●休息の時間
ボロミアさんは忙しい人だ。
執政の館にいれば、机の上で何か書き物をしていることも多い。
かと思えば、ふと窓の向こうを見ると剣の鍛錬をしていたりする。
一人の時もあったし、誰かと手合わせしているのを見掛けることも度々あった。
(疲れを知らないんじゃないのかなあ)なんて思う時さえある。
ミナス・ティリスに滞在し始めてまだ数ヶ月しか経っていない、その頃のわたしがそう感じるくらいには、ボロミアさんは疲れ知らずに見えた。
初夏。
そう言って差し支えない暦に入った。
もっとも、わたしのイメージする爽やかな季節とはやや違っている。
梅雨があるわけでもなく、かと言って清々しい日差しが感じられるかというと、イマイチそういうわけでもない。
東の空は、いつ見ても暗い気配に満ちている。
とはいえ、過ごしやすい季節なのには違いなかった。
ボロミアさんの執務室を訪れると、彼は何かの書類に目を通しているようだった。
この頃には既に、小間使いの真似事みたいなことをし始めていた。
時々するように、部屋の空気を入れ替えようと窓を開ける。
ふわりと滑り込んでくる外の風は、わたしの記憶にある初夏の匂いを微かに含んでいた。
振り返れば、ボロミアさんは難しい顔で書き付けと睨めっこを続けている。
……と思えば、一瞬その目がこちらを捉えた。ふっと目元が和らいで、笑ってくれる。
表情の変わるその様子は、どういうわけだか少年のような印象でとても不思議だった。わたしよりずっと年上の人だというのに。
そう思うよりも先に、笑いかけてくれたのが嬉しくてこちらも口の端っこを持ち上げる。上手く笑い返せていたかどうかは、分からないけれど。
紙の束の端が少しだけ風に捲られそうになるのを、載せられた文鎮が阻んでいた。
そして同じように、わたしが開けた窓から流れ込む風に、彼の肩先の髪がかすかに揺れる。
ボロミアさんはすぐに羊皮紙に目を戻して、真面目な顔に戻ってしまう。
(もう何時間も座ってるんじゃないかな……)
そう思いながらも、言葉をかけるのは躊躇われた。
この世界に来てまだ日が浅いし、身分の差もよく分からない。けれど、なんとなく「邪魔をしてはいけない」という空気は察せられる。
わたしはそっと、部屋の片隅に積まれていた書物を整えたり、使われていなさそうな燭台を布で拭ったりして時間を過ごす。
気づけば窓からの風も少し冷たく感じられるようになっていた。
ふと視線を戻すと、ボロミアさんの動きが止まっている。
「……え」
机に突っ伏すようにして、彼は眠っていた。
腕を組んだまま、それを枕代わりにして。
彼の頬にかかる髪が、風にふわりと揺れる。
(寝オチしちゃってる……?)
それはちょっと意外だった。
あのボロミアさんが、こんなふうに? 疲れるという概念、あったんですか? ……意外。
内心そう思うけれど、すぐに(まあ、そうだよね)とも思う。
同じ人間なんだから、疲れもするだろうし眠たくなる時だって、あるに決まっている。
ほんの一瞬迷ったけれど、わたしは部屋の隅に置かれていた上着を手に取って、そっと彼の背に掛ける。
静かに、音を立てないように。
起こしたくはない。
掛け終えたとき、指先がほんの少しだけ彼の肩に触れた。
しっかりした、大きな肩。
その肩には、何が乗っているんだろう。
ふと、そんなことを思う。ほんの一瞬だけ。
頭を振る。とりあえず今は、休んでほしいと思った。ここは、貴方の部屋なのだから。
●主の不在
残されたわたしは、椅子に座って辺りを見回していた。
つい先程まで、ボロミアさんがいた空間。机仕事の休憩がてら、話をしていたところにノックがあった。
呼びかけに応じたボロミアさんは、わたしに
「今日はもう部屋に戻って休んでいるといい」と言い残して行ってしまった。
やっぱり、忙しい人だ。そう思った。
主のいない部屋。
言われたとおり、与えられている仮の自室にすぐ戻ればいいのに、何故だかそうする気持ちにならない。
ボロミアさんがいなくても、彼の存在を感じることができる。そんな気がする。
ゆっくりと視線を巡らせる。
仕事机に椅子、それとはまた別に長椅子があって、本棚もある。
わたしは長椅子の方に腰掛けた。すごくふかふかの座り心地で、気に入っている。そのまま、少しぼんやりと時間を過ごす。
この部屋はボロミアさんの書斎というか、仕事部屋に当たる。他にも別にいくつか部屋があって、自室や寝室ももちろんある。
わたしを庇護してくれている人物が過ごす、空間の一部。
そんな空間の中には、そこかしこにボロミアさんらしさがあった。
少し乱雑に積まれた書類の山。
椅子の高さ、読みかけの本の置き方、あの文鎮や、机に残されたペンの位置。そんなひとつひとつに、わたしの主らしさが滲んでいる。
ふと、思った。
(こんなにも誰かのことを、こんなふうに見つめたことって、あったかな)
わたしは正直言って、あまり他人に関心がない方だ。
それなのに、どうしてだかボロミアさんのことは目で追ってしまう。
今はこの場にいない、わたしの庇護者。
さっきまでは確かにここにいた、その人。
何故だか、この部屋が好きだった。彼の気配を感じられる、この部屋が。
●また、いつか
オスギリアスへ向かわなければならない。
ついさっき、ファラミアさんからの書簡を受け取ったばかりだった。
ここ最近、ボロミアさんやファラミアさんには会えていなかった。二人とも、戦いに出ていたのだ。
だから、モルドールからの攻撃に打ち勝ったらしいという知らせが届いた時にはホッとした。心から。
そうした矢先に届いた書簡には、オスギリアスに来るようにと綴られている。
今頃、盛大にお祝いがなされているはずだ(と周りの人たちが言っていた)。
自分が呼ばれる理由は特に書かれていなかったけれど、今ここで勘繰っても仕方がない。
むしろ、ここで待っているよりも早く、ボロミアさん達に会えるかもしれない。
そう思うと、(早く準備しなくちゃ)という気持ちになってくる。
与えられていた自室に向かう。
荷物をまとめるために向かうその途中に、ボロミアさんの部屋がある。
足を止めた。
片手で扉に触れると、ひやりとした感触が伝わってくる。
ボロミアさんがいない間は、勝手に入るのも憚られた。
それに、最近はわたし自身、寮病院の方に出入りすることを優先していた。
それだけ、オスギリアスで傷を負う人が多かった。運び込まれる人達を見て、(本当に戦ってるんだ)というのをまざまざと思い知らされた。
そんな状況だったので、主の部屋を訪れたのはしばらく前になる。……いつだったろう、最後にここを訪ねたのは。
扉を見る。
その向こうにある部屋の空気を、思い出せる。
ボロミアさんが戻ってくるだろう部屋で、またあの人と話がしたい。そう思った。
「また、いつか」
そう呟いて、わたしはそっと主の部屋から離れた。
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