裂け谷の夜は、ひどく穏やかだ。
澄んだ空気、静かな夜の中に、遠くの滝の音が絶えず続いている。
見上げれば、月は白くただ輝いていた。
何事もなかったなら、どんなにかいい夜だっただろう。
いや、きっと、わたし以外の人達にとってはそんな夜なのだ。そしてわたしはというと、とても心穏やかではいられなかった。

ボロミアさんに、ゴンドールの人間ではないと言われてしまった。
主は、わたしを案じるが故に、この裂け谷へわたしを預けるつもりだと言う。
つい先程そう告げられたばかりで、わたしはまだ頭の中が整理できていなかった。
情報がごちゃごちゃと自分を掻き回していて、すぐには冷静になれそうもない。

何より、涙を流してしまったのが自分でもショックというか、不名誉というか、何というか。
そう思うけれど、過ぎたことは仕方がない。
寧ろ、自分でもどうしてそうなったのかよく分かっていない。本当に、気付いたら目から涙が出ていたのだ。

(わたし、そんなにゴンドールのこと好きなのかな)

それで、あの国の人間じゃないと言われてショックだった?
それが理由だったとしたら、大好きすぎるだろと自分で突っ込みたい。
でも正直、本当にそうかと言われれば疑問は残る。
もちろんゴンドールは好きだった。ただ、別にあの国の人になりたいなんて思ってはいない。
わたしはどう足掻いても日本人だし、それでいい。

(だったら、何がそんなにショックだったんだろう?)

そんなことを考える。
夜の裂け谷、風はほとんどなくて、谷の景色が一望できるバルコニーでわたしは独り、ぼんやりと思い巡らせる。
だんだんと(ボロミアさんとの間に一つの線があるみたいで、それが嫌だったんだろうな)、という方向に落ち着いてくる。

ボロミアさんはゴンドールの人で、わたしはそもそも、この世界の人じゃない。
わたしと彼との間に、どうやったってひっくり返せない事実があって、それを他ならないボロミアさん自身に突きつけられた。
……それがきっと、わたしにとってはショックだったんだろうな、と納得する。
納得しながら、(我ながらわがままだなあ)と思う。
わたしの主は、決してこちらを傷つけるような意味で言ったのではないのに。

夜空を見上げる。
月も星もきれいだった。
見上げながら思う。

(ボロミアさんと離れるの、辛いなあ)

中つ国に来てから、ずっと自分を見守っていてくれた人だ。
その人は、わたしをこの裂け谷へ預けるという。
本当にそうなったら、次はいつ会えるというんだろう。
辛いなあ。
そう口に出しそうになった時、「」、と呼ぶ声がした。
見ればボロミアさんが近くまで来ていて、心配そうな顔をしていた。さっきのことがあるから、様子を見に来てくれたのかもしれない。

「冷えてきた。そろそろ部屋に戻った方がいい」
「……そうですね」

そう返しながら、わたしは黙って彼を見返した。
何かを言いたかった。
わたしがどんな気持ちか、わたしはどうしたいのか。
言いたいのに、それを言い連ねたところで何かが変わるだろうか。
……きっと、何も変わらない。

?」
「ボロミアさん」

何も変わらない。
それでも、わたしは口を開いた。
真っ直ぐボロミアさんを見て、笑ってみせた。言った。


「――月が綺麗ですね」


伝わらない。
伝わらなくていい。
今のわたしに言える精一杯がこれだった。

主はほんの少しこちらを見返して、次いで空を見る。
そうだな、と応じるその顔は何処か安堵の表情が見て取れる。
わたしが先程の提案を受け入れたものとでも、思っているのかもしれない。
……わたしはどうするべきだろう。この時はまだ、迷っていた。
結局は、自分に正直な行動を取ることになるのだけれども、まあとにかく。

「さあ、戻ろう」
「……はい」

そんないつものようなやり取りを交わして、わたし達は歩き出す。
言えなかった言葉が、ひとつ、夜に溶けていった。






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