誰かに、見られている。
そう思う瞬間がある。数日前から、時々。
けれど、周りを見回しても誰もいない。いるわけがない。
そもそも、一人暮らしを始めてそれなりになる。
だから、家の中で視線を感じるというのはおかしな話だ。わたし一人しかいないのだから。

とはいえ、今時は物騒だ。
例えば、嫌な想像だけれど盗撮のカメラが仕掛けられている……そんな想定で、掃除がてら辺りを確認してみる。けれど、それらしいものは見当たらない。
広くもない部屋の捜索は、あっという間に終わってしまった。

(やっぱり、気のせいかな)

そう片付けることにした。
元々、そう鋭い方でもない。だからきっと、たまたまそんな気がしただけなのだと思う。


物騒、といえば。
最近この辺りで噂になっている話を思い出す。
後ろから、何か引きずるような音が聞こえてくるという噂。そして、その何かに遭遇した、という人もいると聞く。
これが、後をつけてくる足音なら理解できる。けれど引きずる音、というと微妙に現実味がなくなってくる。這って歩くお化けが出てくるホラー映画じゃあるまいし。
そんなんだったので、噂に対するわたしの感想は(ふーん)だった。それ以上でもそれ以下でもない。
よくある、若い年代の悪ふざけの話が広まっただけだろう。

一日の終わり、いろいろなことが思い浮かんでは消えていく。
灯りを消した空間は、夜の静けさに満ちていた。
目を閉じようとする瞬間、こちらを覗き込む誰かの姿が薄暗闇の中に浮かんでみえた気がする。
不思議と、怖いとも思わない。
見られているというより、見守られているような気がする。
それに、どこか懐かしいような感覚。けれど、眠気でふわふわと覚束ない自分には、それが何なのか上手く認識できない。
そのままわたしは、静かに意識を閉ざした。



一日、また一日と過ぎていった。
ふと、気が付いたことがある。
外出から帰ってきて一息つく頃に、(彼は元気にしているかなあ)と考えている自分がいる。
しばらくはぼーっとそう思い巡らせるだけなのに、次の瞬間思う。彼って誰?
頭の中を巡ってみても、彼というのが誰なのか分からない。
最初はこれも気のせいかと思った。けれど何度も、そしてほぼ毎日になってくると流石に変だと気付く。
わたしは、誰かのことを無意識に考えている。なのに、それが誰なのか思い出せない。

記憶が、抜け落ちている?

記憶喪失? 一瞬思うけれど、そんな大層なことが、自分の身に起こるだろうか。
何か事故に遭ったわけでもないし、頭を打ったのでもない。
現に、今こうしていつも通りの生活を送ることができている。それなのに、そんなことが起こるだろうか。

違和感は、日に日に増していく一方だ。
それが、ひどく自分の中で引っかかる。思い出したいのに思い出せない感覚は、心をざわつかせるのに十分だった。
何かを忘れている。とても大事なことを。でも、それが何なのか分からない。
記憶をどうにか引き出そうとしても駄目だった。重くて冷たい大きな扉を前に、とにかく押して押して押しまくるけれど扉はびくともしない……そんな感じ。

そもそも、本当に自分が何かを忘れているのかどうかも明確ではない。
ただ、漠然とした喪失感だけがうっすらとあった。
わたしはその輪郭をなぞることすらできず、自分がどうすればいいのかも分からないまま、時間だけが過ぎていく。



連休に入った。
祝日と休日が続くので、しばらくは外出しなくてもいい。
本当なら気持ちの上でもゆったりできるはずだったのに、朝目覚めてみればどうも体調がよろしくない。
熱を測ってみると、久しぶりに見る高熱だった。
ここ数年、風邪一つひいていなかったのに。
思うけれど、ここ何日か立て込んでいたから疲れが出たのかもしれない。
喉の痛みや鼻水が出るといった症状もなく、ただ身体が熱くて、多少ぼんやりする程度だ。今のところ、そこまで辛いわけでもない。

解熱鎮痛薬を水で流し込んで、ベッドで横になる。
目を瞑ってうとうとと微睡む。
次に目を開けた時には、正午を回っていた。
横になりながら改めて熱を測ってみれば、いくらかは下がっていたもののまだ微熱だ。
昼の分の薬を飲もうとして、わたしは(あれっ)と思った。

朝、薬を服用した時のコップの水。
空っぽにしたはずのそれが、なみなみと注がれている。
間違いはない。今朝、確かに最後まで飲み干したはず。それなのに、どうして?

