まぶたは、そっと閉ざされていた。
表情はひどく穏やかだ。微かに、口元に笑みさえ浮かんでいる。
夢を見ているかのように――彼女にとっては、実際そうとも言えるのだろう――その顔はただ眠っているだけのように見えた。
再びそのまぶたが持ち上がるのではないかという気がする。実際、は一度その目を開けたのだ。
しかし、どれだけ見つめていようとも、再び目が開く様子はない。
私の頬に触れていた手は落ち、胸が呼吸で上下する様子もなかった。
口の端からこぼれた血が、すでに乾き始めていた。
辺りを、走り回る。
本当ならば、ゴンドールに連れて帰りたい。
例えが自身のあの世界で眠りから醒めるのだとしても、こちらではもう目覚めない。
せめて連れて帰って、廟所へと埋葬したい。そう思った。
けれど、彼女自身がこう言ったのだ。
「ああ、あと」、
がこちらへ伝えたいことを話し終え、ゆっくり長く息を吐き出した後、もうひとつ思い出したと言わんばかりに続ける。
「わたしが息を引き取ったら、舟に乗せて川に流しておいてくださいね」
話す傍から口から赤い色が流れ出て、
「もういい、喋るな」
「いえ、でも、これだけは」
制止しても、はゆるく頭を振った。
「じゃないと、ファラミアさんが葬送の舟を見る場面がなくなっちゃいますから」
アンドゥインの方を示してか、彼女は指で方向を指した。
が言うには、この後に物語は「二つの塔」と呼ばれる章に入るという。
その中盤で、ファラミアが舟を見るのだという。本来であれば、私が乗せられていたはずの舟を。
しかし、筋書きは変わってしまった。
これ以上を変えないために、できるだけ元の形に近くなるように、自分を舟に乗せてラウロスの大瀑布に委ねてほしい。それが、彼女の望みだった。
辺りを見る。
見渡すが、探すものは見つからない。
舟に乗せるのその手には、剣ではなく別のものを握らせたかった。
彼女には、護身程度の剣術を指南していた。だが、は戦士ではない。……ならば、その手には違うものを。
せめて、野に咲く花のひとつでも。
木々の間を駆けるが、花が豊かに芽吹くには季節がやや早かった。
それらしいものは見当たらず、闇雲にただ走る。
駆けて、走った先に見出したのは白く小さな花びらだ。
親指の先ほどの大きさしかない。
見逃すかのような小さな花が、木々の片隅にひっそりと咲いていた。
名も知らぬ花だ。つぼみに近く、開ききっていない。人で言えばまだ赤子のそれを手折るのは、忍びなかった。
しかし、今の自分にできるせめてもの贈りものだ。
そう思い直し、手を伸ばす。
茎を折る瞬間、じわりと視界が滲んでみえたが、気にせず摘み取り踵を返す。
舟に彼女を横たえ、荷物も共に乗せる。
胸の上で組ませた両手はすでに冷たかったが、その指に花を握らせる。
どうかが目を覚ますその時まで、自分の代わりに共に在り、彼女を見守ってほしい。そう願い、静かに舟を押す。
最初はゆっくりと川辺を漂っていたが、やがて川の流れにのって、の乗った舟は見えなくなる。
世界は、いつしか色褪せていた。
袋小路屋敷で目覚めて、数日が経つ。
わたしは鞄の中から取り出した日記、その頁の文字を辿っていた。
ロードオブザリングのことを思い出す以前の記録。もちろん、記憶だって鮮明だった。
だからこそ、はっきりと全てを思い出した今になっては、そのどれもこれもが一層愛おしい。
わたしは頁を読み進めながら、ボロミアさんのことを考えていた。今頃、どうしているだろう。
こちらに来てからは、まだ何も書いていなかった。
とてもそんな気にはなれなかった。だから、最後の記録はあの日で止まっている。
何が起こるのかを自分の奥深くでは知りながら、けれど何もできずにただ不安に苛まれていたあの日、あの時の自分。
最後の頁を繰れば、その自分がそこにいるようで少し躊躇う。
このまま閉じてしまおうかと思ったその時、ふと違和感を覚えた。
何かが、最後の頁に挟まっている。
逡巡の後に意を決して開けば、そこには小さな花が挟まれている。
ほとんどつぼみの、白い花びらの花。
本当に小さな花だった。ほぼ押し花の状態だったけれど、まるで身に覚えがない。
誰かが、ここに入れてくれた?
考えてみるけれども、よく分からない。ビルボさんは人の物に必要以上に触れないだろうし、だとしたらここに来る以前のことだろうか。
(ボロミアさん?)
自然と、その人が浮かぶ。
最後に伝えた通り、きっとわたしを葬送の舟に乗せて川に流してくれただろう。
日記の中にわざわざ入れてくれたかどうかは分からないけれど、何らかの形で持たせてくれたのかもしれない。
……うん、きっとそう。
わたしは勝手に、そう思うことにした。違っていたって、構いやしない。
離れていたって、もう会えないかもしれなくたって、それでもあの人が大好きなのだ。
わたしは花を頁の中に残したまま、そっと日記を閉じて胸に抱いた。
しばらくの間ずっとそのままで、ボロミアさんのことを考えていた。
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