オリオン、カシオペア、アンドロメダ、ケフェウス、ペルセウス──。
「ベガ、デネブ、アルタイル、シリウス、スピカ……えーと、後は」
「一体それは何の呪文だ、?」
わたしが指折り数えていると、耳慣れた声が後ろから掛けられた。
人通りの少ない広間の回廊、こちらへゆっくりやって来るボロミアさんは、何か面白いものでも見るように口元に笑みを浮かべている。
それにしても、呪文とは。そんなに怪しい響きだったろうか。
「……魔法の詠唱みたいに見えましたか」
「私にはそのように聞こえたのだが、違うのか?」
「いいえ、違いませんよ。どうして判っちゃったんだろうと思いまして」
アンタレス、デネボラ、プロキオン、リゲル、ケンタウルス、エリダヌス……。
素知らぬふりで適当に話を合わせながら、また幾つか口にしてみる。
けれど、これ以上はどうひっくり返っても思い出せそうにない。
わたしの知識では、これくらいが限界である。
脳内の記憶をあらためて簡単にさらっていると、その間に隣にボロミアさんが立った。
「──で、何の呪文なんだ、今のは」
「何だと思いますか」
「皆目、見当もつかんな。の使いそうな魔法など、恐ろしくて想像できない」
「……たまにサラッと、そういうこと言いますよね、ボロミアさん」
彼の中で、わたしは一体どんなイメージが形成されているのだろう。
そんなことを思うけれど、まあ、それはさておき。
わたしとボロミアさんは、すぐ傍の大窓の向こうを見やった。
ひゅう、と空気の流れを感じた。風が穏やかに通っていく。
季節が移り変わろうとしている時期だった。
今は比較的気温が高いようだけれど、それでも、わたしに言わせれば控えめなものだと思う。
風の匂いが、夏の終わりを感じさせた。
暗がりの降りる階下の所々に、灯された火の暖色が宙に浮かぶように存在している。
暮れた空は紺青で、夕の気配はほとんど消え、夜の時間に入っていた。
雲はいつもより大分少なく、広がる空から天上が覗けている。
「今日は空が寂しくないですね」
「うん? ……ああ、そうだな、星が見える」
「月も一緒ですしね」
音もなく浮かぶ半月、その周辺にまばらに散っている点々が時折瞬いていて、其れはそれなりの数を成している。
さて、それでは訊ねてみようか。
わたしは改めて、彼を見上げた。
「ボロミアさん。さっきの 『 呪文 』 の中で、聞き覚えのある単語はありませんでしたか」
「……いや。私にとっては初めて耳にする言葉ばかりだったように思うが」
「そうですか」
「何か私の知り得る言葉だったのか、さっきのは」
「……ボロミアさんは、星座にご興味は、おありですか」
「星の並びの見立て名か」
「あ、そう言えばいいんでしょうか。さっきわたしがさらっていたのは、それらの呼び名なんですが」
やはり中つ国のそれとは違うのだろうか。
もしかしたら星でなら、自分の居た世界と何らかの共通点が見出せるのではないか。そう思いついたのだけれど。
わたしはボロミアさんの様子を窺いながら、そのまま続けた。
「知ってる星や星座が見つからないかなと思って、空を見ていたんです。生憎わたし自身、あんまり星に関する詳しい知識はないんですけど……ひとまず覚えてる分の星や、星座をおさらいしてたんです」
「そうか。ニホンではあのような言葉で星々を呼んでいるのか」
「まあ、そんなところです」
日本だけではないと思うが、まあとにかく。
ボロミアさんの反応からすると、星の呼び名もここでは異なるようだ。
……いや、まだ決まったわけではない。もう一人くらい、誰かから話を聞いてみた方がいいだろうと思う。誰がいいか。
すぐに、ファラミアさんの顔が浮かんだ。こういった分野は彼が強そうだ。
今すぐどうこうというのではないけれど、会えた時にでも訊いてみたい。
あの人は今どうしているだろう、まだ執務の最中だろうか。
「……そういえばボロミアさんは、お仕事、一区切りつきましたか」
「ついたからここに居る」
「今日は、いつもよりお早いんですね」
「思ったより捗ってな。茶の一杯でも飲んで一息入れたいと思って出てきたところだ」
「──お茶でないのは申し訳ないのですが、代わりにこれは如何ですか、兄上」
チン、と軽くグラスとグラスの触れ合う音。
いつの間に傍に来ていたのか、ファラミアさんが杯と酒瓶らしいものを両手にして立っている。なんて間のいい人だろうか。
彼はこちらを見るとふわりと笑んだ。
「上物の葡萄酒が入ったそうなので、良ければどうかと」
