銀髪さんの部屋の奥。
貸してもらった洗面所、鏡に映った自分を見て呼吸が止まりそうになった。
目が、瞳が、赤く染まっている。
わたしはよろめいて、後ろの壁にぶつかりそのまま背を預ける。
力が抜ける。立っていられずにズルズルと滑って、その場に呆然と座り込んでしまう。
心臓が大きく脈を打ち始めた。……耳を聾せんばかりの鼓動で、何も聞こえない。
充血しているとか目の中で出血を起こしているだとか、そんな話ではなかった。
見慣れた自分の目の色とはかけ離れている。これは、わたしじゃない。……わたしの目ではない。
鏡を見ていない今も、焼き付いた鮮明な赤が視界にこびり付いて、離れない。
どのくらいの間、座り込んでいただろう。
気付いた時には立ち上がっていた。ガクガクする脚を奮い立たせて、それでも、どうにか。
洗面所を出て、何も言えないまま部屋を駆け抜け、よろめきながらも階段を一気に走って上る。
いつもなら銀髪さんに、生首さんと手首さんにお礼を言って頭を下げるところだった。
時々訪ねては、わたしを助けてくれる彼ら。
けれど、とても今はそうすることができない。恐慌状態に陥っていた。
いつもと違うわたしの様子に、銀髪さんたちもさすがに少し驚いたようにこちらを見ている。
応じることもできないまま階段を上り切ったところで、不意に意識がぷつりと途切れた。
頭の中がぼーっとする。
白い濃霧が立ち込めているみたいに、何も見えない。
しばらく目を閉じてジッとしていると、少しずつ視界が開けてきた。
自分の前に影が落ちていることに気付いてふと顔を上げると、フードさんが立っている。
その斧を両手に携えたまま、ただこちらを見下ろしている。
フードさん、というのはわたしの勝手な呼称に過ぎない。
目深にフードを被っていて、常に表情は読めなかった。今もそう。暗い影が落ちていて、間近な距離でもその顔を窺い知ることはできない。
名前を知る術もなかったから、彼らのことは特徴をとって呼ぶことにした。
銀髪さんも、生首さんも手首さんも、見た目そのままを仮の名前とさせてもらっている。
初めてわたしに彼らの言葉を教えてくれたのが、目の前にいるフードさんだった。
寡黙で、多くを語らない。
それでも、言葉が通じないわたしをぞんざいに扱うようなことは決してなかった。
それどころか、最低限ながらも意思の伝達を試みようとしてくれた。
何も分からない彼だったけれど、悪い人ではない。そう今まで思っていた。
――その彼が、今初めて何かの判断を下そうとするかのようにわたしを見ている。
いつもなら片手に下げているだけの斧が持ち上げられている。何かきっかけがあれば、すぐにも振り上げられそうな気配があった。
……どうして? 何か気に触るようなことをしただろうか。
記憶を手繰ろうとしても、今なお頭の中は白い霞が掛かっていて、鮮明に思い出すことができない。
「あの……」
声を出してみる。少し掠れた声色だったけれど、どうにか形になる。
続けた。
「わたし…………何かしたんでしょうか」
「…………」
わたしの言葉は、向こうには通じない。
それは彼に限ったことではなくて、この場所に存在する彼ら全てがそうだった。
彼らには彼らの言語があって、それはきっと、人の言語とは異なるのだろう。
わたしは教えてもらったり身振り手振りを駆使したり、そうやってどうにか意思疎通を図ってきた。こちらの言葉も、彼らにとっては未知だろう。
それでも、口調から彼らに伝わるニュアンスも幾らかあると思う。どこまで伝わるか分からないまま、わたしはわたしの言葉でそう言った。
数拍の間。
その後に、彼は両手の斧を静かに下ろした。
何も言わず、ただそうするに留まっている。ひとまずは、彼がわたしに向ける何某かの思いは去ったらしい。
少しホッとしたのも束の間、ふとわたしは自分を見下ろしてギクリとする。
両手の爪先が、赤黒く汚れている。
ひと目で血だと分かる。知らない間に、指先をケガしたんだろうか。そう思って恐る恐る動かしてみて、
(わたしの血じゃない)と知る。
わたしの血ではない。では誰か。では、誰のものなのか。
……記憶が途切れている、その間に、わたしは一体何をしたの?
