夢の中。
私とはしばし、抱き合っていた。
言葉のひとつも、まだ交わしていない。前に会ってから、何日もの間が空いていた。
夢がもう繋がらないのではないか。そんな不安が募り始めていた矢先だったので、互いに言葉よりも先に身体の方が動いていた。
黒髪の娘のあたたかな体温、その重みを離したくない。帰したくない。
そう思いながらしばらく、そのままでいた。彼女の鼓動が静かに伝わってくる。こちらのものも、届いているだろうか。
生きている。も、そして自分も。そう感じながら、再び夢が繋がったことに感謝していた。
「……じゃあ、復興は順調に進んでいるんですね」
私の話に耳を傾けていたは、心から安堵したようにそう言った。
ミナスティリスも大きな攻撃を受けたが、日に日に街に活気が溢れていくのを感じている。
それを話し伝えながら、ふと思う。
物語を知る彼女なら、自分が話さずともゴンドールの未来をも知っているのではないか。
思ったままを訊ねてみるが、流石に全てを分かっている訳ではないようだった。
「映画に映ってないところとか、原作にも描写がない細かいところとかは知りようがないですもん」
「そうか。……そういうものかもしれないな」
「大きな出来事みたいなことなら、もちろん分かりますけど……」、
そう言って、彼女は微かに悪戯っぽく笑った。
「ボロミアさん、未来のこと知りたいですか?」
問われて、少し考える。
なるほど言われてみれば、はこの中つ国のこれからをあらかたは知っていて、聞こうと思えば、そうすることもできるだろう。
ゴンドールに王は還ってきた。その未来がどのようなものか、彼女の口から聞くことで得られる安堵もあるに違いない。
ただ、そうする必要もないと思う自分もいる。
もし未来が暗いものなら、そもそもが今のような表情をしている筈もない。
何より、今の自分こそが新しい時代の始まりに光を見出している。
故に、ゴンドールや中つ国のこれからを聞かずとも良いのだ。
(寧ろ)、と思う。
彼女にはできることなら、これから流れていく時間を近くで見ていてほしい。自分たちの生きる時間を、共に分かち合えたなら。
……そう、切に思う。
「いや。……簡単に未来が分かってしまうというのもな」
「ですよね」
ふふふ、とは笑って続ける。
「それにそもそも論ですけど、物語全体はともかく……ボロミアさんのことになったらもう、わたしにも分かりませんからね」
「……うん?」
「だってほら。……変えちゃいましたからね」
色々と。
そう言うに「そうだな」、と小さく笑う。
「だから、ボロミアさん」、向こうは言った。
「これからたくさん……いろんなものを見て、いろんな人と会って、いろんなことをして、たくさん幸せになってくださいね」
「…………」
「ずっと思ってましたから。ボロミアさんに生きていてほしいし、幸せになってほしいって」
「…………」
言葉に詰まる。
それは、彼女の本心だと分かっている。
ただ、がいなければ駄目なのだと思ってしまう自分がいるのも確かだった。
そうしてつくづく、呆れてしまう。……つい先程、こうして夢が繋がったことに感謝していた筈だった。
それなのに、今はこうして更に多くを望んでしまう。
思うが、どうにもならない。
がこちらへ渡れるようになるまで、いつまででも待とうと心に決めた。彼女も、そうなる日が来るのを待っている。
喜びも悲しみも、短い時間ながらとうに多くを分け合ってきた。だからこれからも、ゆっくりそんな時間を互いに重ねていきたい。
喜びは、といれば何倍にもなるだろう。涙を流すような悲しみも、彼女がいてくれるなら乗り越えられると、そう信じられる。最も、を喪った時のようなあの辛さはもう味わいたくないのが本心だが――。
…………涙。
「がいなければ……何の意味もないと思ったこともあった」
「いますから! ここに!! 大丈夫です!!!」
「そうだな」
息巻くように言う娘の髪をそっと撫でる。
「何があっても……涙を流すようなことがあっても、がいてくれれば乗り越えられるだろうと思う」
「楽しいことの方が多いと思いますけど……そういう時も一緒にいますから! あ、いられるようにまずはそちらに行かなきゃですけど……」
「」
娘の目を覗き込む。
向こうは一瞬口を噤み、次に背を正した。こちらの次の言葉を待つように見上げてくる。
言った。
「裂け谷でのことを覚えているか」
「えっ? えっと……」
「今、私も思い出したのだが」
「はあ。えっと、いろいろとありましたけど……?」
何だろう、というようには首を傾げる。
彼女は覚えていないだろうか。私は今でも、あの時のことを思うと胸が痛むが。
それというのは、
「おまえはゴンドールの人間ではないと――そう言ったことがあった」
「…………ああ」
ありましたね。
そう向こうは言うが、目線は下に落ちている。
あの時の彼女の涙を、私は覚えている。も、この様子なら忘れてはいまい。
