ふと、何かが聞こえたような気がした。
頭の何処かでそう認識するものの、特にそれを気にするわけではなかった。
風が窓を揺らしただけかもしれないし、部屋の外を歩く者の衣擦れかもしれない。或いは空耳ともしれない。
戦場であればこそ常に神経も研ぎ澄ましていようが、自室で過ごす夜という時間、ひたすら書に目を通し続けていたこともあり、何とも思わなかった。

ふと脇に目をやれば、片付け終えた仕事の証跡である羊皮紙が小山のように積み上がっている。
僅か数日ミナス・ティリスを離れていた間に溜まったにしては、いささか目を背けたくなる量。
黙々とこなすうちにその大半は仕上げ終わったものの、全てに手を付けていては夜が明けかねない。
無意識にペンを置き、眉間に手を当てる。
もともと、机に向かう性分とは言い難い。それでも今日は身が入った方なのではないかと思えた。
ふと正面の小窓を仰ぐと、欠けのない月が高い空の上で煌々と輝いている。
いつの間にあれほど高くまで昇ったのだろう。
夕食の時には、まだその姿を見つけられなかったように思うが。

、今何時だろうか」

月を見上げたまま、自然とそう口にしていた。
この部屋にも時計はあったが、少し前から調子が悪く、たまに時の歩みが止まってしまうことがある。
修理が必要だったものの、戦場に赴く機会が増えるにつれここで過ごす時間も減る一方で、なんとなくそのままにしてしまっていた。今指しているのが正しい時刻かどうか判らない。
対しての持つ「腕時計」なるものは、驚くほど小さい造りであるにも関わらず、精度の高いもののように思えた(本人は、「安物ですよ」などと笑っていたが)。
彼女に訊ねる方が良い。そう思い傍らで控えているはずの娘に声を掛ける。
けれど、返事らしいものは何もなかった。
穏やかな静けさがただ、そこに在るだけだった。

「……?」

私は振り向き、自分の部屋を見渡した。
飴色のランプの暖色がやわらかく灯る空間の中、一瞬、彼女が何処に居るのか判らなかった。
いつもならすぐに返事を返してくれるはずであったし、その娘の姿は目に留まりやすいものだった。しかし、今日は。
何度か目を瞬いて、が長椅子の上で身体を横たえ目を閉じているのを見つけて嘆息する。
眠っているのだろうか。
足音を忍ばせて近付き、彼女の側に屈む。
そっとその腕を取っても反応は特にない。寝息らしい寝息もないが、やはり眠っているのだろう。
手首に巻かれた小さな時計盤を覗き込むと、思ったよりもずっと遅い時刻を示していた。
悪い事をしたと思う。
机仕事が終わったら互いの話をしようと約束していたのに、つい私の方で時間を掛け過ぎてしまったらしい。
待ちくたびれてしまうのも無理はない。

そんなことを思い巡らしながら、何とはなしにの顔を見やる。
今にもその目蓋が持ち上がりそうだ。
何処となく、起きているのではないかという印象。眠りに落ちて間もないのだろうか。
無理せず自分に一声掛けて、部屋に戻れば良かっただろうに(もっとも、自分が先にそう促すべきだったのだろうが)。
改めて悪いことをしたと思い、の黒髪をそっと撫でる。
目覚める様子はなかったが、ピク、とその身が微かに震えた。
その音さえ聞こえそうなほどの緩やかな静の中で、自分とだけがここに居た。
彼女がこうして私の部屋に長く留まるようになったのはいつからだったろうか。

少しの間髪だけを撫でていた。
しかし目を開ける様子がないのでほんの少し遊んでみたくなり、指先を頬に滑らせてみる。
眠っていてもくすぐったいのか、身を縮めて猫のように丸くなるのが何だか面白くてふっと息を漏らす。
しかし、ここでいつまでもを寝かせておくわけにもいかない。
彼女の部屋に送り届けようか、それともすぐ傍の自分の寝台に横にさせるか。
取り敢えず抱え上げようとそっと背に手を回したところで、何の前触れもなくが目を開けた。
目が合った。
灯りを後ろ背にしているので、彼女の上には私の影が落ちている。
その仄暗い視界の中でも、の目の中の色濃い光彩がすっと窄まるのがわかった。
思わず身体の動きを止め彼女の反応を待ち受けたが、向こうの行動は予想したものとは違っていた。
ぐ、と肩に力が掛かった気がした時には遅く、危うく彼女の上に倒れ込みそうになる。
の背を支えていたのとは別の方の手を突っ張って、何とかそうなる事態は回避したものの、しかしこれはどうしたものか。

「おいっ、……」

思わず言うが、反応はまたしても無くなってしまった。
自分の首に両腕を回し、思い切り抱きついた格好のままで。どうも、寝ぼけていたらしい。
これには少々、困ってしまった。
呼び掛けてもまるで目を覚ます気配はなく、引き剥がそうにも意外としっかりと巻き付いた腕はなかなか離れない。
この細腕の何処にそんな力が隠れているのだろう。
どうしたものかと思っていると、ノックの音と共に聞き慣れた声が届いた。
まだ起きているかと部屋の外から訊ねてくるのはファラミアだ。
おそらくまだこの部屋に灯りが点いているのを見てやって来たのだろう、丁度良い、弟に事情を伝えて助けてもらうか。
そう考えて、中に入るように言う。
しかしファラミアは此方の様子を一目見るなり一瞬言葉を失った。
表情こそいつものそれだが、兄を見るその目は何処か生あたたかい。
何故そんな目で私を見るのだ。思わず顔を顰めそうになる。

「か、勘違いするなファラミア、私はただを寝台に運ぼうとしていただけで……」
「……兄上。が起きていたなら、今のお言葉について何と言うか、私には分かりますよ」
「何だ、それは」
「『 フォローになってません 』 と言うでしょう、聞きようにもよるでしょうが」
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですが」

そう言って向こうは苦笑いのようなものを浮かべる。
この賢い弟は、多くを語らずとも今私が置かれた状況を理解しているはずである。
それを知った上で、こうして兄には理解し得ない言葉を吐く。
ファラミアはいつからこのような言動をするようになったのだろう。
溜め息をつこうとしたその時、
「ボロミアさん」、と微かながらも直ぐ耳の傍で囁かれた。が寝言を呟いている。
ああ、机に向かっていた時に聞いた物音の正体はこれか。しかし何故、口にするのが私の名なのだろう。
そう思うが早いか、彼女は今よりも尚強くしがみ付いてきて、私は混乱し、硬直した。

「ファ、ファラミア! とにかくをどうにかしてくれ!」
「そのように叫ばれずとも聞こえています、兄上」

やれやれと言いたげにも見える弟が彼女を何とか剥がし、その身体を横たえさせた頃にはとうに日付の変わる刻を過ぎていた。
明日にもなれば笑い話になりましょうと言って笑うファラミアを帰し、目蓋を閉ざしたままのの隣に腰掛け彼女を見下ろす。
何事も無かったかのような顔で眠っていた。
また一つ息をついたが、溜め息ではなかった。
くしゃりとその頭を撫でた下の寝顔は子供のようで、ほんのりと幸福に彩られて見える。
まったく、と誰に言ったのでもない呟きは、流れていく夜の時間の中に融けて消えた。






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