暗い。ひどく暗い。
まだ眠っていていい時間なのかな、とぼんやり思う。
枕元の時計に手を伸ばそうとして、固く冷たい地面の感触に気が付いた。

ハッとする。
首を持ち上げて見れば、辺りは異質な空間だった。
薄暗い。けれど真っ暗ではなくて、弱々しい電灯がかろうじて辺りを照らしている。
いつも目覚める自分の部屋ではなくて、そしてここが何処なのか見当もつかなくて、頭の中が混乱しそうになる。
……見当もつかない?

本当に?
そう自分の中で声がしたような気がして、恐る恐る周囲をそっと窺ってみる。
誰もいない部屋、床も壁もコンクリートが広がっていて、向こうにドアがひとつ佇んでいるだけだ。
何処か奇妙な空気が周囲を包んでいる。そしてわたしには、それに覚えがあった。
知っている。わたしは、この場所を知っている。

そう思った瞬間、自分の中に流れ込んでくる記憶があった。

今と同じように目覚めたあの時、こちらに気付いて近付いてきた彼。逃亡。一人で周辺を歩き回って、ここが人間の世界ではないことを知った。人ではない存在がいて、それでもわたしを助けてくれる彼らがいた。一度逃げ出してしまった自分を、それでも気にかけてくれたあの人。彼と共に、出口を探して彷徨った。
結果、わたしはこの世界を出ることができた。
最後のあの時間、エレベーターの前で、彼と交わした言葉を思い出す。

「(行ってしまうの?)」
「(寂しい)」
「(また会えたら嬉しい)」

言葉少なにそう言うあの人の手を取って、本当に今までありがとうと伝えたことを思い出す。
あなたのこと、忘れない。
そう確かに口にしたはずなのに、向こうへ戻ったわたしは、自分の中にこの異界の記憶を携えていなかった。
まるで誰かに意図的に消されたかのように、白く塗りつぶされた記憶。
どうして今まで、忘れてしまっていたんだろう。一瞬そう思うけれど、この不思議な世界のこと、深く考えても仕方がないのかもしれない。

そのなくしていたもの全てが、今再び、自分の中に入り込んでくる。
確かにわたしは、この世界を出たはずだった。
荷物を無くしたことだけは覚えていて、一応探したものの、結局見つかりはしなかった。……あれから、既に一年近くが経っている。
異界での記憶を失っていたわたしは日常に戻って、変わりない生活を送っていたはずだった。
それなのに、何故?
どうしてまた、この異界に放り込まれなければいけないのだ。

どのくらいの間か、考え込んでしまっていた。
けれど急に、本当に誰も近くにいないのかが不安になってきた。
前回は、比較的最初の頃に武器になりそうなものを見つけられた。
けれど、見たところこの部屋には本当に何もなく、友好的な怪異もいなければ武器も道具も見当たらない。
今、敵意のある誰かと遭遇することがあったら――。

ドスン、と重い音がした。

音の方を見ると、さっきまではなかったボストンバッグがある。
しばし考えた末に近付いて、ファスナーを開いてみる。注意深く、ゆっくりと。
中から見覚えのある顔がヌッと現れ、口を開いた。

「(あんた、久しぶり)」
「隙間さん」

思わずそう言ってしまう。
隙間さえあれば何処にでも現れる彼は、神出鬼没だ。
最初はふつうの人間だと思ったけれど、言葉が解らず距離を取っていた。
言葉が解れば、それはそれでダメだった。こちらの身体の一部を欲しがってくるので、毎回頑なに拒絶していた。
けれど、それでも助けてもらったことがある。一癖あるけれど、ギリギリのところで友好的と言えなくもない存在だった。

「隙間さん、教えてほしいんですけど!」
「(俺、あんたの言葉わからない)」
「えーっと、(教えてほしいんですけど!)」

わたしの中で一年という空白が空いていたにも拘らず、異界の言葉は驚くほど鮮明に自分の中に残っている。
多少の質問には、彼がいつも欲しがる身体の一部という対価なしでも応じてくれた。
けれど、彼はエレベーターの場所も知らなければ、わたしが知る友好的な人外さんたちの居場所も知らないようだった。
それというのは、