どうしていいのか分からなかった。
ただ、ここに居てはいけないと思った。
わたしは足に力を入れてみる。立つことも、歩くことも何とかできそうだと判断する。
フードさんに頭を下げて、わたしは逃げ出すようにその場を去った。
どこに行けばいいだろう。
当てもなく通路を歩いていると、突き当たりの通気口のような空間に顔を出したのは隙間さんだ。
隙間からしか顔を出すことがない。だから、彼は隙間さん。
こちらと目が合うと、怯えたように彼は暗闇の中に姿を消した。いつもなら、何かを訴えかけるようにわたしを見るのに。
それ以上を考える余裕はなかった。
通路をただ辿っていって、誰もいない空間にひとまず身を寄せる。
……そう言えば、“彼”は何処にいるんだろう。少し前まで、行動を共にしていたあの人。
「人」と呼んでいいのか、判断に迷うところはある。
でも見たところ、姿形はそうだったし、そう呼んでも差し支えないとわたしは思っていた。
ハッとする。
どうして今まで、思い至らなかったんだろう?
ずっと――彼と一緒に、ここを歩き回ってきた。それを今になって急に思い出したのだ。
彼は今、何処にいるんだろう。そもそも、どうして離れ離れになったんだろう?
思い出そうとしても、記憶は頼りなく脆かった。すぐには思い出せそうにない。
がらんと広がった暗がりの一角。
そういえば、と思う。
(彼と二度目にあったのがこの場所だったっけ)
わたしは一人で、ほんの少しだけ小さく笑った。
あの頃はまだ、自分の置かれた状況が理解できていなかった。そんなわたしを心配してか、彼はこの時からずっとついてきてくれた。
黒い服、長い黒髪、口元に浮かんだ笑み。
髪に隠れて目元は見えず、歩けないようで手で這ってくるその姿はどう見てもホラー映画の主役でしかない。
それにも拘らず、彼は優しかった。
強張って動けないでいるこちらの頭を、そっと静かに撫でてくれた。
最初は何を言っているのか分からなかった。けれど、根気良くいつも何かを教えてくれた。少しずつ、その言葉が分かるようになっていった。
彼のことを、何と呼べばいいだろう。
特徴をとって、というのなら、這って移動することに由来する何かかもしれない。
けれど、本当なら名前を呼びたかった。
そういう概念があるかどうかは分からない。心を許し始めた頃、わたしは自分を指して名を繰り返したことがある。自己紹介のつもりだった。
そうして(あなたは?)のつもりで彼を指しても、向こうは首を傾げていた。名前がないのかもしれない。……それならそれで、仕方ないけれど。
何のきっかけもなく、気付いた時はここにいた自分。
出口を見つけようとするわたしの後を、彼はついてきてくれた。
最初はただただ(怖い人だ)と思っていた。後を追ってくるのをどうすることもできず、仕方なく放っておくことにした。
そうしてこの場所のあちこちを探索するうちに、彼がこちらを気遣ってくれているらしいと分かり始めた。
危ない場所があれば警告してくれた。行く先を時に指し示してくれた。合間合間に、彼らの言葉を教えてくれた。怪異からわたしを守ってくれた。
どのくらいの時間を過ごしたか分からない。
ここでは太陽の光が差し込むこともなくて、時間の感覚が希薄だった。
それでも、辿り着いた先には光があった。
きっとあの向こうへ出られたなら、わたしは自分の場所へ帰ることができる――そんな確信があった。
それなのに、わたしは躊躇ってしまった。
彼を振り返る。
思わず手を伸ばせば、向こうは驚いたようにこちらを見上げてきた。
どうしたの、早く行って。そう言っているような気がした。それなのにわたしは、そうすることができなかった。
気付けば光は閉ざされていて、わたしは機会を逃したことを知った。
それでも何故か、後悔はなかった。
彼と離れることを、躊躇ってしまった。一緒に行こうと、手を伸ばしてしまった。
結果こうして、わたしは今も、この場所に留まっている。
あの時やっぱり、ここを出るべきだったんだろうか。思い返してみるけれど、それはそれで後悔していたような気がする。
大丈夫。……光は一度差したのだ。
だから、本当にこの場を去らなければいけない時が来たら、またあの場所で好機を待とう。
それまでの時間を彼らと共に過ごすのも悪くないのだと、その時はそう思っていた。
けれど――。
わたしは頭を押さえた。
最近、自分がどこか覚束なくなっているのが分かる。
さっきみたいに、意識が唐突に途切れることがある。頭の中が白くなって前後不覚になる。苦しいとか痛いとか、そういうのはなかった。
寧ろ自分を取り戻した時には、何故だかひどく気持ちが昂ったような、昂揚感の残滓があった。
自分に一体何が起きているのか、分からない。
わたしは広がった空間の隅に腰を下ろすと、そのまま膝を抱えて蹲った。
ふと指先を見下ろす。
さっきはその赤黒い色に動揺して、そのことにしか気付かなかった。
薄ぼんやりとした不安定な明かりが天井に灯っている。
その中でまじまじと見れば、爪がおかしな伸び方をしていることにようやく気が付いた。
奇妙な感じだった。まるで獣か何かみたいに、鋭くその先が尖っている。
そして同時に、爪の中に何かが挟まっているのを見てしまった。
どのくらい経った頃だろう。
誰かの近付いてくる音があった。……このフロアに、危害を加えてこようとする誰かはやって来たことがない。
でもそれは、今までの短い経験の中での話だ。
もし、今こちらへやって来ようとするのが、そういう存在だとしたら――
OK、ウェルカム、よろしくね?