動揺して、泣く理由を深く考えることもできずにいて、そのままだった。
理由も分からずに詫びる以外にどうすることもできなかった、あの日のことを覚えている。
「あの時は……すまなかった」
「…………」
曖昧な表情のまま、彼女は少しの間、黙っていた。
やがて、「いえ」、と口火を切る。
静かには口を開いた。
「わたしも……最初はなんで涙が出ちゃったのか、自分でもいまいち分かってませんでしたから」
「…………」
「あの頃は、指輪物語のこと思い出していませんでしたけど。……たぶん、二重にショックだったんだと思うんです。確かにわたしはゴンドールの人じゃないですけど、……同時に、物語の外側の人間だって、部外者だって言われたような気がして」
あはは、と彼女は乾いた笑いを漏らす。
続けた。
「勝手に二重にショック受けるなんて、世話ないですよね」
「いや……私も、言い方が悪かった。を傷付けてしまった」
彼女の話を聞いて、やはりそうだったか、と合点がいく。
今になって思えば、自分のために世界を飛び越えてやってきたを無下にする言い方だったとしか言いようがない。
すまない、と改めて詫びれば、娘は何でもないように笑った。
「あれは、ボロミアさんなりに考えて敢えて言った言葉だって、ちゃんと理解してますから。……寧ろ、覚えててくれたんですよね」
「…………」
「こうして、謝ってもくれました。……優しくて真っ直ぐなボロミアさん、大好きです」
ふわりと彼女は笑う。
……言って、いいものだろうか。
一瞬思うが、何を今更、という思いの方が勝っていた。
「」
「はい」
「あんな言葉を言っておいて、どの口がと思うかもしれないが……」
「?」
「こちらに渡れるようになったなら、その時は……ゴンドールの人間になってくれるか?」
十を数えるくらいの間、はただこちらを見返すばかりだった。
「それって」、ようやく口が開いて、続きが溢れ出てくる。
「そういう意味と解釈しても大丈夫ですか?」
「勿論だ。と出会うまでは、妻を娶ることなどないと思っていたが――」
「つ、妻…………」
は赤くなりながら、
「確かに追補編で妻も娶らなかった的なことは書かれてましたけど」などと独り言に近いことを呟いている。
自分がどういう書かれ方をされていたとしても、そんなことは一向に構わない。
今の私は、彼女と共に歩みたい。ただ、それだけのことなのだ。
そう伝えれば、赤い顔のままは肯いてくれた。
「嬉しいです。……ボロミアさん」
「うん?」
「幸せになりましょうね。いえ、幸せにします!」
その言い草に、笑ってしまう。
返事の代わりに、口づけをする。
夢から醒めた時、は隣にいるだろうか。……分からない。いつまででも待とうと、そう決めてあった。
だが、不安も常にあった。離れたくない。帰したくない。目覚めた時近くにいなかったなら、次に会えるのはいつか。
夢は気まぐれだ。また何日も会えない時が続くかもしれない。そう思うと、ひどく手離し難かった。
口づけが熱を帯びて、が苦しげにする気配があった。
一瞬口を離せば、娘は横を向いて止めていた呼吸を再開し息を整えようとする。さらけ出された首筋は、差し出されたもののようにさえ見えた。
そこへも口づければ、悲鳴に近い声が上がる。
見れば、自分の声に驚いて口を押さえている黒髪の娘がそこにいた。
まだ知らない彼女が、そこにいる。そう思った。
「ま、待って待って待って、待ってください!! 落ち着きましょう!」
「……そうだな」
真っ赤になっているの黒髪をそっと撫でる。
そうして身を退けば、向こうは言いたいことを頭の中で整理しているかのようだった。
言った。
「えっと、その……。わたしが、そちらへ行けるようになったら、その時は」、
一度そこで区切って、彼女は続けた。
「その時は、本当に……いろんなことをしましょう。皆にも会いたいですし、ボロミアさんとたくさん、いろんなことを経験してみたいです。だから……もうちょっとだけ待っていてくださいね?」
「ああ。……待っている」
肯いて、互いに抱き合う。
できることなら、今すぐにでも。
そう思いながら目を閉じる。
目覚めた時、が傍にいる。その日が来るのが、遠くない未来であればいい。
そう願いながら腕の中の体温を抱き締める。
応じるように、娘も抱き返してくる。
朝。
陽の光の気配を感じる。
まどろみの中のぬくもり、夢の残滓。
はっきりとしない頭の中が、ゆっくりと時間をかけて晴れてくる。
がいなくとも、決して落胆はしない。何度でも夢の中へ迎えに行くつもりだった。
彼女は待っていてほしいと言った。希望は常にあると、今なら信じられる。
大丈夫だ。待っている。いつまでも。
まどろみの中で思いながら、私は目を開けた。
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