「(時間が経ったから、場所も変わった。だから知らない)」
「(どうして場所が変わるの)」

いまいち理解できなくて、何言ってんだろコイツ、くらい内心思ってしまう。
けれど、返ってきた答えはわたしの心をざわつかせるものだった。

「(ここ、揺れると場所が変わる。いつも同じじゃない)」

内容が頭に染み渡ってくるまで、少し時間が必要だった。
地震が起きると、建物内の構造が変わる……そんな意味だろうか。
一年前に迷い込んだ時を思い出す。果たして、そんな設定があっただろうか?
思うけれど、わたしの今の解釈が違うのか、それとも前回そういった場面に行き合わなかっただけなのか判断しかねた。
ひとまずは、そんな可能性があるということを頭の片隅に置くことにする。

「(あと、武器がないんだけど持ってません?)」
「(心臓くれるならあげてもいい)」
「(ごめんなさい、やめときますね)」
「(残念)」

言いながらも何処か楽しそうに目を細めると、隙間さんは暗がりに消えた。
武器は手に入らなかったけど、少しは情報が得られた。
わたしは少し、考え込む。

今のところ、近くに頼れる誰かもいない。
前回は、彼が近くにいてくれた。長い黒髪のあの人が。
会いたい。思うけれど、何処にいるかも分からない。長い時間が経っているのだから、もうエレベーターの場所にいるわけもない。
彼に会いたいと思う反面、一人で最短でこの場所を出る必要がある。

わたしは腕を見た。
今のところは異常はない。けれど前回は、時間が経過するにつれ、何かに感染したかのように肌の色がおかしくなっていった。
長くこの場所に留まれば、わたしは人ではなくなってしまう。
それだけは避けなければならなかった。大丈夫。前回は無事にここを出られて、腕の色も元に戻っていた。ゲームで言うところのタイムアタックに挑むみたいなもの。
そしてわたしは、2周目だ。一人でも行ける。大丈夫。
わたしは慎重に、けれど早歩きで歩き出した。



部屋を進んでいくうちに、鳴り響く音があってギクリとする。
けれど、その正体にすぐ気付いた。電話のベルの音だ。
壁に取り付けられたそれの受話器を取って耳に押し付けると、聞き覚えのある声がした。

「(こんにちは)」
「(こんにちは。……あの、わたし、言いたいことがあります)」
「(…………?)」
「(以前、たくさん貴方の言葉に助けられました。お礼を言いたいと思ってました。あの時はありがとう)」
「(どういたしまして)」

電話の声は、男性とも女性ともつかない中性的な声色だった。
最初のうちはあまり言葉が解らなくて、なんとなく怖かった。けれど、解るようになれば彼(彼女?)は的確な助言を与えてくれる好人物だと気付いた。
そうしてこっそり、わたしは電話さんをヒントさんとも呼んでいた。だから、お礼を言いたいとずっと心の隅っこで思っていた。
あと、まあ、これはついでと言ってはなんなんですが。
今も何かしらのヒントが頂けたら、それはもう、とってもとってもありがたいんですけれども!

「(わたし、今一人で困っています)」
「(あなたは人間の姿を隠すべき)」
そう電話さんは言う。言葉が続いていた。
「(人間を攻撃する個体がいる。あなたが人間だと分からなければいい)」

短くも明瞭に、電話さんはわたしに必要なものを教えてくれた。
受話器を置いて、考える。
以前この場所を彷徨った時、大きな顔を持つ怪異に連れていかれそうになった経験がある。人間がかわいい、みたいなことを呟いていた。ペット扱いみたいなものだろうか。
確かにこうして人間の姿そのままでは、あれにまた捕まる可能性もあり得る。隠す。どうやって?

「フードさんみたいに長いコートがあればな……」

思わず独り言を呟いてしまう。
一年前のあの時、一番初めに言葉を教えてくれた人物。その人の服装が思い浮かんだ。
長いコートに、頭をすっぽり覆ってくれるフード。あの格好なら、ここの住人か人間かの区別はつきにくいかもしれない。
わたしはほんのちょっと、フードさんのことを思った。あれっきり一度も会っていない。
いや、それを言ったら、他にも思い出す顔はいくつかあった。生首くんに手首さん。それから、銀髪さん。そしてそれから……。

危ない存在もそれなりにいた。
けれど、親切な人外さんたちも多かった。それなのに、わたしはほとんど何のお礼も言えないままこの場所を出てしまった。
仕方がないことだったと分かっている。わたしには時間がなかったから。覚えた言葉だって、決して多くはなかったから。

だから、自分の決断を後悔していない。そのはずだった。
……それなのに、今自分を満たすこの気持ちは一体なんだろう?
一瞬の思いだった。わたしはこの場所を出るために、今何をすればいいのかを再び考えなくてはならなかったので。



