「ボロミアさん、中つ国には大豆はないんでしょうか」
唐突に彼女は言った。
私は戸惑った。聞き慣れない単語だ。
何と言ったか、 『 だいず 』 というふうに聞こえたが。私は反芻し、聞き返した。
「……だいず?」
「そうです。大豆。……あ、小豆でもいいですよ。小豆があれば和菓子も出来ますし」
向こうはそう続けたが、意味がよく判らない。
私には言っていることの中身が上手く理解できなかった。 『 だいず 』 に 『 あずき 』 、それに 『 わがし 』 ?
一体何のことを話しているのだろうか、は。
「……それは一体、何なのだ」
「はい、えーと、大豆と小豆は 『 豆 』 の種類のことなんですけど」
「豆?」
「そうです。豆です。此方ではビーンズですか」
はそんなふうに辛抱強く繰り返す。
豆ならばそれなりにこの地にも存在するが、彼女が口にする名のものは聞いたことがない。
「その……だいず、という物でなくてはいけないのか」
「できればそれが望ましいんですが」
「ふむ。申し訳ないが、そういった名の豆は聞いたことがないな」
「そうですか……残念です。あれば、もっと色々作れると思ったのに」
そう言いながら彼女は目の前のテーブル、その上に被せられていたクロスをばさりと取り払う。
クロスの下から、器に盛り付けられた何品かの料理が現れた。
「──わしょく?」
「はい、日本料理のことです。……こちらの、ゴンドールの食べ物も勿論美味しいんですけど、時々無性に向こうの料理が恋しくなるんですよね」
あの、どうぞ座ってください。
はそう言うので、ひとまず私は椅子に腰を下ろした。
それを見納めてから彼女も向こう側の椅子に座って、言葉を続ける。
「わたしの中の日本人としてのDNAが、日本食を欲してやまないみたいなんですよね」
「……でぃ、でぃいえぬえー……?」
「あ、デオキシリボ核酸の略称です。ボロミアさん、そこは今回の焦点じゃないので流してください」
彼女は時折、不可解なことを言う。
とにもかくにも、席に着いた私はそんな話のあれこれを聞いた。
どうもは、以前からその 『 わしょく 』 なる料理をどうにかミナスティリスで作れないかと思案していたらしい。
なら、もっと前に作っていれば良かったのではないか。
私がそう訊ねると、向こうは 「そうなんですけど」 と言って、小さく苦笑いした。
それから、その訳とも言える内容を話し始める。
彼女の言うところによれば、どうも、使う食材自体がゴンドールとニホンでは大きく異なっているのだという。
そのためになかなか実践に踏み切れずにいたが、此処にある素材で作れそうなものがあることに思い至った。
故に今回思い切って、幾つか試しに拵えてみたらしい。
今この場に並べられたものは、その中でも良くできたと思われるもの、ということだ。
なるほどと思う。そういうことだったか、と。
の場合、こうして長く自分の国を離れていれば、故郷の味が恋しくなるものだろう。
私はふと、改めて目の前の娘を見た。遠い異国から来たという彼女を。
こうして何でもないようにいつも振舞っているが、実際のところはどうだろうか。そんなことを私は一瞬、考える。
何度か考えてきたことだった。は言葉にこそ出さないが、今の状態をどう感じているのだろうか。
辛くはないか、寂しくはないだろうか、それまで在った生活から突如切り離され、此処で暮らすようになって。
私やファラミアが、少しでも彼女の支えになれていればと思う。
ふわりと、椀になみなみと注がれたスープのようなものから香が立ち昇った。
……いい匂いがする。
正直に言って色々と思うところはあるが、しかし、今はこの料理たちだ。
そう思い直し、先程考えていたことはひとまず中断する。
私は目の前の品々に目を落とした。
「……これはオムレツではないのか?」
「えっと、それは出汁巻き卵ですね。……ああ。そうそれ、出汁取るの大変だったんです!」
どう見てもシンプルなオムレツとしか思えないものを指して訊ねると、そんな答えが返ってくる。
如何に 『 だし 』 なるもの(どうやらスープに近いものらしい)を取るのに苦労したかというのを彼女は説いた。
「魚やキノコをまず干すところから始めなければいけなかった」、そうだ。
何日もテラスに魚たちが並べられていたのはこれのためだったのか。私は内心そう呟いた。
そうするうちにも、は目の前の料理について簡単な説明を始める。
左手前の椀は 『 澄まし汁 』 。
その奥の皿は 『 野菜のかきあげのてんぷら 』 、隣が 『 魚の塩焼き 』 。右には先程の 『 出汁巻き卵 』 。
どうやら、これらはそういったものであるらしい。
彼女は「白いごはんがないのがすごく残念です」と付け加えた。
「主食がないのでちょっとバランス悪いかもしれないんですけど……。あの、もし良かったら、ボロミアさんの感想をお聞きしたいんですが……食べて、もらえますか?」
向こうは「もしその気がないなら食べなくていい」とも言う。
しかしどう見てもこれは、私のために用意されたものだ。
彼女の国で食事の際使うという「はし」ではなく、ナイフとフォークとスプーンが出されているのも私への配慮だろう。
「……拒絶する理由などない、喜んで頂こう」
私はそう告げ、まずスプーンを取った。が作ったものだ、残したくはない。
しかし 『 わしょく 』 なるものは、私にとって初めて体験するものだ。一体どのようなものであろうか。
好奇心もあったが、漠然とした一抹の不安があることも否定できない。
