ふと、目が覚めた。
開けた視界は薄暗い。音という音も、ほとんどなかった。
程なくして、ここが裂け谷であることを思い出す。貸し与えられた部屋の、寝台の上。
辺りはシンと静まり返り、静寂と薄暗闇だけが佇んでいる。
覚醒したばかりの意識、それでも一瞬息を詰めていたのを緩める。
微かな安堵。
それを、確かに感じ得ていた。
戦の最中での仮眠とは違い、ゆっくりとした眠りに自らを預けられる。ここは護られた場所なのだと改めて思い至り、静かに息を吐き出す。

目覚めて最初に行うのは、自分の状況を確認することだった。
今日はいつだったか。ここは何処なのだったか。
……戦が続くようになってからは、ミナス・ティリスにも戻らず仮眠を取りながら戦うことも多かった。
時折、夢と現実がひどく曖昧になることもあり、いつしか、目覚めてすぐ自分を確認するのが習慣となっていった。
今となっては、何も臆せずに深く眠っては目覚めてを繰り返していた子供の頃がひどく懐かしい。
何を心配するでもなく、明日が必ずやってくると信じていたあの頃。
今は、東の暗い闇に呑まれるまいと抗する術を求めてここまでやって来たが――。


思考は、微睡みの残滓の中に沈みかけていた。
ただ、暗闇が僅かに遠ざかり始めていることは解していた。辺りの様子から、明け方に程近い時間なのだと判断する。
そのまま再び目蓋を閉ざしかけ、しかし、私はゆっくりと瞬いていた。
部屋の向こう側、布の間仕切りを挟んだ更にその向こう側で、ふわりと明かりが灯ったのだ。
私は寝台に横たわったまま、顔だけをそっとそちらに向ける。
蝋燭の火の暖色が、一人の影を映し出していた。

は、上半身だけを起こした姿勢のままでいた。
しばらく見ていても、動く気配がない。
早くに目覚めてひとまず火を灯したものの、未だ眠気がまとわりついている。そんなところだろうか。
早朝の静かな時間の中、私は彼女の影をぼんやりと見つめる。
ほのかな明かりにも拘わらず、その影は思いのほかはっきりと黒髪の娘の輪郭を映し出していた。
起き上がりながらもまだ夢うつつなのか俯いたままの横顔、寝起きで少し乱れた髪。首から背、そして腰にかけてのなだらかな傾斜。
そんな彼女の持つ線を何とはなしに見やっていると、ふと、小さくが動いた。口元に片手を当てるような仕草。
影だけでも、ごく小さく彼女が欠伸をしたらしいことは判る。何とも平和な、平穏なその風景。
無意識に微笑みかけるが、しかしすぐに、はその背筋を伸ばしていた。両手を組んだその腕を真上に伸ばし、それに伴い背伸びをする。
本当にもう起きるつもりなのだろうか、随分と今日は早起きなことだ。
そう薄ぼんやりと思いながら、同時に思う。もう少し彼女の影を見ていたいと。
じきに、自分とは離れ離れになる。この裂け谷であれば、彼女が危険に晒されることはないだろう。
今までのことを見守ってはきたが、改めて、少しでもこの娘のことを覚えておきたい。そう思った。
ただ、それだけだった。
彼女の次の行動を予測したものではなかった。


影は、上に着ていたものをするりと静かに脱いだ。
まだこちらが眠っていると思っているのだろう、物音を立てないようにはしていたが、それでも衣擦れの音は届いてくる。
丸みを帯びたやわらかな曲線、間仕切りの布の上に浮かび上がるその影の輪郭が美しいと思った。
暗い東の影の脅威、長い間それらと対峙してきた自分はいつしか、影というものを忌むべきものと思っていたかもしれない。
しかし子供の頃は、ファラミアと影踏みをして遊んだこともある。
夕暮れの時間、父と母の長く伸びた影を追い抜いて二人の元へと駆け、その手を握りしめたこともある。
ただ忌むべき存在というわけではないのだ。彼女を見つめながら、ふとそんな当たり前のことを思い出していた。


が、蝋燭の火を消した。
明かりが消え失せても、辺りが暗がりに没することはない。先程まであった薄暗闇の気配は既に遠のいている。
彼女はそっと寝台から脚を下ろすと、静かに部屋を出ていった。顔を洗いにでも行ったのかもしれない。
どのくらいの間か私はそのまま動かないでいて――しかし不意に、自分が何をしていたのかに思い至って跳び上がらんばかりに仰天した。
実際、勢いよく上半身を起こしたせいで寝台が低い軋みの音を立てたが、そんなことは意識の埒外だった。
一体自分は何をしているのか。
仕切りの布越しの影とはいえ、女性の着替えを見ていたなどどうかしている。
慌てて頭を振り見たものを追い払おうとする。
だが、できない。
服の下に隠されていたやわらかな身体の線、胸のふくらみの輪郭が頭に焼き付いて離れないのだ。

仰天し、自省し、そして律しようと試みるが上手くいかないという一人芝居をしていた。
そうこうしているうちに、微かな足音が近付いてくる。
正直、ぎくりとした。
咄嗟に毛布を頭から被って横になり、眠っている振りをしてしまう。
戻ってきたらしいは、私の狸寝入りを素直に信じていることだろう。
やがて、髪を梳っているらしい音が聞こえてきた。
その音を聞きながら、私は今なお、影と格闘を続けている。
頭の中にあるものを、未だ記憶の引き出しの中に追いやることすらできないでいる。
彼女が私を起こしてくれるその時まで、眠った振りを続けなければならなかった。






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