電話さんのヒントは相変わらず的確だった。
長いコートが欲しいと思い立って、(服が欲しいな)とここの言葉で呟けばドレスの女性が現れる。
「(久しぶり、元気?)」なんて挨拶の後に事情を話せば、彼女はイメージそのままのロングコートを差し出してくれた。
「(ありがとう、とても素敵です)」、そう伝えれば、顔がない彼女はそれでも嬉しそうにしてくれる。
コートを羽織りフードで頭を覆って歩けば、時たま出くわす誰かも全くこちらを気にしなくなった。
結果的に大顔の怪異に遭遇しなかったのも、この姿だったからかもしれない。

隙間さんとのやり取りで、武器をもらっておかなくて良かった、と思う場面もあった。
道を進んでいくうちに、あまり友好的ではなさそうな怪異と行き合った。
慎重に進んでいたものの、長い一本道の廊下の向こう、そこへ急に現れられたら仕方がない。
踵を返すのもあからさまだ。一か八か、と俯きながら行く。
目深に被ったフードの視界に入ってきたのは相当な大男で、持っていたのがこれまた相当な大きさの鉈だったので、内心冷や汗どころではない。
ただ、通り過ぎる時に聞こえたのはこんな言葉だった。

「(武器持ってない……つまらない……退屈……)」

ハラハラしながらも、そんなふうに聞き取れた。
しばらくしてそっと振り返ってみれば、やっぱり屈強そうな怪異の背だった。戦うのが好きそうな、そんな感じ。
もし武器を持っていたら、今みたいに眼中にない、とはならなかったかもしれない。
わたしは安堵の息を漏らした。



エレベーターまでの道のりは、電話さんに聞いている。
姿を隠しているおかげか、ほとんど誰かにちょっかいを掛けられることもなかった。
ここの怪異の皆さんは、それほど他者に関心がないようだった。それが人間だったなら、また話は違うだろうけれど。

そうして歩くうちに、わたしはその場所に辿り着いている。
そのフロアだけがやけに現代的で、壁は白く清潔感がある。以前見た時と、まるで変わっていない。
あのエレベーターに乗り込めれば。
思う反面、心に重くのしかかるものがある。会いたいと思う人物に会えないまま、わたしはここまで来てしまった。

塞ぐ気持ちをそのままに一歩踏み出そうとして、凍りつく。
誰かがいる。

ゾッとしたのは一瞬だった。
床に横になっている誰かの長い黒髪、黒い服。
見間違えようもない。わたしはフードを後ろに落とす。思わず彼の名前を呼んでいた。

「這いばいさん……」

本当の名前も分からない。
黒髪さんだとわたしと被るから、ひとまず特徴をとって呼んだその人の仮の名前。
小さな呟きだったのに、彼には届いたらしい。
振り向いた、と思った瞬間には飛びつかれていて、ぐらりと視界が反転した。
嗚咽を漏らしながらこちらを抱きしめてくる。わたしは仰向けに倒されたまま、そっとその頭を撫でた。



ひとしきり泣いて、ようやく落ち着くまでずっと背中をさすっていた。
服越しにもひやりとした温度が伝わってくる。彼の体温に触れるのは久しぶりで、何処か安心する気持ちになる。
彼が、やっと言葉を紡いだ。

「(君にまた会えて、とても嬉しい)」
「(…………わたしも、嬉しいですよ)」
「(良かった。君が戻ってくるのを、ずっと待っていたから)」
「…………」

わたしは言葉が出てこなかった。
一年前、この場所で交わしたやり取りを思い出す。
行ってしまうの? そうぽつりと漏らした彼の、悲しそうな顔。
すぐにその表情をしまい込んで、笑って手を振ろうとしてくれた。わたしはその手のひらに触れて、本当にありがとうを伝えたけれど。

本当は離れがたかった。
けれど、わたしはこの場所には留まれない。……なら、どうすれば良かったんだろう。
一緒に行こうと、自ら手を差し伸べることが怖かった。自分勝手な、身勝手な提案をして、彼に拒絶されることが怖かった。

「(ずっと……あの時からずっと待っていたんですか?)」
「(うん)」
「(どうして? わたしは戻ってこなかったかもしれないのに)」
「(戻ってこなくても、僕は待つつもりだった)」
「(どうして)」
「(君が好きだから、僕には待つしかなかったんだ)」

