書庫では、数人のエルフの人たちが静かに頁を捲っていた。
こちらに気付いたようでふと目が合い、そっと此方から頭を下げる。
向こうはやわらかく微笑むとそっと胸に手を当てて、彼ら独特の挨拶らしい仕草をしてみせた。
皆、わたしの還る手立てについてを調べてくれているという。
ボロミアさんがわたしのことを申し出てくれた際に、何か過去に似た話がないか、役立ちそうな事柄がないかを調べるとエルフの人が言ってくれたらしい。
だから最低限、自らお礼くらいは伝えておくべきだろう。そう思ってここを訪ねてみたのだ。

一通り頭を下げ終わって、改めて書物庫を見る。
静かに流れる時間と空気に、なんとなく懐かしい感じを覚える。
わたしも本は、それなりに好きだった。
もし中つ国の文字が解るなら、自分で本を手に取るだろう。
ファラミアさんに文字や言葉についての指南を受けたことはある、けれどわたしの語学力では、すぐにどうこうなるものではない。

試しにと、傍にあった棚に並ぶうちの一冊をそっと抜き出してみる。
本の表紙の少し冷えた温度、その重さがずしりと手の中に納まる。
どのくらい前に製本されたものかはわからない。
けれど、開いてみると中は思ったより傷んでもおらず、筆記体みたいな流れるような字がひたすら続いていた。
……わかってはいたけれど、まるで読めない。
パラパラと頁を繰って、わたしは頭を振った。完全にお手上げである。
そのまま何事もなかったように、そうっと本を元の場所へと押し戻す。
そしてそのまま、読めないタイトルの立ち並ぶ背表紙をなんとなく眺めていると、

「望みが叶えられるという保証は出来ぬが」

徐に、落ち着いたよく通る声があった。
続いた。

「それでも、そなたの主の意に沿うようにしよう。答えを見つけるには、しばし待つことになるであろうが」
「……どんなふうにお礼をお伝えしたらいいのか、見当もつきません」

思わず佇まいを正してしまう。
このエルフの偉い人には、本当によくしてもらっている。
食事から何から、更には、わたしの身を預かることすら受け入れようとしてくれている。
なんて親切なんだろうと思うと同時に、いっそ土下座してしまいたい気持ちになる。
自分がこれからしようとしているのは、そんなエルフの人達の厚意を無下にする行為だ。
大層申し訳なく思うけれども、こればかりはわたしも譲ることが出来ない。
わたしは、この裂け谷に残るつもりはないのだ。

「今、歯痒く思っていたところです」
「……?」
「文字を解せないばかりに、手伝うこともままならないなんて……自分のことなのに」
「致しかたのないこと、そなたのせいではない。此処に留まり、答えが見つかるのを待つがよかろう」

言葉は、流れるように続いていく。
その音に耳を傾けながらも、(エルフや魔法使いに、心を読むという術がなくて良かった)と正直、安堵を覚える。
もし今のわたしの胸中を見破られれば、これから計画していることは全て破綻するだろう。
わたしはそう思いながらも、精一杯できるだけ、考えを読み取られないように緊張を張り巡らせていた。
「言ってなかったけど実はテレパシーができます」なんてパターンも、もしかしたらあるかもしれないではないか。
身体や表情の強張りが、冷えによるものに見えたのかもしれない。
「寒いか」、
とそのエルフの偉い人……エルロンド卿からぽつりと訊ねの声が落ちた。

「そのように薄着では、人間の身には秋風が堪えるだろう」
「あっ、いいえ! 大丈夫です!」、わたしは慌てて両手を振ってみせた。
「こう見えて、わたし、寒さには強いんですよ!」
「……そうか」

平坦な語気に、一瞬呆れられたかと思った。
けれど、見ればその顔には微かに微笑みが刻まれていて、そういうわけでもないらしいと分かる。
なんとなく会話を繋ぎたくなって、わたしは続けて言った。

「あの、それこそエルフの方達は、寒いの大丈夫なんですか? わたしより軽装に見える方もたくさんいますけど……」
「我々エルフ族は、それ程暑さ寒さを苦にすることはないのだ」
「……えーと」

