がらんと広がった空間に、椅子だけが置かれている。
背もたれのない長椅子だった。近付いて観察してみるけれど、ホコリもなくきれいに見える。
……この場所の誰かが、使っているんだろうか。
思うけれども、今のところは誰かの気配も感じられない。
思案の後、少しだけ休ませてもらうことにして腰を下ろした。

疲れが、出始めている。
ひんやりと冷たい椅子の温度、固い感触を感じながら思う。
天を仰げば、今まで覗いてきた部屋にもあったような電球がひとつだけ灯っていた。
……どのくらいの間、太陽を目にしていないだろう。
ぼんやりとそんなことを考える。今はまだ、それなりに正常な精神を保っていた。けれど、長引けばよろしくないだろうなあ、とも思う。


ふと、膝に重みが掛かった。
見れば、彼が自分の頭をそこに預けている。
小さな子どもがお母さんに甘えるみたいに、こちらの膝に両手と頭をちょこんと載せていた。
そっとその髪に触れて撫でれば、分かりやすく嬉しそうにする。
長い黒髪で隠れた目元がどんな表情かは分からなくとも、口元は綻んでいた。うっとり、とでも表現するのがしっくりくる感じ。

全然、嫌だとは思わなかった。
それどころか(かわいい)とさえ思う。
長椅子があるのだから、隣に座ればいいのにくらいは思う。けれど、こうしてほしくて敢えて座らないのだということも知っている。

彼は、心の拠り所だ。
決して長い時間を過ごしたわけでもない。それでも少なくとも、今までのことを振り返れば信頼できる存在だと思っている。
彼が一緒にいてくれなかったら、きっと随分前に参ってしまっていただろう。
ふと、彼の口元が何事かを呟いた。

「……どうしたんですか?」

訊ねれば、向こうはそのままの姿勢で繰り返す。
彼らの言語は、今なら少しは理解できる。

(君は、あたたかいね)
「…………」

言葉は、無邪気さに満ちている。
気恥ずかしいというものは、あまりこの人にはないのかもしれない。
今でもまだ慣れないところはある。ただ、彼相手ならばこちらも幾らかは素直になれる気がした。

「……あなたも、あたたかいですよ」
(?)

彼はこちらを少し見上げて、(そう?)というように首を傾げる。
膝の上に置かれた両の手、それは確かに低い温度を保っていた。でもわたしが言ったのは、そういう意味合いではない。
かと言って、心が、とはっきり口にするのも躊躇われた。いくら向こうがこうでも、こちらの気恥ずかしさはそうそうすぐには払拭できない。
小さく笑って、黒髪の上からやさしくその頭をまた撫でる。彼は静かにされるがままだった。

そうしながら、ぼんやりと私は考える。
(もし、これが何かのゲームだったら)、そんなふうに。
例えば――RPGゲームか何かだったなら、もう結構、終盤に近いんじゃないかなあ。レベルも上がって、あちこちを探索し終えて。もうそろそろ、ここを脱出できてもいい頃合いだと思うんですけど。
……まあ、ちゃんと出口があればの話。

現実はゲームと違うというのは百も承知だ。
そもそも、出口自体が存在しないかもしれない。ただ、そう考えるのは精神的にもキツかった。
だから、できるだけ今まで考えないようにしていた。いざとなったら、本当に最後の最後で考えるしかない。

同時に思うのは、脱出することができた時のことだ。
私は彼を見る。
相変わらずうっとりしていて、離れようとする素振りもない。
ある時から彼は、こんなふうに頭を撫でるのをねだるようになった。
わたしを守ろうとして庇ってくれた際に、頭をぶつけて流血したことがあった。ひどく痛々しくて、こちらが思わずぶつけたところをさすった途端、こちらがギョッとする勢いで彼は大喜びしてくれた。向こうにとっては、ただ頭を撫でられたという認識だったらしい。
察するに、彼は痛みというものをあまり感じないようだった。結果、頭撫でをねだってくる甘えんぼうだけが残ってしまった。

(最初の頃だったら)

少し想像する。
まだ出会ったばかりの最初の頃だったら、こうしている図なんてとても浮かばなかったのに違いない。恐怖で、膝に頭を載せられた時点で全身総毛立っていただろう。
全然、怖くなんてないのに。
以前の自分に向かって思う。彼は見た目こそこうだけど、常に優しく、あたたかかった。
ホラー映画の登場人物としか思えない出立ち、この笑い方も、見慣れれば可愛くさえある。