わたしは半分以上本気でそう思った。
だって、もう、どうしようもない。選択肢が他にないのだから、自棄になるのも仕方なかった。
わたしは膝を抱えて顔も上げずに、訪問者をただ待った。
けれどすぐ、それが誰なのかが分かった。
もう、耳が慣れてしまっていた。両手で這ってくる時の、独特の擦れる音。
間近に彼がいる。……それが分かっていてなお、顔を上げることができない。
そっと、頭に手が置かれた。傷ついた子どもを優しくあやすような、そんな撫で方で慰めてくれている。
「…………」
わたしは何も言えないまま、静かに首を持ち上げた。
いつもと変わらず、長い黒髪が目元を遮っているその人がいた。彼は少しの間こちらを見つめると、何事かを囁いた。
(悲しいの?)
そう言っているのが分かった。
言葉の全てを理解することはできないけれど、教えてもらった簡単なものなら、今なら分かる。
普段のわたしなら強がって、首を振ったと思う。
けれど、そんな余裕はとてもなかった。とても。
素直に肯くと、彼の方こそが悲しそうな顔になる。……うつ伏せで、上半身を起こした格好でいた彼は引き摺る脚を寄せ、体勢を変えて横座りになる。
そしてそっと、両腕を広げてくれた。
もう、どうしようもなかった。
その胸にもたれ掛かるように身を預けると、額が彼の肌にぶつかった。
ひんやりとしていた。生きた人間の体温ではない。
けれど、氷のように冷たいわけでも決してない。
体温の向こうにある彼の優しさはあたたかかった。
「これ……わたしがやったんですよね」
「…………」
そっと指先で、彼の腕にできている真新しい傷をなぞる。
彼は肯定もしなかったけれど、否定もしなかった。ただ黙って、わたしを抱きしめてくる。
さっき、自分の爪の間に挟まっているものを見て、少し、分かってしまった。
彼が身につけている黒い服、それと同じ布の繊維らしいものが、血と混じってついていた。その袖は実際、血に塗れ裂けている。
だんだんと、分かってくる。
最近、時々記憶が曖昧になることがある。自分を取り戻した時に残っている、あの高揚感。
血が沸いて、自分が自分じゃなくなるようなおかしな感覚になる。
わたしはきっと、この場所に長く居過ぎてしまったんだろう。
彼らと同じような存在になるのだとしても、彼と一緒にいられるのなら、それでもいいのかもしれない。
……一瞬でもそう思ってしまったのは否めない。
けれど、これではダメだ。そう思った。
わたしはわたしでいたかった。
わたしは自分の気持ちを違えて、目の前の彼を傷付けたくなかった。例え彼が不死身でも、痛みを感じないのだとしても、そんなことは関係なかった。
今はこうして意識は清明で、思考もできる。でもまたいつ自我を失うか分からない。
それではダメなのだ。わたしはずっと、わたしのままでいたかった。
ゾンビ映画を思い浮かべる。
よくある場面に、噛まれて自分ももうじきゾンビになってしまう――そんな状況がある。
そうなった人の行動は、大きく分けて二つある。
一つは、どうにかそうなるのを回避しようと邁進するものだ。でも、今のわたしには、どうやっても回避しようがない。もう気力も体力もかなり消耗している。何より、心がもちそうになかった。
そしてもうひとつは――。
「……お願いがあります」
「…………?」
彼は、(何?)というように身じろぎをした。
続けて言った。
「ずっと、こうしていてくれませんか」
嫌でなかったら、ですけど。
わたしは言いながら、彼の服の胸の辺りをゆるく握った。
痛いのは嫌だった。苦しいのも嫌だった。けれど、この人がこうしていてくれるなら、きっと心穏やかでいられる。そう思った。
彼は、拒絶をしなかった。
名前も知らない彼に抱かれながら、(一度でいいから、やっぱり名前を呼んでみたかったなあ)と思う。
他にも、いろいろ思うところはある。彼がわたしに向ける感情は、どんなものだったんだろう、とか。
飼い主がペットに向けるような愛情か、それとも友達のような好意か、あるいはそれ以上の何かなのか。
少なくとも、わたしの方はあなたが好きだった。帰り道を目の前にしながら、ここに残ることを選んでしまったくらいには。
ゆるやかに体温が下がっていくのを感じながら、けれど、そんなことはもういいか、とも思った。
最後に、こうして一緒にいてくれる。……それだけで十分。
わたしはそう思った。
――僕は、どうすれば良かったんだろう。
目を閉じた君を抱き抱えたまま、そんなことをずっと考えている。
あの時、人間の世界へ無理にでも帰すべきだったんだろうか?
