窮地に立たされていた。
見知らぬ場所は、人ではないものと思しき気配が点在している。
出会った何人かの中には、言葉を教えてくれた存在もいる。皆が皆、こちらに危害を加えようとしてくるわけではない。
ただ、残念なことにそういう者もいるのは事実だった。

一度、言葉に耳を傾けようとして、隙間から顔を覗かせる男の人に近付きすぎて酷い目にあった。
……ような気がする、たぶん。
たぶんというのは、記憶通りなら、今こうして無事でいるわけがないからだ。
何処となく曖昧な、何とも言えない記憶の断片がわたしの中にあった。白昼夢でも見たのかもしれない。
この辺りは、自分でも上手く理解できていなかったけれど。まあ、とにかく。

とにかく、安全とは切り離された場所にいる。
だから、警戒しなくてはならなかった。身を守らなくてはならなかった。
今近付いてくる誰かが敵意を持っているのか、そうでないのか、まだ分からない。
いざとなれば、戦うしかない。だとすれば――。

咄嗟に、武器になりそうなものを手に取ってしまった。
素手では、あまりに心許ない。そう思って掴んだバールは、持ってみると拍子抜けするほどに軽かった。けれど、他にそれらしいものも無い。
できれば、使いたくない。……微かにそう思ったものの、正常な判断を下せる自信はあの時の自分にはなかった。
怖かったし、恐ろしかった。



振り返る。
長い黒髪の彼は、今もわたしの後をついてきている。
這って移動しているところを見るに、脚が良くないのかもしれない。
それでも梯子を使って、こうして上の階へと上がっても難なくついて来る。
全く立てないとか、歩けないだとか、そういうわけでもないのだろうか。……まだよく、分からない。

彼は、何なのだろう。
わたしは立ち尽くしたまま、少しの間考え込んでしまう。
あの時、隠れていたわたしは彼が敵意を持っているのかそうでないのかを判断する前に、反射的に殴打してしまった。しかもバールで、両手持ちで。
普通の人間相手なら、それなりのケガを負っているはずだ。
けれど、彼は鼻血さえ流してはいたけれど、特に痛がるふうでもない。
そっと身を退いたので行ってしまったのかと思えば、部屋の隅にうずくまっていてギョッとした。

(どうしよう)

正直、そう思った。
何故って、袋小路のあの空間を抜け出すには、彼の側を通らなくてはならなかったから。
逆上されて、脚を掴まれるようなこともあるかもしれない。

一瞬そんな可能性を思い巡らせる。
けれど、悪意があるなら向こうは身を退く必要もなかったはずだ。わたしはその場で、反撃に遭っていてもおかしくなかった。
彼が距離を取ってくれたので、ほんの幾らかは落ち着くことができて、そう考えられた。
それなのに、振り返った彼の微笑みがどうしても怖いものにしか見えなくて、恐怖で凍りついてしまった。
その間にも向こうは何事かを口走っていたけれど、まるで頭に入ってこなかった。
……あの時は、何て言っていたんだろう?

それに、そう。
つい先程のことを思い返す。
慌てた様子で彼はわたしに何事かを捲し立てて、気付けばその身でこちらを覆い隠すようにして何者かから守ってくれた。
その肩越しに見えた、鮮烈な赤。
異様な気配だった。絶対に見つかってはいけない。直感的にそう思って、身を固くする。
時間的にはほんの数秒だったと思う。……黒髪の彼は、やがて安心させてくれるかのようにそっと何かを囁いた。守ってくれたんだろうか。
だとしたらやっぱり、彼に悪意はないのだろう。少なくとも、今のところは。

わたしがジッとしているので、這った姿勢のままの彼は何かを言った。
「どうしたの?」だろうか。
既に鼻血は止まっていたし、その血も自分で拭ったようだった。顔にうっすらと、血の跡が残っている。

