何かを見てしまったことへの恐怖。
一瞬見た、あの長い髪の幽霊みたいな誰か。その姿が脳裏をよぎってゾッとする。でも今は少し、……本当にほんの少しは、鼓動も鎮まってきている。
それにしたって、……どうして、こんなことになっているんだろう?

目だけを動かして、そちらを見る。
フードを目深に被った人物は、ただその場に立ち尽くしていた。

この部屋に飛び込んできたこちらを、どうするわけでもない。
最初こそ、少しの意思疎通があった。何かを訊ねてくる口調に、決して敵意の類は感じられない。そう思った。
でも、ただそれっきりだった。
短い会話――言葉が何語かも判らなくて、会話として成立したかどうかも怪しかったけれど――が終わって、向こうはそれっきり何も言わない。
とりあえず、悪い人ではないのだと思う。今のところは。
だから、

「あのう。……少し、ここに居させてくださいね?」

一応そう告げて、わたしは今なおこの空間にいる。
言葉はやはり、伝わっていないだろう。
けれども、座り込んだわたしに何かを言うでもなく、ここに留まることを許容してくれている。

部屋をすぐに出る気にはとてもなれなかった。
また何かに出くわすかもしれない。それよりかは、危害を加えてくる様子のないこのフードの人と一緒にいた方が、まだ安全なような気がした。
斧を片手にぶら下げている時点で安全も何もない気がするけれど、この際、ひとまずそこは目を瞑ることにする。


――ここは一体、何処なんだろう。
改めて見回して、全く見覚えもないのを確認する。
どうして自分は、ここにいるんだろう。気がついたら、別の空間にいた。
そうしてあの長い髪の誰かに遭遇して……あれは、何だったんだろう? 少し落ち着いて考えてみれば、幻覚だったのかも、という気もしてくる。
疲れている時や精神的に参っている時、人はそういう幻を見てしまうというのをテレビで見聞きしたことがある。
いや、あれが何だったのかよりも、それより前は?
それ以前の部分が何故か、まるで思い出せない。すっぽりと記憶が抜け落ちているかのように。

(もしかして、これって夢なのかな……?)

夢を見ているのなら納得できる。もし、そうなら。
わたしは夢の中で、夢だと分かれば自分の頬をつねって目覚めることができる。
何なら、怖い夢の時に無理やり目を見開いて覚醒したことだってある。今も、そのパターンで起きられるかも。
思って早速片方の頬っぺたをギュッとやってみたけれど、力を強めても痛いだけだった。……夢ではない。

途方に暮れそうになる。
連絡手段も、何もない。荷物のひとつさえ無かった。だとしたら、わたしはどうするべきだろう。
脱出方法を探す?
部屋には、わたしが飛び込んできた扉以外に、もう一つドアがあった。
別の何処かに通じているのだろうけれど、自分一人、身一つでは心許ない。
流石に斧とは言わないけれど、いざという時のための武器になりそうなものが欲しかった。欲を言えば、その他にも。例えば――

沈黙の空間の中に、響き渡るお腹の音があった。当然というか、わたしのだ。
鳴ってから、わたしは自分の空腹感にやっと気付いた。
混乱していてそれどころではなかったけれど、そういえば感覚的に、随分長いこと何も食べていない気がする。
わたしは固まっていたけれど、フードの人は何の反応も見せなかった。
せめて小さくでも笑うとかリアクションするとか、何かそういうのが欲しかった。何もないのが逆にいたたまれない。

そう思った瞬間、ふわっとフードが靡いた。
彼は身を翻すと、呼び止める暇もないまま歩いて部屋を出て行ってしまった。
えっ、と思った時にはもうドアは閉まっていた。置いて行かれた?
一瞬そう感じてしまったけれど、わたしは頭を振ってそれを打ち消した。
こっちが勝手にここに居させてほしいと言ったのだ、フードさんには別に何の義務もない。
OK、全然気にしてないです。ただちょっと、いやいや大いに心細くなってしまっただけで――。

(どうしよう)

わたしは座り込んだまま、自分の中で呟いた。
彼が居なくなってしまった今、この部屋に留まるメリットはあまりない。
それどころか、このままではジリ貧だ。
何の進展もないまま、体力だけ消耗してしまう。
それだったら、勇気を出して今のうちにこの場所を探った方がいい気がする。

よし、と一人口に出して、立ち上がる。
そうしてドアの前へ、と一歩踏み出したところでギクリとする。
誰かが、ドアの前にいる。
一瞬ヒヤリとしたけれど、開いた扉から入ってきたのは出て行ったばかりのフードさんですぐさま安堵する。
何をしに行っていたんだろう、と思う間もなく彼がこちらに差し出してくるものがあった。
黒いその手に、赤い果実が一つ。

「リンゴ……ですか?」

頂いて、いいんですか?
とりあえず日本語で訊ねれば、彼は肯いたように見えた。
両手で、それを受け取ってみる。
この建物の何処かに貯蔵してあるのだろうか。彼のように誰かがいるのなら、不思議ではないのかもしれない。

同時に、すぐ口を付けるのも躊躇われた。
彼を信用していいものかとか、毒は入っていないかとか、そういう部分ももちろんある。
そして、空腹が一時的にピークを過ぎたこともあった。まだしばらくは、食べないままでもいけそうな気がする。
何より、食料を大事にしないといけない。自分の何かがそう告げているように思える。今はまだ、食べる時ではない。
わたしはそう結論した。

「ありがとうございます。……後で、頂きますね」

お礼を言って、頭を下げる。
続けた。

「わたし、ここから出たいんです。だから……行きますね」
「…………」

何か応えるふうでもないフードさんに小さく笑んで、ドアノブを押す。
その先には廊下が広がっていて、所々に蛍光灯が光っている。
……行くしかない。

「色々……ありがとうございました」

さようなら、と言うと寂しい気持ちになりそうで、言わずに戸を閉める。
数歩ほど行ったところで、すぐにドアの開くかちゃりという音がして振り返る。
フードさんが部屋から出てくるところだった。相変わらず顔は暗い影に埋もれていて、表情はまるで見えない。
ただ、見送りに出てきたわけではないようだった。

「えっと……」

もしかして、一緒に来てくれるんですか?
自分と彼を手振りで示して、通路の向こうを指しながら首を傾げてみせる。
フードさんは何事か、何語かも判らない言葉で短く言った。
たぶん、わたしの希望的観測では、イエスなのだと思う。……思いたい。
両の手で包んでいるリンゴをそのままに、思わず胸の前で祈りのポーズをしそうになる。
誰かと一緒にいるというのは、こんなにも心強いものだろうか。
心細さが消えたわけではないけれど、それでも、とても有り難かった。

……そう言えば、彼(彼女かもしれないけれど、男の人、という印象だった)をどう呼べばいいんだろう。
名前を訊ねようにも、言葉がこの調子だ。
しばらくは、お互いそれぞれの言葉で通すしかないのかもしれない。そうだとしても。

「よろしくお願いします、フードさん」

ひとまず、名前が分かるまでの仮の名前。
わたしは彼を、フードさんと呼ぶことにした。
どうして一緒に来てくれる気になったんだろうと、疑問に思わないでもない。
ほんの気まぐれかもしれない。……それならそれで、構わなかった。
気まぐれでも、ほんの一欠片でもこちらを助けてくれる気持ちがそこにあるのなら嬉しい。
それはきっと、この果実を口にした時判るだろう。
だから。
貴方が信頼に足る人物だと心から思える時まで、もう少し時間が欲しい。
歩きながら、手の中のリンゴを見つめながら、わたしは祈りにも似た気持ちでそう思った。






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