彼の言葉は純粋で、とても単純なものだった。

「(本当は、行ってほしくなかった。でも君は人間だから……)」
「…………」
「(家に帰りたかったんだよね。僕は一緒に行きたかった、でもそう言って、君に拒絶されるのが怖かった)」

ようやく小さく笑えるくらいには、彼も落ち着いてきたみたいだった。
何処か悲しそうな、小さな微笑み。それを目の当たりにしながら、(なあんだ)、と思う。
なあんだ、そうだったんですか。
思わず心の中で言ってしまう。
わたし達は、お互いに拒絶されるのを怖がっていた。ただ、それだけのことだったのだ。

どうしてあの時、互いの気持ちを確かめなかったんだろう。
わたし達はもっと話し合うべきだった。そのために言葉がある。どうしてそれに、あの時気付かなかったんだろう。
それに、そう。
わたしは彼が本当に善良かどうかを知ることさえも怖かった。
信頼はしていたけれど、最初の頃に決めていた。わたしがこの世界を出るその時まで優しい人であったなら、真に心を開こうと。
……わたしは、彼の心を試したのだ。

罪悪感と愛おしさが、わたしをぐちゃぐちゃにしようとしていた。
この世界の記憶を失ったわたしを、それでも彼は待ち続けてくれていた。
両手で顔を覆うと、這いばいさんは慌ててこちらの頭を撫でた。

「(どうしたの、何処か痛いの?)」

違うんですと首を振る。
傍でオロオロする様子があったけれど、しばらくそのままでいて、落ち着いた頃に顔を上げた。
そうして、たくさん話をした。
彼がどうしたいか、わたしはどうしたいか。
もしこの場所に戻ってこれなくても、後悔しないか、とか。
這いばいさんは、そんなことにはまるで頓着していないみたいだった。

「(君と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい)」

恥ずかしげもなく、そんなふうに言う。
そう、と笑い返すと、ふと彼が思い立ったみたいに訊ねてくる。

「(君は、どうして戻ってきたの)」
「(どうして?)」

わたしはまたちょっと笑った。
何故またこの異界に放り込まれてしまったんだろう、つい少し前まではそう思っていた。
でも、今なら分かる。わたしは自ら望んで戻ってきた。

「(あなたを迎えに)」
「(……本当? 嬉しい!)」

そう言ってまた飛びついてくる。
なくした記憶の中で、どうしても失いたくない思い出があった。
優しくしてくれた彼、教えてくれた言葉、少し低い体温。人のようでいて人ではないけれど、そんなことは関係なしに、わたしはあなたが好きだった。
時間は掛かったけれど、それでも思い出してしまった。だから。
今度こそ、一緒に行こう。そう思いながら、わたしは彼の背に手を回した。





僕は、君を待っていた。
ずっと君を待っていた。

君が出口を見つけた時、お別れなんだと分かってしまった。
本当は、もっとずっと一緒にいたかった。今まで何度か、人間と会ったことはあった。
でも、僕を見るとみんな怖がって逃げてしまうんだ。
君も、初めのうちはそうだったね。でも、君は少しずつ僕と話そうとしてくれた。それが、とても嬉しかった。

言葉が解らなくて困っていた君も、だんだんと上達してきて。
そうして、一緒にあちこち歩いたね。……僕は最初、君が何を探しているのか分からなかった。
でも、腕の肌の色が変わっていくのに気付いた時、君はひどく怖がっていたね。
覚えたての言葉を使って、人間じゃなくなるのが怖いって、君は言った。
だから、出口を見つけた時は寂しかったけど、ホッとしていたのも事実だった。
良かったね。君は、今のままの君で家に帰ることができる。
そう思うからこそ、引き留めることもできなかった。

でも、僕は君が好きだった。
君が「一緒に行こう」って言ってくれたら。
そう思ってしまうけれど、僕から言うのは怖かった。僕はそう思っていても、君も同じとは限らないから。
だから、笑って見送ったんだ。君が握ってくれた手を振って。

君が戻ってこないことを、僕は知っていた。
それでも、僕は待ち続けた。
もしかしたら、と心の何処かで思っていたんだ。ずっと僕は、待ち続けた。ずっと、ずっと、ずっと。

そのもしかしたらが、今、ここにある。
それが嬉しくて堪らないんだ。
君がこの場所に留まることができないのなら、僕がそちらに行けばいい。
僕たちは言葉を交わして、互いにそうすることを決めた。
大丈夫。君と一緒なら、何処へだって行ける。そう思えるんだ。

君は手を伸ばす。
僕はその手を取る。
あたたかい温度がそこにあった。






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