殴ってしまった直後、部屋の隅にうずくまっていた彼。
何も言わずにその横を駆け抜けることだって、できたかもしれない。
それでもその背に声を掛けてしまったのは、半分は、確かに彼の身を心配してのこと、そして残り半分は、単に罪悪感からだった。
悪意のない存在かどうかも分からないまま、わたしは恐怖と驚きで手を下してしまった。攻撃してしまった。

あの時わたしは、「大丈夫ですか」と訊ねただけだった。
言うべきことを、その続きを、まだ言っていない。
わたしは、彼と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
「あの……」と目の前の彼に呼びかける。ふと、言葉が通じないことが頭を掠めた。
片手に持っていたバールを示して、小さく、本当に小さく振る仕草をみせる。彼は黙って、こちらを見ていた。
わたしはバールを脇に置き、そのまま両手を合わせて目を閉じる。言った。

「さっきは殴ってしまって……ごめんなさい。それと……守って、くれたんですよね」

ありがとうございました。
そう続けて、頭を下げる。
わたしは今になるまで、彼に謝罪もお礼も伝えていなかった。きっと、後になればなるほど言い出しにくくなる。
身振りや仕草は、ある程度わたしの認識と同じみたいだった。たとえ言葉が通じなくとも、少しでも伝わる部分があれば――。

思っていると、そっと頭に何かが触れた。
目を開ければ、彼のその手が頭に置かれている。事態を理解するのに数秒を要した。どうやら、撫でられているのらしい。
そう把握したのと同時に、独特の奇怪な笑い声が上がって(ひえっ)となる。怖い。
怖いけれど、さっきまでよりは怖くもない。

そう思ううちにも、向こうはまた何かの言葉を口にする。少しは、聞き取れた。
合っているかは判断できないけれど、たぶん「いい子」、だろうか。
そうならきっと、言いたいことは伝わっている。

彼が口にしている言葉は、どんなものだろう。
まだ、理解できる部分は少ない。
こちらを惑わす甘言という可能性もある。……どんな可能性だって、きっとあり得る。
言葉の向こうのその先にあるのが何なのか、知りたいと思う。
それが分かれば、この漠然とした恐怖もきっとなくなる。そんな気がした。
「じゃあ」、とわたしは立ち上がった。

「言いたかったことも、言えましたし。……出口探すの、再開しましょうか」

言って、歩を進める。
当たり前のように、這ってついてくる音があった。





僕は、君を怖がらせてしまったみたいだね。
人間の君を見掛けた時、珍しいな、迷子かなと思って声を掛けたんだ。
……すぐに君はいなくなってしまったね。怖くないよ、大丈夫だよって笑ってみせていたつもりだったけれど。

何処に行ってしまったんだろう。
そう思って、辺りを見て回ったんだ。そうして、あの部屋の隅で君を見つけた。
怖がっているところに僕が現れたものだから、驚いても仕方がないよね。……あの時は、ごめん。吃驚させるつもりは、なかったんだけれど。

僕は痛いとか、苦しいとか、そういうことはほとんど感じないんだ。
それでも君は、あの後心配そうに声を掛けてくれた。
……いい子だね。怖かっただけで、本当はあんなことしたくなかったんだよね。
「彼」が現れた時も、君は僕の言葉に耳を傾けてくれた。静かに隠れていてくれたね。

君は、家に帰りたいんだろうね。
僕も、早くそうした方がいいと思う。だって、人間があんまり長くここに居るのは良くないから。
ただ、人間が一人でこの場所を歩くのは危ないし、難しいんだ。
だから……君がいいなら、しばらく、後ろから見守っていてもいいかな。いいのだったら、最後、君を見送るその時まで。
ちゃんとこの場所から出られるまでを、見届けたいんだ。

君の言葉は、少しは解って聞いているつもりだよ。
さすがに全部はまだ解らないけれど、それでも、君は君なりに伝えようとしてくれたね。
だから、僕も僕なりに伝えようと思っているんだ。
きっとそう長くは、一緒に居られない。
それでも、少しでも君の手助けができたら嬉しい。僕はそう思っているんだ。






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