僕がこちらの世界に来て、どのくらい経ったんだろう。
……一年?
そうなんだ。人間の時間の数え方だと、そうなんだね。
それが長いのか短いのか、僕にはまだよく分からないんだ。
時間というものを、向こうにいた頃は全然気にしていなかったから。
君はどうかな。……そう、君にとってはそうなんだね。
君と会った時のこと、今でもはっきり覚えているよ。
不安そうにしていたから、(大丈夫かな)って思って。
何をしたいのか分からなくて、ひとまず見守ろうとして後を追ったこと。
君が少しずつ言葉を覚えて、向こうの世界を出る方法を探していることを知って。
そうして、だったらその手助けをしようと思った。
僕は、人間が元々好きだった。
確かにそれは本当だよ。
でも、人間の世界にこうして来ることになるなんて、最初の頃は考えもしなかった。
それなのに、こうして今も僕はここに居る。不思議だね。
……戻りたい? そんなこと、思ったこともないよ。きっとこれからも、思うことはないんじゃないかな。
君は、見たこともない世界をたくさん見せてくれる。
僕は、明るいのが少し苦手で。
普段は君がいる部屋から出ることをしない。
けれど時々、暗くなってから外を一緒に歩いてくれる。
いつも、それがとても楽しみなんだ。
初めて星を見た時のことを、覚えているよ。
他の人間がほとんど来ない場所で上を見上げれば、点々と光る白いものがあった。
「星だよ」と君が教えてくれたそれは、僕が頑張って立ち上がって手を伸ばしても、とてもとても届かない程遠く高くにあって。
そして、手を伸ばした僕を見て、君は笑って言ったね。「さすがに取れないよ」って。
もし取ることができたら、君への贈り物にしたかったんだけど。
「残念」って伝えたけれど、君はこう言ってくれた。
「一緒に見れたら、それでいいよ」って。
だから僕は、これからも君と一緒にたくさんの星を見たいんだ。
君は明るい時間の間、あの部屋にはいないことが多い。
人間には、人間のやることがあるんだよね。それは、なんとなく知ってるよ。
僕はその間、君が持ってきてくれた道具を使って勉強することにした。
向こうにいた頃は、君が僕たちの言葉を覚えてくれた。
今度は、僕の番だ。君ともっと話したいから、人間の言葉を少しずつでも覚えたい。
あの機械は、テレビ、だったね。紙がたくさん集まったのは、本。
テレビを見ながら、話す練習をした。本で、文字を読むのと書くのを練習した。
少しずつだけど、僕も君の言葉を覚えてきて。
君が「ただいま」って言った時に「おかえり」って言ってみたら、すごく喜んでくれたっけ。
あの時は、僕も嬉しかった。言葉が通じるって、こんなに楽しいことなんだね。
向こうにいた頃の君も、こんな気持ちだったのかな。
僕は今まで、頭を撫でることくらいしか喜んでもらう術を知らなかった。
昔、僕は誰かに頭を撫でてもらったことがある。
たった一度のことだったけど、その手の仕草は優しくて、嬉しかった。
だから、僕もそうするんだ。初めて君にそうした時、まだ君は笑うことはなかったけれど。
今は笑ってくれるから、たくさんしたくなる。
でも、それ以外にも君は、相手を喜ばせる方法を知っていたね。
たくさんの「好き」を伝える人間のやり方。
口と口をくっつけるのは最初、何だか不思議な感じだった。
でも今は気に入ってるんだ。本当だよ。
僕の低い体温と君のあたたかい体温が溶けて混ざって、とても幸せな気持ちになるから。
だから、ずっと一緒にいたいんだ。
君は時々、思い出したみたいに「向こうに戻りたくないか」って聞くけれど。
それでも、何度でも言うよ、君と一緒にいたいんだって。
僕は人間じゃないけれど、君が構わないなら僕だって気にしない。
君といたい。君ともっといろんな世界が見たい。
僕はそう願っているんだ。
あの世界から戻ってきて、一年が経った。
這いばいさんは、わたしの部屋で一日のほとんどを過ごしている。
帰りが遅くなっても待っていてくれる。そうして、わたしを迎えてくれる。
最初は、いろんなことを教える必要があった。
けれど、飲み込みの早い彼は覚えも早かった。
今ではこちらの言葉も覚えて、ある程度はふつうに会話をすることもできる。
向こうにいた頃は敬語で話していたわたしも、言葉を覚えることを優先するためにある程度くだけた口調に落ち着いた。
彼との生活は、楽しかった。
いわゆる「ふつうの人」とは違った日々の過ごし方や工夫が必要だったけれど、そんなことは苦ではない。
彼は優しく、穏やかで、わたしの心をあたたかくしてくれる。
けれど同時に、不安で仕方ない時もある。
ある時、ひどく疲れ切って家に戻ってきたことがあった。
食事も程々に、休む準備をしようとしたところでふと「ただいま」を言っていないことに気がついた。
ハッとした。
その時まで、彼の姿が目に視えていなかったから。
その事に気付いてギクリとする。這いばいさんがいない? ……そんなはずはない、彼が黙ってここを出ていくはずがない。
そう思って辺りに目を凝らすと、ぼんやりと長い黒髪のその姿が視界に浮かび上がってきた。
安堵したものの、聞けば、ずっと話しかけていたのにわたしは気付いていなかったという。
ゾッとした。
無視していたわけではないけれど、結果的には同じことだ。
ごめんねと伝えると、怒るどころかこちらを心配してくる始末だった。疲れているみたいだから、早く休もうと。
彼の存在は、曖昧だ。
わたしが疲れていたり、意識が別の方に行くと、途端に視えなくなることがある。
「その時はごめんね」と伝えてはあるけれど、心の中に澱のようなモヤモヤが残ってしまう。
人間と、人間でない存在。
わたしはそれでもいいと思っていたし、彼もそう思っているようだった。
けれど、わたしは時々訊ねるようにしていた。向こうに戻りたくないかと。
今のところ、這いばいさんにそのつもりはない様子だった。
けれど、ずっとそうとは限らない。
なんとなく、わたしの方が先に命を終えるのだと思う。
彼は人間とは別の存在だから、死の在り方も違うような気がした。
或いは……何かの理由で、彼の方がわたしの前から姿を消すこともあるかもしれない。
そんな「いつか」が来るのが怖くて、本当にこちらに一緒に連れてきていいのかとても悩んだ。
けれど、人と人同士だって別れはある。
わたし達は形が少し違うだけだから、それを理由に一緒に生きることを諦めてしまうのはひどく惜しかった。
もしわたしが先にいなくなってしまった時は、貴方はどうするんだろう。
向こうにもちろん戻ったっていいと思う。
その辺をどう考えているのか聞いてみたい。こちらの言葉がもっと上達したら、そうしたら……。
手に、彼の手が触れた。大きな手が、そっとこちらを包み込んでくれる。
もう片方の這いばいさんの手、その指先がずっと遠くの夜空を指す。
「星! たくさん!!」
そう言う彼の言葉はとても嬉しそうで、やっぱり一緒にいるとわたしも嬉しい。
こちらの言葉も、簡単なものはすっかり覚えてしまった。
彼と話したいことが、まだたくさんある。
ただ、……今は傍にいてくれたらそれでいい。
わたしはそう思いながら、繋いだ手を握り返した。
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