「は、海を見たことがあるか」
「ありますよ」
問われて、わたしは即答を返す。
同時に、ファラミアさんはどうしてそんなことをわざわざ訊ねるのだろうと思う。
暖かな日のことだった。
連日でミナスティリスを離れていることが最近多かったファラミアさんが、今日は戻ってきている。
丁度ヨーレスさんに分けてもらった香りの良い茶葉があったので、それを使ったものを淹れると彼はふわりと笑んでくれた。
ファラミアさんがそうやってやわらかく微笑むのを見るのがわたしは好きだ。
他愛のない話をして、時間を過ごしていた。
ファラミアさんとは色んな話を今までにしてきたけれど、彼は特に文化面に関心が高い。
殊に、音楽や言葉の類を彼は好んでいるようだった。
そんな彼から時々西方語というものを習い、また逆に、わたしから日本の文字について何度か教示してもいた。
そして今日はと言えば、水に関する漢字を書き綴って見せていたところだ。
「これは 『 さんずい 』 と言って、水を表しているんですよ」、
海、という字に差し掛かったところで、ファラミアさんは不意にそんな質問を投げかけてきた。
は海を見たことがあるかと。
だからそのままを答えた。ありますよと。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「そんなこと、か」
率直に訊ね返せば、彼はゆっくりと呟いた。
わたしが不思議そうな顔をしていたらしく、ファラミアさんは苦笑いともとれる表情を浮かべた。
実際、海を目にしたことなど何度もある。それは誰もがそうなんじゃないかと、わたしは思い込んでいた。
故に、ファラミアさんの言葉の意図がどういうものなのか、この時はまだ上手く呑み込むことができないでいた。
ややあって、彼はそっと口を開いた。
「私は海というものを、まだこの目に映した事がないのだ」
その言葉の意味を解釈するのに、いくらか時間が必要だった。
理解に達した時でさえ、わたしは彼に揶揄されているのではないかと勘繰ってしまったくらいだ。
けれどすぐにそれを打ち消した。
ファラミアさんはそういう人ではなかったし、もし揶揄するにしても嘘をつくような人でもない。
「……海を見たことが、一度もないんですか?」
「ない」
今度はファラミアさんの方が即答したので、わたしは思わず黙り込んでしまう。
この世界の地図を、何度か見せてもらったことはある。
確かゴンドールは海と面していたような気もするけれど、記憶は曖昧だった。
もしそうだとしても、海際に住んでいるのでなければ目にする機会などそう無いのかもしれない。
そんなことを思ううちにも、静かに目の前の人は言葉を繋げる。
「私も、兄も、話に聞いたことがあるだけで。――そう、昔よく、母が海について話してくださったのを覚えている」
口調の端には懐かしさを愛おしむものがあった。
ファラミアさんの両目の、高く澄んだ空のようなブルーが静かに光を湛えている。
それだけで、この人が海というものに何か特別な思いを抱いているんだろうな、というのを感じ取ることができた。
わたしはまだ沈黙したままだった。
「日本は確か島国だと聞いた覚えがあったのでな。なら、海を見たことがあるのではないかと思い至ったのだ」
「…………」
「。よければ海がどのようなものか、教えてもらえないだろうか」
私は以前から見ることを願ってきたのだが、なかなか叶わなくてな。
ファラミアさんの唇から紡ぎ出される言葉を耳にしながら、その間もわたしの沈黙は続いていた。延長戦に突入しそうな勢いだった。
彼は、いろんなことをよく知る人物である。
薬草園に咲く草花のほとんどの種類を言い当て、書物庫の蔵書もほぼ全てを読破していると聞く。
そんなファラミアさんが海を見たことがないとは、本当に考えもしなかったのだ。
わたしは今になって、最初の彼の質問に「そんなこと」と言ってしまったのを後悔していた。
後悔して、呆然とさえしていたかもしれない。
ファラミアさんが先程わたしに向けて言った言葉を、いつの間にか繰り返していた。
「海……、海が、どんなものか……ですか」
「教えてもらえるか?」
「うーーーん……」
わたしは考え込んだ。
何かを言おうとしたものの、そっと此方を窺うファラミアさんを前に思わず口ごもってしまう。
海を一体、どう説明したものだろう。
中つ国になくわたしの世界にある物ならば、今まであれこれと数多く説明してきた。