どういう身体構造なのだ。
一拍置いて、思ったままに「すごいですね」、と言うと、また向こうはごくごく小さく笑った。
そんなやり取りがあった後なので、その後に沈黙が落ちても然程どうとも思わなかった。
それも相まって、
「主は、余程そなたを大切に思っていると見える」
という台詞は、唐突と言えば唐突だった。
何を言われたのか理解するのに五秒くらい掛かった程度には。

「……ボロミアさんのことですか?」
「他の誰かを指したつもりはない」
「えっと……」、
わたしがどう反応したものかまごついていると、何事も無かったかのようにエルロンド卿は再び口を開いた。
「しかし、そなたの主人がここに戻ってくるまでには時間が掛かることだろう。それまでゆっくりここに留まるがよい」 と。

裂け谷の主人の言葉は、ごく淡々としている。
それ故か、却ってその気遣いが痛いくらい伝わってくる。
やっぱりわたしは土下座しておいた方がいいんじゃないかと思い始めていた。
そうして同時に、(そうするつもりなど全くないのだけれど)もし仮にこの谷に残るとしたら、というのを少し想像する。

「不安に思うことはない。この裂け谷にはそなたのように、エルフ以外の種族もいる」

その言葉と卿が見る目の先を辿る。
白髪の小さな背丈の人がいつの間にかすぐ近くにまでやって来ているのに気付く。
ビルボさんだ。わたしが初めて出会ったホビット族の人。
彼は小脇に何やら本を抱えていて、借りていた本を返しにきたのかな、という感じに見えた。

「……ビルボさんも、ここに住んでいるんですか?」
「彼は私の客人だ。今はこの谷に落ち着き、本を書き上げるつもりでいる」

……わたしがもし仮にこの地に留まるなら、彼らと共に、静かに時間を重ねていくのだろうか。
少しそれを想像してみる。
たくさんのエルフに一人のホビット、一人の中つ国の外から来た人間。
皆が親切でやさしくしてくれて、時間を過ごす分には穏やかなものになるのだろう。
多分、それだってきっと素敵なことには違いない。
けれど、……やっぱり、それでは駄目なのだと思う。
ビルボさんはわたし達を仰ぎ見ると、くしゃりと顔を綻ばせた。

「エルロンド卿にお嬢さんとは、これは面白い組み合わせだね」

そう言って見上げてくるビルボさんに、卿はわたしが此処に留まるという(皆の間での予定の)ことを言って聞かせた。
そこにあるのはあっさりとしていながらも親しげなやり取りだった。
彼らもやっぱり、わたしには探り得ない長い付き合いがあるんだろうな、とふと思う。
ここに残るなら、この人達とももっといろんな話をしたり、言葉を交わすこともあったかもしれない。けれど、


「! はい!」

弾かれたように振り返って、その人の方に駆け寄った。
ボロミアさんは上着も羽織らない格好のままで、ここまでやって来たみたいだった。
わたしが傍まで行くと、いつもみたいにこちらの頭を一撫でする。
……やっぱり、わたしの選択肢が変わることはない。最初から、分かりきっていたことだった。

「ボロミアさんも、書物庫を見に来たんですか?」
「そうではない。もうすぐ陽が落ちる時分だ、身体を冷やすのは良くない」

部屋に戻ろう、と言ってくれるあたり、どうも迎えに来てくれたのらしい。
そうそう離れてもいない距離なのに……と思っていると、
「ゴンドールの大将殿」、と声が上がる。
ビルボさんだ。さっきの破顔とは打って変わって、真剣そのものの表情でボロミアさんを見上げている。

「うちのフロドを、どうかよろしく頼みますよ」
「こちらこそ」
わたしの主もそれに応えて、
「時々、の話し相手をして頂ければありがたい。……エルロンド卿にも、改めてよろしくお願い申し上げたい」

そう言って二人に頭を下げるので、わたしも倣って頭を垂れた。
何というのか、この場に居る全員にわたしは申し訳ない。取り敢えず心の中で土下座である。
いつか、彼らに謝ることができればいいと思う。
この地の二人に、また会えるかどうかはわからないけれど。
……また、会えたらいい。謝ること云々を別にしても。
そう思いながら顔を上げる。
裂け谷という場所と時間の中に佇むエルフと老ホビットは、確かに目の前に存在している。
まるで物語に出てくる人達のようだと、ぽつりと、そう思った。






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