彼と自分を、どう呼べばいいだろう。
友人? それとも一時的な相棒とか、パートナーとか?
何とも定義し難い、ふわふわした感じだった。お互い、手探りで意思疎通を図ってきた。この人の接し方から考えても、たぶん関係は悪いものではない。……こちらは、そう思っている。
だからこそ、彼と離れることを寂しく感じている自分がいる。
もし本当にわたしが「終盤」という地点に立っているのなら、この場所を出ることになったなら。
それは同時に、彼と決別しなければならないことを指している。

(どうすればいいんだろう)

もう一度、天井を仰ぐ。
太陽のない空間。打ちっぱなしのコンクリートが広がっている。
今までのことが思い浮かぶ。いろんなことがあった。人ではない者が多く存在していた。
助けてくれる誰かもいたけれど、危害を加えてくる者もいた。ただ思い返してみれば、彼らのテリトリーに無断で立ち入ってしまったのはわたしの方だった。大抵、そういった場合に攻撃を受けている。

いろんなことを考えて、結論する。
わたしは、ここでは生きられない。
やっぱり、ここを出るしかない。出ていくしかない。
最初から分かっていたことのはずだった。……それなのに、どうして今、こんなにも心がざわつくのだろう?

「……少し、お話してもいいですか」

撫でる手を止めて、小さく口火を切った。
彼は(うん?)という感じでこちらを見上げてくる。
言った。

「もうすぐ……ここを出られるんじゃないかなあって思うんです。何の根拠もないんですけど」
(…………)
「もし本当に、ここを出られて……わたしが元いたところに帰れるってなったら。その時は、見送ってくれますか?」
(…………)

幾らかの間があった。
ほんの数秒くらいだった。すぐに彼は、口元にきれいな弧を描いた笑みを形作って肯く。
そうだといい、と思う。
彼のことは、確かに信じていた。ただ、数字でいえば九割、という感じだった。
それというのは、最初の頃に決めていた。優しくしておいて、最後の最後で手のひらを返して裏切ってくるというのはよく聞くパターンだ。
だから……この場所を離れるその時まで、彼が本当に善良だったなら、その時は真に心を許そう。そう思っていた。

「ほんと言うと……今、迷っているんです」
(…………?)
「あなたと、もっとお話してみたいって思っています。わたしの言葉も、どこまで伝わっているのか分かりませんけど……」

わたしはわたしで、いつも通りに勝手に話していた。
彼は肯いたり、首を傾げたりとそれなりに反応してくれていたものの、全部伝わっているかなんて分からない。
ただ、理解しようとしてくれているのは分かっていた。
わたしも、彼の言葉が少しずつ解っていくのはとても楽しかった。もっと色々と教わりたかったし、もっと一緒にいたかった。

「上手く言えませんけど、離れ離れになるの、寂しいなあって思うんです。それに……そう。あなたを名前で呼んでみたいなあ、とか」

そう思ってるのって、わたしだけでしょうか。
最後の方はほとんど独り言に近かった。
いろんなことが頭の中でひしめいている。その中で言葉にできそうなものを口に出すと、(やっぱりわたしはそう思っているんだな)と少しだけ考えが整理される気がした。

気付けばこちらに、腕が伸ばされている。
彼は膝立ちになって、静かにこちらを見ていた。浮かべていた笑みは消えていて、言葉のないいたわりがそこにある。
互いにそっと背に手を回すと、視界は暗く塗りつぶされる。
ひんやりとした身体は触れてみると厚みがあって、包まれるような安心感があった。
……やっぱり、離れることが辛い。離れたくない。

思うけれど、どうしようもなかった。
わたしはここに残るわけにもいかなかった。……だったら、彼も一緒に連れて行けないだろうか。一瞬そんな考えが沸いて、自分の中で頭を振る。
なんて自分勝手で、傲慢なんだろう。こちらの都合で、そんな考えに行き着いてしまうなんて。

彼がどんな気持ちなのか、訊いてみたい。
そう思う反面、怖くてそうすることができない。
今こうしてくれているのだって、ただ慰めてくれようとしてのこと、ただそれだけかもしれない。
それでもいい、と思う。
それでもいいから、もう少しの間、このままでいさせてほしい。
思いながら、何も言わないままの彼の背に回した腕に、少しだけ力を込めた。






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