今になれば、そうだったんだろうと思う。……この場所は、人間である君には、受ける影響が大きすぎる。
最初に迷子になっていた君を見つけた時、僕はただ好奇心で近付いてみた。
もともと、人間は好きだった。頭を撫でたくて、たまに見かけることがあればそうするんだ。
滅多に撫でられることはないけれど。何故かみんな、僕を見るとすぐに逃げてしまうから。
君も最初の頃こそ、やっぱり怖がっているみたいだった。
でもだんだんと、僕のことにも慣れてくれたね。
君は、僕の言葉を理解しようとしてくれた。
一緒にいるようになって、どのくらい経ったのかな。君は僕を、僕は君をお互いわかり合おうとしていたから、とても――とても楽しかった。
出会ってから、ずっと君のことばかり考えてる。
……だからこそ、僕は、君の背を押さなければいけなかった。
なのに、僕はそれができなかった。
だって君は、家に帰ることを投げ出してまで、僕に手を伸ばしてくれた。それが嬉しくなくて、一体なんだというんだろう。
けれど、代償は大きかった。
最近の君は、すごく不安定だったね。
いつもの君じゃなくなる時が徐々に増えていった。……階段下の部屋を訪ねる時は、大体水が欲しい時だって知ってるよ。
僕は脚が弱いから、君のようには歩けない。
階段での移動を気にして、「待っててくださいね」って笑って、君は下に下りていった。
戻って来た時には、君ではない君だった。……何もできない僕は、仕方なく離れることしかできなかった。
君を見つけた時、すごく悲しそうに見えた。
……君はもう、自分に何が起きているのかを悟っていたんだね。
そうして僕にお願いごとをするんだ。できることなら、今からでも家に帰してあげたかった。
でも君にはもう、そうする力は残っていなかった。
僕が言われたとおりにすると、しばらくして、君の身体が小刻みに震えているのが分かった。
寒いの? ……そうだよね。寒いだろうね。
僕では、君をあたためてあげることもできない。僕の体温は、君には低すぎる。
そう思って抱きしめる腕を放そうとしても、君は首を振った。
「お願いですから」、
そのままで。
そう呟く君の心を思うと、胸が痛んだ。
……そうだ、君にまだ教えていないことがあるんだ。
君は、自分の言葉が思ったほど僕に伝わっていないと思っていたかもしれない。
でも、全部とは言わないけれど、君の言葉はそれなりに理解していたんだ。
ただ、人間の発音は僕たちには難しい。……君だって、きっと同じだったんじゃないかな。
それでね。――君が見ていない時に、練習していたことがあるんだ。
君の名前。
一度、教えてくれたことがあったね。
僕は、すぐには何を言いたいのか分からなかった。だから、次に僕を指した時にも、何を訊ねられたのかと首を傾げてしまったんだ。
遅れて、名前のことだと分かった時には遅かった。
君の関心は別のことに移っていたから、僕は名乗るタイミングもすっかり逃してしまった。
でも、君の名前は繰り返してくれていたから、記憶にあった。
何度も練習したから、大丈夫だと思うんだけど。
今から呼んでみてもいいかな。
じゃあ、言うね。
「…………」
おかしいな。……おかしいよね。
声はこれっぽっちも出ないのに、どうして涙ばかりが出るんだろう?
君の顔に、頬に、ぽつりと滴が落ちる。
そうして、気付いてしまった。もう君が目を覚まさないことに。
力の抜けた身体、その手の指先は元の人間の爪に戻っていた。その目がもし開いたなら、元のままの君の目だっただろう。
君は、君のままでいてくれた。
名前を呼んだら、君は驚いただろうか、喜んでくれただろうか。……今はもう、分からない。
一度でいいから、君を名前で呼んでみたかった。
それだけのことが、もう、叶わない。
君の頭を初めて撫でた、この場所で。
僕は君を抱きしめたまま、声を上げて一人、泣いた。
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