彼女は決してこちらを凝視するわけでもなく、あらぬ方向を見たままで私が食事を始めるのを待っている。
ジッと見られていると私が食べにくいだろうと気遣っているのが判った。
意を決し、まず澄まし汁なるものをスプーンに掬った。
ほとんど色は無いのに近い。味は付いているのだろうか。
その一掬いしたものを少しの間見つめた後、音も立てずに口の中へ入れてみた。
ゆるやかに温かさと、何処か澄んだ味が広がる。
とてもシンプルなスープだな、と思った。椀を改めて覗くと、具は河で取れる類の貝のみである。
他の品はどうだろうかと皿に手を伸ばしてみる。
出汁巻き卵なるものはほんのりと甘く、そして先程の澄まし汁というものに何処か通じる風味が鼻へ抜けた。
それから順に、ゆっくりと魚、てんぷらとフォークを向ける。
最初は恐る恐るではあったが何のことはない、口にしてみると普段我々が食べているものと同じように、ちゃんとした料理である。
「……どうでしょう」
「不思議な味がする」
しばらくしてからが訊ねてくるのに対し、私はそう答えた。
いい意味でそう言ったつもりだったが、私の返事を聞いた途端、彼女は声も立てずに笑った。
「そう仰るだろうなと思ってました」
「いや、その。変な意味ではないぞ」
「口に合わなかったら無理しないでください、残して大丈夫ですから」
「いや、違うんだ」
私はを遮った。誤解して欲しくない。
実際、不思議な感じだった。正直言って、出されたものは簡素と言ってもいいくらいのものである。
全体的に味付けは少しばかり薄く、振りかけるものもせいぜい塩くらいのもので、ごくごくあっさりとしたものばかりだ。
それなのに、何処か自分が満たされていくのが判る。何故だろうか。
「……どうしてなのかは判らないのだが、不思議と安心する味だ」
「お世辞でも嬉しいですよ、ボロミアさん」
「世辞などではない」
私はとにかくそう告げた。
上手く気持ちを言い表せればよいのだが、そう言葉でものを伝えるのが得意というわけではない。ひどく歯痒かった。
しかしせめて、単純な台詞であっても伝わればと思う。言った。
「今まで口にした事がないはずなのだが、──ひどく、懐かしいような気がする」
美味しい、と私が言うと、彼女は少しばかりきょとんとしたような感じで目を大きくした。
本当ですか。
そう念入りに訊ねてくるから、私もああ、と返事をする。
今まではテーブルの上に腕を立てて、両手を組ませたその上に顎をのせていた。
それを解き、手の平と手の平を合わせるとやわらかく、小さく、けれどほんのりと笑った。
「……嬉しいです」
彼女が独り言のように小声でそうぽつりと口にするのを目の当たりにした瞬間、急に胸の内側に何かが生じた。
何だ、今のは。
私は表に出さないように努めたが、内心自分の中に湧き上がった感覚に戸惑った。
何なのだろうか、まるで心臓を素手で掴まれたかのような……嫌な感じではなかったのだが。
心の中で頭を捻っている間にも、しかし彼女は私の動揺を知らないまま、また独り言のような言葉を続けていた。
「 『 中つ国で和食を作ろう★大作戦 』 に拍手やメールで意見を聞かせてくださった皆さんには、改めて御礼を言わないといけないなあ」
「……、なんの話だ、それは」
「ああ、いえ、こっちの話です。お気になさらず。──ああ、でもやっぱり、味噌か醤油があればなあ」
ふぅ、と息をつきながらそんなことを言う。
私は首を傾げた。
「みそかしょーゆ……?」
「ええ、味噌と醤油。この二つがあれば和食も大体のものはできるんですけど……やっぱり原料の大豆がないと無理かあ」
うーん、と は唸った。みそとしょーゆ。原料。だいず。この二つがあれば、大体のものが。
……そうか。心の中で呟いた。
そうか、「中つ国に 『 だいず 』 がないのか」と訊いてきたのはそれのためだったのか。
もしその 『 だいず 』 とやらがあれば、いろいろとニホンの料理を作るのに役立つのであろう、私はようやく理解した。
……ならば、
「ならば、その 『 だいず 』 があればいいのだな?」
「まあ……そうですね。味噌と醤油に豆腐と豆乳……湯葉もできるかなあ。あときな粉とか、たぶん色々使い道はあるかと」
最後の方で、
「でも正直、原料からの作り方っていうのがよく判らない……」
という小さな呟きがあったのは、私には届かなかった。
ただ、彼女がそれを欲している。その事が判っただけで充分だった。
「判った。私に任せてくれ」
「はい? ……え、何をですか?」
「ああ、いや。何でもない。気にしないでくれ」
思いついた事を口にしようとしたが、途中で止める。
向こうは変な顔をして「すっごく気になるんですけど」などと言っていたが。
後で を驚かせるのも悪くないと思ったのだ。
同時に、 『 だいず 』 なる豆を用意できたなら、きっと彼女は喜んでくれるだろうと。
私は食事を終えた後、水面下でその準備を進めることにした。彼女には知られることのないようにこっそりと。
──しかし、時期が悪かった。
後に、学者に調べさせた豆についてのあらゆる資料や、手に入る限りの豆という豆の種子といった届け物が私の部屋を埋め尽くし、ファラミアが盛大な溜息をつきつつ頭を抱えることになる。
それは、私と彼女が裂け谷へと旅立ってから幾日も経ってからのことである。
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