「いいな、月見酒といくか」
「……は、茶の方が良いか?」
「いえ、頂きます。そのお酒」
ファラミアさんが気に掛けて言ってくれたのを手で制し、わたしは目の前のものを所望した。
一度くらい、この世界のお酒の味を試しておくのも悪くない。そう思って。
わたしは軽い気持ちでそう言ったのに、彼らは少しばかり吃驚するような目でこちらを見た。
「……は酒が飲めるのか?」
「飲めないことはないです、普段はそう口にしませんけど。……何ですかボロミアさん、わたし、もう充分お酒飲める年ですよ?」
ファラミアさんから拝借した杯に酒瓶の中身を注ぎつつ言う。
向こうは言葉もなく目を瞬いていたけれど構わず、鼻腔に抜ける独特の香りを吸い込んでみる。
思ったよりも爽やかな芳香ではあったけれど、度数は高いのだろう。色はほとんど黒に近い紫。
たぶん、高級品なんだろうなあ。
そう思いつつそろそろと一口を含んでみると、ゆるやかに特有の風味が広がる。
甘味と酸っぱさが何処か、煮詰めたジャムを連想させた。想像したようなきつさが無かったので、意外と大丈夫だった。
一杯飲みきってしまうと、二人は「本当に飲んでしまった」とでも言いそうな顔つきでこちらを見る。
「……なんでそんな目でわたしを見るんですか、お二人とも」
「いや……弱い酒ではないはずだが、大丈夫か?」
「今のところ、大丈夫っぽいです」
「それなら良いのだが。味の方はどうだ、口に合ったか」
「どの国のもお酒というのはお酒なんだな、というのがよく判りました」
「……それは感想と言えるものなのか」
「わたしなりの感想なんですが──ああ、それよりファラミアさんにお訊きしたいことがあったんでした」
二人もそれぞれに葡萄酒に口をつけ始めるのを見ながら不意に思い出す。
わたしはさっきの星や星座の名称を幾つか羅列して訊ねた。聞き知った単語はこの中にはないかと。
結果はボロミアさんと同じである。
まあ、仕方がないかと思う。
わたしの世界と中つ国が結びつくこと自体、大変だというのは前々から承知のことだった。
ただ少し、何かほんのささいな繋がりでもあれば。そう思ったのは事実だけれど。
天を仰いだ。
綺麗な夜空なのにも関わらず、少し、ほんの少しだけ気が滅入りそうになる。それというのは、
「わっ」
わたしはつい声を上げた。
ボロミアさんが片手を伸ばして、わたしの頭をグシャグシャと掻き回してきたので。
一体何だというのだろう、突然。わたしは身を退き、慌てて頭をガードした。
「な、何ですかっボロミアさん!」
脈絡なくグシャグシャにしてくるの、ひどいじゃないですか。
両手で手遅れの頭を防御しながら言うと、しかし、向こうはしれっとした表情のまま、
「酒はそんな顔で飲むものではない」
と言ってのける。
「、このように気持ちの良い夜なのだ。難しいことは考えない方がよい」
「……ボロミアさん、酔うのあまりに早すぎるんですけど」
「酔ってなどいない」
「酔ってる人は 『 酔ってない 』 って言うものです」
「……そう思うのならそれでも構わん。だがな」
見た目全くの素面のその人は一度そこで言葉を区切る。
気付けばとうに窓の外は夜の色に沈んでいる。風が、その色に染まっていた。
いつの間にやら空になっていたグラスに二杯目をいっぱいに注ぎ終え、彼は一口それを呷った。
飲み下した。続けた。
「暗い顔ではなく、笑っている顔のがいてくれる方が、我らの酒も美味くなるというものなのだ」
……見た目は素面だけれど、ボロミアさんは酔っているのに違いない。
息を吐いた。
さっきまで色々考え込んだりしていたのが、急にどうでもよいことのように思えてくる。
またわたしの頭を撫ぜてくるボロミアさん、されるがままの自分、それを何処か苦笑いしつつも見守っているファラミアさん、上質の葡萄酒、涼やかに抜ける風。
一つの季節の終わりを迎える夜に、そんな時間の記憶がわたしの中に刻まれた。
空を仰ぎ見ると、それがどんな空であっても思うことがひとつあった。
こうして見ている太陽は、月は、星は、自分が今まで居た世界で目にしていたものと果たして同じものなんだろうか。
今一度、夜空を見上げた。
静かにそこに在る月に星々、それらは相も変わらず静かに光を放っている。
わたしが今まで見ていたものと、同じものであればいい。
願いにも似た思いを、ぽつりと、思った。
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