本当なら、もっと不思議がるべきことだったのかもしれない。
あるいは、恐怖を覚えるべきだった? 知らない誰かが、勝手に水を足していたのかもしれないのだから。
けれど、その時のわたしはそうではなかった。自分でも知らないうちに、こう口にしていた。

「(ありがとう)」

言ってから、
「え、何語……?」
と自分で突っ込む。この言葉は何? 何処の言葉? どうして今、ありがとうって言ったの?
……何一つ分からないけれど、何故かこう思った。きっと彼が水を注いでくれたんだ、だから、自然とありがとうが出た。
彼はきっと、近くにいる。彼が誰なのか、まだ思い出せないけれど。

そう思うと、急に胸が苦しくなった。
思い出したい。思い出せない。
どうして思い出せないのか、分からない。分からない、分からない。
頭の中が、混乱する。
両手で目蓋を覆う。あなたは誰なんだろう、どうして思い出せないんだろう。……どうにもできないこの気持ちを、わたしは一体どうすればいいんだろう?

しばらくそのままでいると、誰かがそっと頭を撫でてくれているような気がした。
目を開ける。
誰も居ない。そのはずだった。
けれど手を伸ばす。
微かに低い温度に触れたような気がした。



思い出したい。
そう願いながら再びついた眠りの中で、夢をみた。
暗い道が続く何処かを、わたしは彼と歩いている。
怖くはない。ところどころに灯りがあって、行く先を照らしてくれる。
彼を見る。
這って移動をする彼は、長い黒髪で目元が隠れている。口元はいつものように、口の端が笑みを形作っている。
怖くはない。それが彼なのだから。最初の頃は相当警戒したけれど、彼がとてもやさしいことを今は知っている。

辿り着いた先には、エレベーターがある。
知っている。
ここで、わたし達が別れたことを。
だって、わたしは人間で、彼はそうではなかったから。
住む世界が違う彼を、無理やりに連れ出すことはできなかったから。

本当は、一緒にいたかった。
でも、それはわたしのわがままだ。
だから、わたしは一人で帰ってきた。彼の気持ちも考えないまま。



微睡みから覚めると、ベッドに腕と顔を乗せて突っ伏している彼がいる。
はっきりとそれを認識して、わたしは自分の頬をつねってみた。普通に痛い。夢じゃない。
ちょいちょい、とその腕を軽く突っつくと、ちゃんとひやりとした温度の肌に触れることもできる。
ビクッと顔を上げた彼の表情は驚きに満ちていて、そして相変わらず目元は見えないけれど、しっかり目と目が合った気がした。

「這いばいさん」

言ってから、彼をそう呼んでいたことに思い至る。
本当の名前も分からないから、勝手に名付けただけだけれども。
少し考えてから、彼らの使う言語で言った。

「(来てくれたんですか?)」
「(…………僕が、見えるの?)」

ああ、そう、彼はこんな声だった。
そう思いながら肯くと、彼はガバッと飛びついてくる。
そのまま押されて寝床に再び横になる形になったけど、構わなかった。
思い出が、ひとつひとつ自分の中にゆっくりと浮かび上がってくる。
ずっと頑なに閉じられ続けていた記憶の扉。どんなに押してもびくともしなかったそれが、そっと手を預けただけでゆっくりと開いていく。

思い出した。あの世界のことを。
こちらに戻ってきた時には、何故かそのほとんどを覚えていなかったけれど。
それでも、自分の奥底にはちゃんとあった。
……良かった。
ぽつりと、そう呟いた。



ゆっくりと彼の話を聞く。
わたしに会いたくて、後を追ってここまで来たのだという。
けれど、わたしは彼の姿を捉えることができなかった。どういう理由か、今まで見えていなかったのだ。
彼はそれが悲しかったという。

「(僕が嫌いになってしまったのかと思った)」
「(そんなことないです)」
「(うん。……だんだんと、僕が見えないんだって分かってきて。でも、どうすることもできなかった)」
「…………」
「(……本当は、たくさん君と話したかった。でも、君には僕が見えなくて……)」
「…………」
「(辛かったけど、君にまた会えて嬉しかった。君と一緒だと、僕は嬉しい。だから……)」

だから、彼はそっと見守っていてくれたんだ。
思うけれど、もし自分が何も思い出せないままだったら。そう思うと胸が冷たくなる。
彼をずっと忘れたままの未来だって、あったかもしれない。考えるととても怖かった。