しかしまさかここにきて、海そのものについてを説くことになるとは思っていなかったのだ。
そしてこれが、意外に難題なのである。
何処までも果てない広大さ、満ちては引いていく波の音色。
水面の煌めき、鼻腔を突き抜ける芳しい潮の香り、時間に彩られ変化していくその色の数々。
それらを一体どんなふうに伝えればいいのだろう。とてもわたしには、上手く伝えられそうにもない。
ファラミアさんはわたしの答えを待っている。
わたしは正直、困ってしまった。
自分がもっと、話伝えることが上手であれば良かったのに。
「ああ、すまない、」
よっぽど煮詰まって見えたのか、ファラミアさんはわたしを手で制した。
伝えるのが難しいのであれば無理をせずともよいのだ、そう言って此方を気遣いすらした。
けれどわたしは少しでも彼に伝えたい、何でもいい、ファラミアさんに教えられることは何かないのだろうか。
彼の方を見ると、向こうもわたしを見返してくれる。
その目の青は、何処までも穏やかさに満ちていた。それはまるで、
「――そう、ファラミアさんの」
不意に思い当たって、わたしは彼の名を辿った。
彼はこちらを見て一度だけ瞬いた。続けた。
「ファラミアさんの目の青色に近いような気がします。海の色は」
「……私の目に?」
「はい」
わたしは肯いてみせた。
近い、と言ったのは本当のところ、ファラミアさんの目は空の色のようだと前々から感じていたからだ。
彼のそれは、海よりも空(そう、例えば日没後の空、夜の闇色が満ちる前、ほんの僅かな時間染め上げられる、何処までも深くて繊細で透明な青)をイメージさせるようにわたしはこっそりと思っていた。
「……ファラミアさん?」
わたしは彼に声を掛けた。
ファラミアさんが何故か黙ってしまったからだ。
彼の視線はテーブルの上に置いてあるわたしの手の辺りに落ちている。
それなのにここではない何処かを見ているかのような感じだったので、わたしはちょっと心配になった。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか。そう思い始めているところに、
「……母が」
と突然ぽつりと彼は呟いた。
「母が、子供の頃の私に、同じことを仰っていたのを覚えている」
「え?」
わたしは少しぽかんとした。
大して長くない言葉だというのに、すぐにその内容を把握できなかったのは思い掛けない台詞だったからか。
ファラミアさんは下に向けていた顔を持ち上げると、何処か照れくさそうに笑んだ。
「もそう言ってくれたことが、とても嬉しい」
「それは……何よりです」
取り敢えずそう言い繕う。
ファラミアさんは遠い追憶を愛でるように変わらず微笑んでいて、わたしは少し安堵する。
安堵しながら、それでも頭の何処かで思う。
ファラミアさんのお母さんも、 『 海に近い色をしている 』 と彼の目を見ながら告げたのだろうか。
もしそうなら、その人もまた、彼の目の色を空の色だと感じていたのだろうか。
……流石に、それは深く追求し過ぎかもしれないが。
そしてその時、ふと、頭に浮かんだことがあった。
考えたのではない、勝手に頭の中に、その思いは降ってきた。
青という同色のイメージなのにもかかわらず、わたしが空を連想し逆に海を思い浮かべなかったのは、きっとファラミアさん自身が海を見たことがないからなのに違いない。
空ばかり見ているから、彼は空の色彩をその眼に吸い込んでしまっているのだ。
……なんて、メルヘンな。
思わず自分でぶるぶると頭を振っていると、目の前の人は不思議そうに
「どうかしたのか」と訊いてくる。
「いえ、何でもないです。――ファラミアさん」
「……?」
「海は、これから幾らでも見る機会を作れますよ、きっと」
「……そうだな」
「わたしも、中つ国の海を見てみたいです。だから、見に行く時はわたしも連れていってください!」
いつもと、何も変わらない軽い調子でわたしは言った。
だから、ファラミアさんも同じように、いつもの調子で答えてくれた。
「ああ。その時はも連れていくと約束しよう」
「約束ですよ?」
「ああ」
そんな約束をしながら思った。
きっと、海を見ることが出来た暁には、彼はその青を自分のものにするだろう。
わたしは、海を想わせる青を目に宿したファラミアさんも見てみたいのだ。
いつか本当に、その目の青に、海の色彩が加えられる日が来るといい。
わたしはそう願った。
▲NOVEL TOP