ローハンの夜が明ける。
わたしはゆっくりと空気を吸って吐いていた。
雨に洗われた朝の空気は澄んでいて、とても気持ちがいい。……睡眠不足の頭が、少しでも冴えるようにと深呼吸を繰り返していた。
ローハンでの最後の夜、つまり昨夜はいろいろと、まあいろいろとあって、わたしは寝つかれずに体力がまるっきり回復していない。
誰のせいとは、言わないけれど。
朝の空は、雲が残っているけれど明るい黄金色を透かしていて美しかった。
微かに風が渡っていく。
朝露に濡れた草や土の匂いを含んでいて、ローハンという国の晴れた朝はこんなふうなんだな、と思った。
「」
「……おはようございます、エオウィンさん」
声に振り返れば、エオウィンさんが立っている。
こちらの顔を見るなり目を瞬いて、
「どうなさったの?」と訊ねてくる。
「昨夜は眠れなかったのかしら?」
「もうローハンとお別れだと思うと、寝るのも惜しくって」
さらりとそれっぽいことを言える程度には、頭は冴えてきたみたいだった。
それにしたって、やっぱり一目見て(眠れていなさそう)に見えるくらいには眠そうな顔をしているのか、と思う。
ぐぎぎ、と我が主の顔が一瞬浮かんだけれど、浮かんだけれど……まあ、許そう。
つい先程、朝の挨拶をした時にとてつもなく申し訳なさそうにしていたのを目の当たりにしたばかりだし。
偉そうにもわたしは、そう考えることにした。
……偉そう、というならもう一つ。
わたしはふと、目の前の姫君について思い巡らせる。
エオウィンさんは姫なわけで、最初のうちは気付かなかったにせよ、今みたいに「さん付け」のまま呼んでいてもいいものだろうか。
少し前から思っていた疑問を、今になって急に考える。このタイミングですることではないのだろうなあ、とは思うけれども。
今のところ誰に咎められるでもなく、本人からも何の言及もない。
とはいえ、姫だと分かった時点で修正するべきだったかなあとも思う。
でもなんて呼べば? エオウィン姫? 姫さま? ……えーと、あと他に何かある? 姫姉様? ナウシカか。
「本当に短い滞在だったのが残念だわ」
「でも、急だったのに助けて頂いて。本当にありがたかったです」
心の中での協議はひとまず置いておいて、そう応酬する。
中つ国で訪れた国の二つ目であるローハン。ここで過ごしたのは、確かに短い時間だった。
それでも、良い人たちに巡り合うことができた。それは単純に嬉しいことで、きっと思い出になるだろうなと思った。
エオウィンさんは微笑んで、ふとこう言った。
「甘いものはお好き?」
「大好きです」
答えれば、手にしていた小さな皮の袋を二つ手渡してくれる。
目だけで(何ですか?)と問えば、(開けてみて)と向こうも目だけで返してくれる。
そっと片方の口の紐を緩めてみれば、小さな丸い粒がいくつも詰まっているのが見えた。今空の上にある光を集めたような、柔らかな黄金色の球体。
「蜂蜜飴。疲れた時に召し上がって。道中、甘いものが恋しくなるかもしれないから」
「えっ、どうしようすごく嬉しいんですけど……!」
エオウィンさんがとても優しい……!
思わず本音でそう口にしてしまうと、姫はふふっと堪えきれないみたいに笑った。
「そんなに喜んでもらえるなんて」
「嬉しいです! 大事に食べますね」
言って、自分のバッグに納める。
……そんなやり取りをしたのが、つい数日前のように思える。
カラズラス。
白い雪がずっと続く中での、ひとときの休憩時間。
取り出した皮袋の中の飴玉は、もらった時と変わらない光を讃えている。
「ボロミアさん、どうぞ」
「ああ」
皆に配ってもう残りは少なかったけれど、それでいいと思う。今が使い時だろうから。
ふと、ローハンにいたあの時の小さな疑問がまた浮かび上がった。
結局最後まで、「エオウィンさん」で通してしまった。それで良かったのかなあ問題が。
ちらっとそれについて考えるけれど、それを言ったらボロミアさんだってそうだ。
彼だってゴンドールの偉い人なのだから、今みたいに呼んでいていいのか問題に発展してしまう。
でも、ボロミアさんはボロミアさんだ。
そう思うと、やっぱりエオウィンさんもエオウィンさんでいいのかな、と思う。……うん、今は、そういうことにしておこう。
「どうした? 」
「いえ、……ローハンにいたのがついこの前みたいだなって。思い出してたところです」
「そうか。……そうだな」
言って、わたしの主は目を細めた。
わたしも一粒手にとって、口の中にそっと滑り込ませる。
鼻と喉の奥がツンとする冷えた空気の中にいながら、目を閉じてみる。
土と草原を渡る風、遠くから聞こえる馬の嘶き。
今は遠く離れているはずの、ローハンという馬の司の国。あの国の風と空気の匂いが、すぐ傍にあるような気がした。
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