「(でも急に、僕が見えるようになったんだね)」
「(……忘れてたんです。あの世界であったこと。でも、思い出したら)」
「(見えるようになった?)」
「(はい)」
「(不思議だね)」
「(不思議ですよね)」

お互いに言って、小さく笑う。
どういう理屈かは分からないけれど、記憶のふたが開いた途端に這いばいさんの姿が見えるようになった。
……それなら、この先も絶対に忘れないでいようと思う。

いや、そもそも元から忘れたいなんて思っていなかった。
一体どこの誰なんだろう、勝手に人の思い出を見えないところへ押しやったのは。一発くらい殴ってやらないと気が済まない。
思うけれども、目の前で今も涙を流しながら嬉しそうに笑う彼を見ていると、(まあ、許そうか)という気持ちにもなる。
結果的には、わたしと彼はちゃんと再会を果たしたのだから。

そう、やっぱり気のせいなんかじゃなかった。
少し前から感じていた、微かな気配。それというのは彼だったのだ。
わたしが姿を捉えられなくても、それでも傍にいてくれた。……えーと、ということは、

「えっ、えーと、ということは」
「?」
「その……(わたしが体操してる時なんかも見てたんですか?)」
「(? うん、見ていたよ。気付いてくれるかと思って、僕も真似してたんだけど)」
「してたの!!?」

思わず日本語で、そして素の言葉遣いで言ってしまうくらいにはギャッとなった。
毎日のルーティンでやってる体操をしてるところを見られていたどころか真似されてたなんて!!
いや、まあ待て、落ち着こう。それはまだいい、他にもっと見られたくないものがある。例えばその……

「(……着替えているところとか……)」
「(見てないよ)」
「(……本当に?)」
「(うん。だって、以前君が言ってたから。恥ずかしいから見ないでって)」
「あ……」

そうだ、あの世界で水の中に落ちた時。
水没してしまって、全身びしょ濡れになってしまったことがあった。
幸いドレスの女性が服を恵んでくれたっけ。その着替えの時に「(見ないでくださいね)」と伝えたことがあった。恥ずかしいからと。
それを、彼は覚えていてくれたのだ。

「(……ありがとう)」

伝えれば、彼は独特の奇声で笑った。
すぐに、何かに気付いたように口角が下がる。
言った。

「(君、具合悪そうだったけれど。今はどう?)」
「(ちょっと待ってくださいね)」

改めて熱を測ってみる。
ほぼ平熱に下がっていた。感覚的にも悪くない。治ったみたいと言えば、良かったと彼も安堵してくれる。
とはいえ、休みの間はのんびり過ごそうと思う。
彼と、ゆっくり話をしよう。今までのことや、これからのことを。大丈夫、時間はたくさんあるのだから。
わたしはそう思って彼を見る。決して輪郭のぼやけた影なんかじゃない、確かな存在がすぐ傍に在った。





こちらの世界で君を見つけた時、とても嬉しかった。
人間の世界は、僕が元いた場所よりもずっと広大で。
見つけた、と思った時には、君は駆け出していたね。呼びかけても、君は振り返らなかった。
どうしてって思ったんだ。僕が呼べば、君はちゃんとこちらを見てくれる。それなのに、どうして。
僕のことが嫌いになってしまったのかと思うと、とても怖かった。

けれど、何か理由があるんだって思ったんだ。
時間は掛かったけど、君を再び見つけることができた。
……けれど、僕の声は、君には届いていなかった。君の目には、僕が映っていなかった。
どうして?
思ったけれど、理由は分からなかった。
きっと、人間の世界と向こうとでは、決まりが違うんだろうね。

君に触れることができなくて、辛かった。
君と話すことができなくて、辛かった。
でも、君がいない向こうの世界に戻ることも、僕にとっては辛かった。

僕が見えないのだとしても、それでも、君の近くにいたい。
ずっとずっと僕が見えなくてもいい。そう思っていたんだ。
でも、君は僕と過ごした時間のことを思い出してくれた。

君が、僕を呼んでくれる。
君が、僕の頭を撫でてくれる。
君が、その目に僕を映してくれる。
良かった、やっぱり君は君のままだった。
そう思うと涙が溢れて止まらなくなるんだ。

僕が大好きになった君と、ずっと一緒にいたい。
たくさんたくさん、話がしたいんだ。……でも今日は、君の体が治ったばかりだもんね。
続きは、また明日にしようか。
そう話して、部屋を暗くする。ベッドで眠る君の隣で、僕も横になる。
繋いでくれた手が温かくて、嬉しくて、またひとつ、涙がこぼれた。






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